紀元前490年
マラトンの戦い(日付は諸説あり)。アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝遠征軍を撃破。マラトンからアテナイまで走って勝利を伝えた兵士の故事がマラソンの起源となる。
紀元前490年、アテナイ・プラタイア連合軍がペルシア遠征軍を破った古代ギリシャの戦い。伝説の走者がマラトンからアテナイまで勝利を伝え、マラソンの由来となった。
紀元前490年、ペルシア帝国の大軍がギリシャ侵攻を企てマラトン平原に上陸した。アテナイとプラタイアが急遽連合し、数で劣るにも関わらず奇襲をかけてペルシア軍を撃破した。戦闘後、一人の兵士がマラトンから約40キロ離れたアテナイまで走り、勝利を報告したとされる。彼の奔走は『マラソン』の語源として後世に語り継がれた。ギリシャ人の勇気と戦術が結実した歴史的勝利であり、西洋スポーツ文化にも大きな影響を与えた。
紀元前490年
マラトンの戦い
アテナイ
プラタイア
アケメネス朝
マラトン
マラソン
寛永6年7月25日
紫衣事件。江戸幕府が高位・高徳の僧への紫衣の勅許を停止。
江戸幕府が朝廷の高位僧への紫衣着用許可を停止し、政教関係に緊張が走った事件。
1629年、後水尾天皇が勅許した紫衣(僧侶の装束)を江戸幕府が取り消したことで発生した。紫衣は高位・高徳の僧侶に与えられる栄誉であり、朝廷の権威を象徴するものだった。幕府はこの措置で宗教界を統制し、寺社勢力の独立を抑えようとした。教義や礼式をめぐる朝廷との対立が表面化し、寺社奉行による介入が強化された。結果、幕府の政治的影響力がさらに拡大し、以後の「公儀支配」の一端を示す事件となった。
1629年
寛永
7月25日
紫衣事件
1683年
第二次ウィーン包囲。オスマン帝国軍が大軍をもって神聖ローマ皇帝の居城ウィーンを攻撃するが、中央ヨーロッパ諸国連合軍に大敗。
オスマン帝国軍がウィーンを包囲したが、諸国連合軍の反撃で壊滅的敗北を喫した戦い。
1683年、オスマン帝国のカラ・ムスタファ・パシャ率いる大軍がウィーンを包囲し、ヨーロッパ進出を狙った。包囲戦は約2か月に及び、食糧不足と連合軍の救援部隊接近で形勢が逆転した。ポーランド王ヤン3世ソビエスキら率いるハプスブルク帝国、神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国などの連合軍が攻勢に転じ、オスマン軍を撃退した。この敗北はオスマン帝国の西方拡大の限界を示し、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えた。
1683年
第二次ウィーン包囲
オスマン帝国
神聖ローマ皇帝
ウィーン
1814年
米英戦争: ボルティモアの戦い。
米英戦争中、イギリス軍がボルティモアを攻撃したがアメリカ側が要塞を守り切った戦い。
1814年9月、米英戦争の一環としてイギリス海軍がメリーランド州ボルティモアを砲撃した。アメリカ側はフォート・マクヘンリー要塞で必死に防戦し、夜通しの砲撃にも耐え抜いた。戦いのさなか、弁護士フランシス・スコット・キーが要塞の勇敢な守備を見聞し、『星条旗』の詩を綴った。後にこの詩は合衆国国家『The Star-Spangled Banner』の原詩となった。アメリカの士気を高め、戦況に大きな影響を与えた歴史的出来事である。
1814年
米英戦争
ボルティモアの戦い
1847年
米墨戦争: チャプルテペクの戦い。
米墨戦争でアメリカ軍がチャプルテペクの要塞を攻略し、メキシコ軍に勝利した戦闘。
1847年、米墨戦争中の主要な作戦の一つとしてメキシコシティ防衛線の一翼を担うチャプルテペク城砦が標的となった。アメリカ陸軍と海兵隊は難攻不落とされる高地に突入し、激戦ののち要塞を制圧した。メキシコ側の若い士官たちは壮絶な最期を迎え、『少年ヒーロー(Niños Héroes)』として後世に語り継がれる。勝利により国境線への道が開かれ、最終的に米墨戦争終結条約へとつながった。
1847年
米墨戦争
チャプルテペクの戦い
1848年
スイスの歴史: 連邦憲法が公布され、スイス連邦が樹立される。
スイス初の連邦憲法が公布され、近代的な連邦国家としてのスイスが誕生した。
