771年

コンスタンティノス6世が東ローマ帝国イサウリア朝(シリア朝)の第4代皇帝として即位。

若き皇帝が即位し、母イレーネとの摂政政治が始まる。
771年9月8日、東ローマ帝国イサウリア朝の第4代皇帝として12歳のコンスタンティノス6世が即位しました。幼少の皇帝の治世は母イレーネが摂政として実権を握る体制で始まり、両者の権力闘争が宮廷政治を複雑化させました。国内ではアラブ勢力との国境紛争が続き、バルカン半島での統治問題も山積しました。後にコンスタンティノス6世は母に反旗を翻すも敗北し、最終的にイレーネに廃位される波乱の運命をたどりました。
771年 コンスタンティノス6世 東ローマ帝国 イサウリア朝 皇帝
1100年

テオドリクスがこの日に死したクレメンス3世の後を継ぎハインリヒ4世の皇帝派の擁立でパスカリス2世の対立教皇になる。

ハインリヒ4世派の対立教皇が擁立され、教皇権を巡る対立が激化。
1100年9月8日、教皇クレメンス3世の死去に際し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世派は神学者テオドリクスをパスカリス2世に対抗する教皇として擁立しました。テオドリクスはローマで対立教皇としての権威を主張しましたが、広範な支持を得ることはできず、短期間で勢力が衰退しました。一方、パスカリス2世は教皇庁の実権を維持し、グレゴリウス改革の進展に寄与しました。この事件は教会と皇帝の権力闘争を象徴しています。
1100年 テオドリクス クレメンス3世 ハインリヒ4世 パスカリス2世
1264年

ボレスワフ敬虔公がカリシュの法令を発令。

ユダヤ人に特別権利を認めた中世ヨーロッパ初期の寛容政策。
1264年9月8日、ポーランドの大公ボレスワフ敬虔公はカリシュの法令を発布しました。この法令はユダヤ人共同体に居住権、安全保障、商業活動の自由や免税を認める内容で、中世ヨーロッパでは異例の寛容政策とされています。ユダヤ人は法的保護を得て交易や金融業務を活発化させ、ポーランド経済の発展に寄与しました。法令は後に他公国にも受け継がれ、ポーランドにおけるユダヤ人史の礎となりました。
1264年 ボレスワフ敬虔公 カリシュの法令
1331年

ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンがセルビア王に即位。1346年にはセルビア皇帝として即位。

セルビア王に即位し、後にセルビア皇帝となる強力な君主が誕生。
1331年9月8日、ステファン・ウロシュ3世の死去に伴い、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンがセルビア王に即位しました。彼は1346年にセルビア皇帝として即位し、領土拡大と中央集権化を推進しました。ドゥシャン法典の制定により法制度が整備され、セルビア帝国はバルカン半島で最盛期を迎えました。経済や文化も大いに発展し、「セルビア黄金時代」を象徴する君主として知られています。
1331年 ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン セルビア王 1346年
1761年

ジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツが結婚。

イギリス王位継承者ジョージ3世がドイツ貴族シャーロットと華々しい結婚式を挙げました。
1761年9月8日、イギリスのダウンハム宮廷礼拝堂にてジョージ3世とメクレンブルク=シュトレーリッツ公爵家のシャーロットが結婚。 この縁組は英国王室の地位を固め、ドイツ諸侯との同盟強化を図る政治的意義もありました。 シャーロットは宮廷で文化サロンを主宰し、音楽や美術を篤く支援したことで知られます。 二人の間には15人の子供が生まれ、王室の繁栄に大きく寄与しました。 結婚式は当時のヨーロッパ貴族社会から称賛され、多くの祝賀行事が催されました。
1761年 ジョージ3世 シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
1831年

