422年

カエレスティヌス1世がローマ教皇に即位。

西暦422年9月10日、第45代ローマ教皇カエレスティヌス1世が即位しました。初期キリスト教会の組織確立に尽力した重要人物です。
カエレスティヌス1世はローマ教皇として西暦422年9月10日に即位しました。 彼の在位中、教会組織の強化や異端問題の抑制に取り組みました。 ローマ帝国内でキリスト教が広がる中、教義の統一と聖職者の権威確立を推進。 教皇庁の制度的基盤を整備し、後世の教皇制度にも大きな影響を与えました。 比較的平穏な治世とされ、教会史上の重要な転換期の一つとなっています。
422年 カエレスティヌス1世 ローマ教皇
正和4年8月12日

北条煕時の死去に伴い、北条基時が鎌倉幕府第13代執権に就任。

1315年9月10日、北条基時が鎌倉幕府第13代執権に就任しました。得宗家当主として幕政の実権を握った人物です。
北条基時は北条得宗家の当主として、父・北条煕時の死去に伴い第13代執権に就任しました。 鎌倉幕府内で得宗専制政治を推進し、幕府の統治基盤を維持・強化します。 在任中は御内人や御所人など幕府の実務組織を統括し、政治的安定に努めました。 また御成敗式目の布告に関与したとされ、法制整備にも一定の役割を果たしたと考えられています。 基時の治世は鎌倉幕府末期の政治様式に影響を与え、後の武家政権にもつながる基礎を築きました。
1315年 正和 8月12日 北条煕時 北条基時
元和8年8月5日

長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教)

1622年9月10日、長崎で55名のカトリック教徒が処刑され、元和の大殉教と呼ばれました。幕府による厳しい禁教政策の象徴です。
元和8年(1622年)9月10日、江戸幕府は禁教令に違反した宣教師や信徒合計55名を処刑しました。 長崎の西坂で磔や火刑など厳しい方法による迫害が行われ、日本におけるキリスト教弾圧の象徴となります。 処刑された殉教者たちは後にカトリック教会で列聖され、“元和の大殉教”として記憶されました。 この事件は幕府の海外交流統制と宗教政策の厳格化を象徴し、幕末まで続く禁教時代の幕開けとなります。 長崎の地で起きた悲劇は、のちの日本の宗教史にも大きな影響を与えました。
1622年 元和 8月5日 長崎 カトリック教徒 元和の大殉教
1721年

ロシアとスウェーデンがニスタット条約を締結。

1721年9月10日、ロシアとスウェーデンがニスタット条約を締結し、大北方戦争を終結させました。
大北方戦争(1700–1721年)終結に向け、両国はニスタット条約を調印しました。 スウェーデンはバルト海沿岸の大部分をロシアに割譲し、ロシア帝国はバルト進出を確定させます。 ペトロ1世(大帝)は欧州列強としての地位を確立し、新興勢力として認識される契機となりました。 条約には領土の移転だけでなく捕虜交換や商業航路権利の保護など多岐にわたる規定が含まれます。 ニスタット条約は18世紀の国際秩序再編に大きな影響を及ぼした歴史的合意です。
1721年 ロシア スウェーデン ニスタット条約
1898年

オーストリア皇后エリーザベトが無政府主義者ルイジ・ルケーニにより暗殺。

オーストリア皇后エリーザベト(シシィ)が無政府主義者によって暗殺されました。
1898年9月10日、オーストリア皇后エリーザベトはスイス・ジュネーブで暗殺されました。 暗殺者はイタリア系無政府主義者ルイジ・ルケーニで、金属製のスタイレットで皇后を襲撃しました。 皇后は観光地を散策中に襲われ、致命傷を負いました。 エリーザベトは人気の高い皇后で、その悲劇的な最期は欧州全土に衝撃を与えました。 この事件は王室の警備体制の見直しを促しました。 ルケーニは直後に拘束され、後に終身刑を宣告されました。
1898年 エリーザベト ルイジ・ルケーニ
1917年

護法運動: 中華民国で孫文が広東軍政府を樹立し、段祺瑞の北京政府と並立する分裂状態となる。

孫文が広東軍政府を樹立し、中華民国が分裂状態となりました。
1917年9月10日、孫文は広東で護法運動を展開し、広東軍政府を樹立しました。 これに対し北京政府を率いる段祺瑞らとの対立が激化し、中華民国は二重権力の状況に陥りました。 護法運動は憲法擁護を名目とした革命派の政治活動であり、混乱の一因ともなりました。 広東軍政府は国会の復活を主張し、北伐への足がかりと位置づけられました。 最終的には北伐軍による統一が進み、分裂状態は解消されていきます。 この出来事は中国近代史における重要な政治転換点とされています。
1917年 護法運動 中華民国 孫文 広東軍政府 段祺瑞 北京政府
1919年