1848年9月、スイス内戦(ソンデルブント戦争)の終結を受けて連邦憲法が制定・公布された。これにより従来のカントン連合から中央集権的かつ民主的な連邦国家へと再編成された。憲法は連邦議会と連邦評議会の二院制を定め、宗教や言語など多様性を尊重する制度を導入した。自治権を維持しつつ効果的な連邦政府を樹立したことで、今日のスイス政治体制の基礎が築かれたとされる。
1848年
スイスの歴史
スイス連邦
明治4年7月28日
兵部省海軍部に水路局を設置。
明治政府が海軍部内に航路測量と海図作成を担う水路局を新設した。
1871年、近代国家建設を急ぐ明治政府は兵部省(軍事行政機関)の海軍部に水路局を設置した。水路局は全国の沿岸測量や航路標識の整備、海図作成を主な任務とし、商船・軍艦の安全航行を支えた。これにより日本海軍の作戦行動と国内海運の発展が可能となった。後に海軍省や海軍技術研究所へと発展し、現在の海上保安庁水路部の源流となっている。
1871年
明治
7月28日
兵部省
水路局
1880年
フランス法の流れを汲む法律家、薩埵正邦らによって東京法学社が開校。翌年5月に東京法学校と改称。現在の法政大学。
薩埵正邦らが東京でフランス法を基に法律教育機関を創設し、後の法政大学となった。
1880年、旧幕臣でフランス法研究者の薩埵正邦を中心に東京法学社が開校した。講義では仏民法典をはじめとする欧州法を採用し、法学教育の近代化を図った。翌1881年5月に東京法学校と改称し、さらに教職員やカリキュラムを拡充。明治期の法制度整備に貢献した人材を輩出し、1903年には正式に法政大学へと発展した。今日の日本法学教育の礎を築いた歴史的出来事である。
1880年
薩埵正邦
東京法学校
法政大学
1881年
島根県から分離して鳥取県を再設置。
明治時代の県制改革で、一度統合された鳥取県が再び分離・設置された。
1876年の廃藩置県により一時期島根県に統合されていた鳥取県が、1881年9月12日に再設置された。地元の要望や行政効率の観点から分離が決定され、鳥取城下町を中心に再び県庁が置かれた。これにより地域住民の統治機構が再構築され、明治政府の中央集権的行政改革の中で地方分権の動きも見られた事例となった。
1881年
島根県
鳥取県
1903年
大阪市営電気鉄道築港線、花園橋〜築港桟橋間5kmを開業。
大阪市営電気鉄道が築港線を開業し、花園橋から築港桟橋までの運行を開始した。
1903年9月12日、大阪市営電気鉄道が築港線の花園橋〜築港桟橋間5kmを開業した。市内中心部と港湾地区を結ぶルートとして、貨客輸送の利便性が向上した。路面電車による公共交通網の拡充は大阪の都市発展を後押しし、周辺の工業地帯や住宅地の開発を促進した。後に路線は路面電車から地下鉄などへと移行し、現代の大阪交通網の原点となった。
1903年
1910年
ミュンヘンでマーラーの『第8交響曲』が作曲者の指揮のもとで初演。
マーラー自身の指揮で『第8交響曲』がミュンヘンで初演された。
グスタフ・マーラーの『第8交響曲』は「千人の交響曲」とも称され、合唱とオーケストラが壮大に響き渡る大規模作品です。
1910年9月12日、ミュンヘン宮廷歌劇場で作曲者自身の指揮により世界初演が行われました。
この公演には著名な歌手や大規模な合唱団が参加し、演奏規模は当時としても異例の大きさでした。
初演は大成功を収め、マーラーの名声をさらに高めることとなりました。
その後『第8交響曲』は20世紀音楽史における重要な作品として評価されています。
1910年
ミュンヘン
マーラー
第8交響曲
1913年
『都新聞』で中里介山の小説『大菩薩峠』が連載開始。以降、掲載紙を変えながら28年間連載され、1941年に未完のまま終了。
中里介山の長編小説『大菩薩峠』が『都新聞』で連載を開始した日。
『大菩薩峠』は浪人・濃野金次郎を主人公にした時代小説で、長大な連載で知られます。
1913年9月12日、『都新聞』での連載が始まり、以降掲載紙を変えながら約28年間続きました。
作品は武士道や人間ドラマを壮大なスケールで描き、読者を惹きつけました。
1941年に未完のまま連載が終了しましたが、後世に大きな影響を与え続けています。
日本文学史上における代表的な長編小説のひとつです。
1913年
都新聞
中里介山
大菩薩峠