1937年

後楽園球場開場。

1937年9月11日、東京・後楽園に本格的な野球場「後楽園球場」が開場しました。以後プロ野球の聖地として親しまれました。
後楽園球場は1937年9月11日に開場し、東京におけるプロ野球興行の中心地となりました。観覧席は約20,000席を有し、当時最新の照明設備や放送ブースを備えていました。開場初日は記念試合が行われ、多くの観客が集まりました。以降、東京巨人軍(後の読売ジャイアンツ)が本拠地とし、数々の名勝負が繰り広げられました。戦後はナイター設備の導入も行われ、夜間試合が可能となりました。1988年まで運用され、その後東京ドームの完成に伴い役割を終えました。
1937年 後楽園球場
1950年

大相撲関脇力道山が、自ら髷を切り落とし廃業。翌年プロレスに転向。

1950年9月11日、大相撲関脇の力道山が自身で髷を切り落とし廃業を発表、翌年プロレス転向を決意しました。
力道山は1950年9月11日、自らの髷を鋏で切り落とすことで大相撲を引退する意思を示しました。相撲界に衝撃を与えたこの行動は国内スポーツ界でも大きく報道され、彼のプロレス転向への布石となりました。翌1951年にプロレスラーとしてデビューした力道山は、日本にプロレスブームを巻き起こし、国際的な選手との対戦で人気を博しました。彼のカリスマ的な存在感と派手な試合スタイルは戦後の日本社会に新たな娯楽文化を提供し、今日のプロスポーツ興行の礎となりました。
1950年 大相撲 関脇 力道山
1978年

F1イタリアGPの炎上事故により、F1ドライバーのロニー・ピーターソンが他界。

1978年イタリアGPの多重クラッシュでロニー・ピーターソンが負傷し、死去しました。 当時の安全対策強化を促す契機となりました。
1978年9月11日、モンツァサーキットで開催されたF1イタリアグランプリのスタート直後に多重クラッシュが発生しました。 ロニー・ピーターソンは炎上したマシンから脱出したものの重傷を負い、翌12日に死亡が確認されました。 事故当時の治療体制や救護対応の課題が浮き彫りとなり、F1における安全基準の見直しが進められました。 ヘルメット構造や車体デザインの改善など、その後の技術改革に大きな影響を与えました。 この悲劇はモータースポーツ界に衝撃を与え、安全意識向上の転換点となりました。
1978年 F1イタリアGP ロニー・ピーターソン
1985年

ピート・ローズが4192安打を放ってタイ・カッブの記録を更新し、同日4193安打まで記録。

メジャーリーグのスター、ピート・ローズがタイ・カッブの最多安打記録を塗り替えました。 4192本目と4193本目の安打を同日に達成。
1985年9月11日、シンシナティ・レッズのピート・ローズがメジャーリーグ史上最多安打記録(タイ・カッブ4191本)を更新しました。 この試合で4192本目の安打を放ち、続く打席で4193本目も記録する偉業を成し遂げました。 ローズは『安打製造機』の異名を持ち、堅実なバッティング技術で長年リーグを牽引しました。 この功績は野球殿堂入りを後押しし、多くの選手の目標となりました。 現在も最終安打数の最多記録保持者として歴史に名を刻んでいます。
ピート・ローズ タイ・カッブ
1992年

阪神甲子園球場での阪神対ヤクルト戦で、試合時間6時間26分の日本プロ野球史上最長の試合が行われる。

1992年9月11日、阪神甲子園球場で行われた阪神対ヤクルト戦が、日本プロ野球史上最長の6時間26分を記録しました。
1992年のセ・リーグ公式戦で阪神タイガースとヤクルトスワローズが延長23回まで激闘を繰り広げ、試合時間6時間26分を記録しました。 当時、延長15回までが上限だったところ、双方の救援投手が奮闘し延長が重ねられました。 試合は9月11日の午後3時に開始され、翌日午前0時26分に引き分けで終了しました。 観衆は2万5千人を超え、夜遅くまで続く熱戦に球場は興奮に包まれました。 この記録はいまだ破られておらず、NPB史上最長試合として語り継がれています。
阪神甲子園球場 阪神 ヤクルト 日本プロ野球