617年

霍邑の戦い。李淵が隋軍に勝利。

唐王朝成立の緒戦。李淵が隋軍を破り、唐建国の足がかりを築いた。
617年9月8日、唐の建国を目指す李淵が隋の大軍を霍邑で迎え撃ち、奇襲を仕掛けて勝利を収めました。この戦いは隋末の動乱期における最初期の大規模戦闘であり、李淵軍の士気を高めました。勝利後、李淵は洛陽を攻略して大将軍に任命され、やがて皇帝として即位しました。霍邑の戦いは隋滅亡と唐王朝樹立の契機となった歴史的転換点です。
617年 霍邑の戦い 英語版 中国語版 李淵
1011年

ヨムスヴァイキングの司令官のっぽのトルケル率いるデーン人ヴァイキングがカンタベリーに向けて進軍を開始した。その後3週間市街を包囲し、占領した。

デーン人ヴァイキングがカンタベリーを包囲し占領した攻城戦。
1011年9月8日、ヨムスヴァイキング率いるデーン人部隊がカンタベリーへ進軍し、約3週間にわたり市街を包囲しました。聖オーガスティン大聖堂を含む重要拠点を占領し、町は略奪と焼き討ちに見舞われました。大司教アルフェルムは捕らえられ、人質として身代金が要求されました。最終的に支払いが行われたことで大司教は解放されましたが、イングランド南東部に大きな衝撃を与えました。北海沿岸諸国との勢力争いを象徴する事件です。
1011年 ヨムスヴァイキング のっぽのトルケル デーン人 ヴァイキング カンタベリー
治承4年8月17日

源頼朝が伊豆国で挙兵する。

源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵し、鎌倉幕府樹立への布石となる。
1180年9月8日(治承4年8月17日)、源頼朝は伊豆国で兵を挙げ、平家政権への反乱を宣言しました。北条時政ら伊豆の有力地頭を味方につけ、韮山を拠点に軍事活動を開始した頼朝は、各地の武士を結集し源平合戦の先鞭をつけました。これにより源氏方は勢力を拡大し、後の鎌倉幕府樹立へとつながる重要な転換点となりました。日本史における武士政権の時代が幕を開けた象徴的出来事です。
1180年 治承 8月17日 源頼朝 伊豆国
1298年

クルツォラ戦争: クルツォラの海戦。

ジェノヴァとヴェネツィアの海上覇権を賭けた激戦。
1298年9月8日、ジェノヴァ共和国とヴェネツィア共和国間の第4次ジェノヴァ・ヴェネツィア戦争において、クルツォラの海戦が勃発しました。ジェノヴァ艦隊は巧妙な戦術でヴェネツィア艦隊を包囲し、多数の船団を撃破しました。捕虜となった船員や指揮官は交渉材料とされ、ジェノヴァの海上輸送路の安全が確保されました。この勝利によりジェノヴァは地中海西部での影響力を一層強化しました。
1298年 クルツォラ戦争 クルツォラの海戦
1322年

ミュールドルフの戦い、バイエルン公国とオーストリアの戦い。

皇帝位をめぐる神聖ローマ帝国内の封建領主同士の激突。
1322年9月8日、神聖ローマ帝国皇帝位継承を巡り、バイエルン公ループレヒト1世軍とオーストリア大公フリードリヒ軍がミュールドルフ近郊で激突しました。ループレヒト軍は騎士隊を中心に攻勢をかけ、オーストリア軍を壊滅させました。敗北したフリードリヒは捕虜となり、選帝侯の支持を失ったことで皇帝選出戦線から脱落しました。この戦いは中世ヨーロッパの封建的抗争を象徴する出来事です。
1322年 ミュールドルフの戦い 英語版 バイエルン公国 オーストリア
1380年

クリコヴォの戦い。ルーシがタタールに初めて勝利。

モスクワ大公国がモンゴル=タタール軍に勝利した歴史的戦闘。
1380年9月8日、モスクワ大公ドミトリー・イヴァノヴィチ(ドミトリー・ドンスコイ)率いるルーシ諸侯連合軍がタタール・ウズベク・ハン国の軍勢をクリコヴォ野で破りました。戦術的に伏兵を用いた奇襲が勝利の鍵となり、モンゴル支配からの自立を志向する動きを加速させました。勝利後、諸侯はモスクワ大公への忠誠を誓い、ロシア統一への基盤が築かれました。この戦いはロシア民族史における象徴的な出来事です。
1380年 クリコヴォの戦い ルーシ タタール
1514年