オーストリアと連合国が第一次世界大戦の講和条約「サン=ジェルマン条約」を締結。

オーストリアと連合国がサン=ジェルマン条約を締結しました。
1919年9月10日、第一次世界大戦後の講和条約としてサン=ジェルマン条約が署名されました。 オーストリアは連合国により領土割譲と軍備制限を課され、国土と経済に大きな打撃を受けました。 新たにチェコスロバキアやユーゴスラビアなど多くの国家が独立を認められました。 条約はオーストリア=ハンガリー帝国の解体を正式に規定し、中欧の地図を塗り替えました。 この条約により、戦後の欧州秩序が大きく変容しました。
1919年 オーストリア 連合国 第一次世界大戦 サン=ジェルマン条約
1945年

日本における検閲: 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN 16)発令。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が検閲を始める。

GHQが検閲を開始するSCAPIN 16を発令しました。
1945年9月10日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はSCAPIN 16を発令しました。 正式名称は「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」で、新聞・出版物に対する検閲を定めています。 占領下の日本ではこの命令に基づき、軍事機密や占領政策批判などの情報発信が制限されました。 検閲制度は戦後の情報統制の象徴的存在となり、報道の自由との葛藤を生み出しました。 制度はその後段階的に縮小され、1951年のサンフランシスコ条約発効に伴い廃止されました。
1945年 日本における検閲 言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書 SCAPIN 連合国軍最高司令官総司令部 検閲
1967年

イギリス領ジブラルタルで、イギリス領に留まるかスペインに編入されるかを決める住民投票が行われ、イギリス領のままとなることが決定。

ジブラルタル住民投票でイギリス領のままとする決定が行われました。
1967年9月10日、英領ジブラルタルにおいてイギリス領に留まるかスペイン編入かを問う住民投票が実施されました。住民の意思は圧倒的にイギリス領存続を支持し、99%以上が現状維持に票を投じました。これによりジブラルタルはスペインからの主権主張にもかかわらず、法的にはイギリス領としての地位が確認されました。投票結果は国際政治における住民自治の重要性を示す例として評価され、以後もジブラルタルの主権問題は国際交渉の焦点となっています。
1967年 ジブラルタル
1974年

1973年9月24日に独立を宣言した西アフリカのギニアビサウが、ポルトガルが独立を承認される。

ギニアビサウの独立をポルトガルが正式に承認しました。
1974年9月10日、ポルトガル政府は西アフリカの旧植民地ギニアビサウの独立を正式に承認しました。ギニアビサウは1973年9月24日に一方的に独立を宣言していましたが、今回の承認により国際社会での国家承認が確定。ポルトガルのカーネーション革命後の新政権は植民地政策を見直し、多くの旧植民地の独立を認める政策を進めました。ギニアビサウは国連に加盟し、アフリカ諸国との連携を深めました。独立承認はポルトガル植民地帝国の終焉を象徴する出来事とも評価されています。
1974年 1973年 9月24日 ギニアビサウ ポルトガル 独立 承認
1977年

フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。

1977年9月10日、フランスで最後のギロチン処刑が執行された。
ギロチンはフランス革命以降、死刑執行の象徴として長く用いられてきました。 1977年9月10日にハミダ・ジャンドビーという受刑者に対し、最後のギロチン処刑が実施されました。 この事件をもってフランス国内でのギロチン処刑は終焉を迎え、以後死刑方法の見直し議論が高まりました。 その後1981年にフランスは死刑を完全に廃止し、人道的刑罰への転換を図る大きな節目となりました。 ギロチン処刑の最終執行はフランス社会に刑罰制度と人権意識を問い直す契機をもたらしました。
1977年 フランス ギロチン
1980年

中華人民共和国の華国鋒国務院総理(首相)が辞任。後任に趙紫陽副首相が就任。

1980年9月10日、華国鋒国務院総理が辞任し、趙紫陽が後任に就任。
華国鋒は毛沢東没後に周恩来の後継として総理(国務院主席)に就任し、党と政府の安定化を図りました。 しかし経済改革や開放政策への慎重姿勢から指導部内での意見対立が生じ、最終的に辞任を余儀なくされました。 後任の趙紫陽は鄧小平の後押しを受けて経済改革を主導し、改革開放路線を加速させる立役者となりました。 趙紫陽の就任は中国の市場経済導入へ向けた転換点となり、その後の経済発展基盤を築きました。 この人事異動は中国の改革開放政策の歴史的転機として広く認識されています。
1980年 中華人民共和国 華国鋒 国務院総理 趙紫陽