第4次モスクワ・リトアニア戦争: オルシャの戦い。

1514年、リトアニア・ポーランド連合軍がモスクワ軍を破ったオルシャの戦いが激しく繰り広げられました。
1514年9月8日、第4次モスクワ・リトアニア戦争の主要会戦「オルシャの戦い」が行われました。 ポーランド・リトアニア連合軍は先進的な火縄銃部隊を巧みに運用し、モスクワ軍を大規模に撃破。 この勝利はバルト海と東欧の覇権争いにおいてリトアニア大公国の優位を確立させました。 戦術の面でも伝統的な騎兵戦術に火器を組み合わせる新たな試みが功を奏し、後の欧州戦史にも影響を与えています。 敗北したモスクワ大公国は軍改革を余儀なくされ、東欧情勢の変化を招く契機となりました。
1514年 モスクワ・リトアニア戦争 英語版 オルシャの戦い 英語版
1565年

マルタ包囲戦: オスマン帝国軍がマルタ島からの撤退を開始。

1565年、激戦の末にオスマン帝国軍がマルタ包囲戦からの撤退を開始し、キリスト教勢力が勝利を収めました。
1565年9月8日、長期化したマルタ包囲戦でオスマン帝国軍がついに撤退を決断しました。 聖ヨハネ騎士団とマルタ島民の激しい抵抗により包囲が破綻し、総攻撃を断念。 撤退するオスマン軍は厳しい地形や補給不足にも苦しめられ、多大な損害を受けながら島を離れました。 この出来事は地中海東部におけるキリスト教勢力の防衛成功として称賛され、欧州の士気を大いに高めました。 マルタ包囲戦はオスマン帝国の地中海進出に歯止めをかける歴史的転機となりました。
1565年 マルタ包囲戦 オスマン帝国 マルタ島
1566年

オスマン・ハプスブルク戦争: スィゲトヴァール包囲戦が終結、オスマン帝国がスィゲトヴァール要塞を制圧しブディン州に編入。

1566年、スィゲトヴァール包囲戦が終結し、オスマン帝国が要塞を攻略、ハプスブルク領内に勢力を拡大しました。
1566年9月8日、オスマン・ハプスブルク戦争中のスィゲトヴァール包囲戦が幕を閉じました。 ハンガリー北部の要衝スィゲトヴァール要塞はオスマン軍の包囲射撃と突入で陥落。 守備側は激しい抵抗を見せたものの、人数と火力の差に屈し要塞は陥落しました。 オスマン帝国はこの地をブディン州として組み込み、中欧への影響力を強化。 敗北したハプスブルク家は防衛体制を再構築する必要に迫られました。
1566年 オスマン・ハプスブルク戦争 スィゲトヴァール包囲戦
慶長5年8月1日

伏見城の戦いが終結。伏見城が落城。

関ヶ原の戦い直前、東軍と西軍の前哨戦となった伏見城の戦いが終結し、豊臣方の城が落城しました。
慶長5年8月1日(1600年9月8日)、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が衝突した伏見城の戦いが決着。 城将太田長兵衛率いる豊臣方の守備隊は善戦したものの、多勢の東軍に包囲され力尽きました。 伏見城落城は関ヶ原本戦への布石ともなり、東軍の有利を決定づける一因となります。 戦いののち城域は東軍の支配下に移り、大坂・京への進軍路が確保されました。 この戦闘は関ヶ原の実質的な開戦合図とも評されています。
1600年 慶長 8月1日 伏見城の戦い 伏見城
1755年

フレンチ・インディアン戦争: ジョージ湖の戦い。

北米フレンチ・インディアン戦争で、ジョンソン将軍率いる植民地軍がフランス軍を撃退した戦いが起こりました。
1755年9月8日、北米でフレンチ・インディアン戦争中のジョージ湖の戦いが勃発。 植民地軍指揮官ウィリアム・ジョンソン将軍は、フランス軍バロン・ディエスクー将軍の部隊を伏兵と砲撃で翻弄して撃退。 戦闘は湖畔一帯で行われ、イギリス側はネイティブ・アメリカン同盟部隊の支援も得て勝利を収めました。 この勝利により植民地側の士気は大いに高まり、以降の戦術や連携にも大きな影響を与えました。 戦場となったフォート・ウィリアム・ヘンリーは戦後も戦略的要地として重要視され続けました。
1755年 フレンチ・インディアン戦争 ジョージ湖の戦い
1756年

フレンチ・インディアン戦争: キッタニング遠征。

フレンチ・インディアン戦争中、植民地義勇兵がネイティブ居留地キッタニングを急襲した遠征が行われました。
1756年9月8日、フレンチ・インディアン戦争において、ジョン・アームストロング大尉率いるペンシルベニア植民地義勇兵約300名がキッタニング居留地を襲撃。 夜明け前の奇襲で村を混乱に陥れ、多数の捕虜と補給物資を奪取しました。 この作戦は先住民側に大きな衝撃を与え、その後の戦闘激化を招く一因となったとされます。 植民地側からは戦略的成果として称賛されましたが、犠牲者多数の報復も生じました。 民間人を巻き込む戦闘として、北米戦争史における議論の対象ともなっています。
1756年 キッタニング遠征 英語版