イギリス王ウィリアム4世が戴冠。

1831年9月8日、イギリス王ウィリアム4世がセント・ポール大聖堂で正式に戴冠しました。
ウィリアム4世はジョージ3世の弟として即位し、1831年に戴冠式を行いました。 式典はロンドンのセント・ポール大聖堂で開かれ、貴族や政府関係者が多数参列しました。 伝統的な儀式に加え、民衆の祝賀行列や花火大会も催され、盛大に祝われました。 ウィリアム4世の治世は短期間でしたが、選挙制度改革の前段階となる政治的緩和が進められました。 彼の戴冠は19世紀イギリスの政治変革期の幕開けを象徴する重要な出来事です。
1831年 ウィリアム4世
1904年

屯田兵廃止。

明治政府が北海道屯田兵制度を廃止した。
1904年9月8日、明治政府は屯田兵制度を正式に廃止した。 屯田兵は開拓と防衛を目的に1874年に設置され、北海道開発の中核を担った。 日露戦争を経て、近代的な常備軍整備が優先されたことが廃止の背景となった。 廃止後は一般徴兵制度や民間移民への移行が進められ、植民地的特色は薄れた。 北海道開拓史における一つの区切りとして歴史に刻まれている。
1904年 屯田兵
1926年

ドイツが国際連盟に加盟。

1926年9月8日、ドイツが国際連盟に正式加盟し、第一次世界大戦後の孤立から脱しました。 国際協調への第一歩となった歴史的な瞬間です。
1920年に設立された国際連盟は、第一次世界大戦後の平和維持を目的としていました。 しかしドイツは戦後賠償や侵略責任を問われ、長く国際連盟への加盟を認められていませんでした。 1926年9月8日、ヴァイマル共和政下のドイツがついに正式に加盟を果たしました。 これによりドイツは国際的な孤立から脱し、外交関係の正常化が進みます。 加盟国としての責任を負う一方、ドイツ国内では連盟加入を巡って賛否両論が起こりました。 しかし、この加盟は後の欧州協力体制構築の重要なステップとされています。
1926年 ドイツ 国際連盟
1933年

ガージー1世・ビン・ファイサルがイラク王に即位。

1933年、イラク初代国王ガージー1世・ビン・ファイサルが即位し、王政が始まりました。
イラク王国は1921年に設立され、初代国王ファイサル1世の死去により息子のガージー1世が後を継ぎました。 1933年9月8日、ガージー1世・ビン・ファイサルが正式に即位し、若き王として政務を開始します。 当時のイラクはイギリスの影響下にあり、ガージー1世も英帝国との関係調整に苦慮しました。 若き王はナショナリズムを掲げ、国内統一と近隣諸国との外交関係構築を目指しました。 しかし、ガージー1世は1939年に交通事故で急逝し、王政の将来に影響を与えました。 その後、1958年のクーデターでイラク王国は消滅し、共和国が成立しました。
1933年 ガージー1世・ビン・ファイサル イラク王
1935年

米議員のヒューイ・ロングが銃撃を受ける(ヒューイ・ロング暗殺事件)。10日に死亡。

1935年9月8日、アメリカの政治家ヒューイ・ロングが暗殺者に狙撃されました。 10日に死亡し、国民に衝撃を与えました。
ヒューイ・ロングはルイジアナ州知事から上院議員となり、資産再配分を掲げて支持を集めました。 1935年9月8日、ルイジアナ州議会議事堂を出た際、暗殺者カール・ワイズリーに銃撃され重傷を負います。 ワイズリーは元州警察官とされ、その動機はいまだに議論の的です。 ロングはワシントンD.C.の病院に搬送されましたが、9月10日に出血多量で死亡しました。 彼の死は『人民王』と呼ばれた強権的ポピュリスト政治の終焉を象徴しました。 その後、ロング派は政治闘争を続け、アメリカ政治史に大きな影響を残しました。
1935年 ヒューイ・ロング ヒューイ・ロング暗殺事件
1945年

東京でアメリカ占領軍の進駐式が行われ、ジープで東京に進駐を開始。

東京でアメリカ占領軍の進駐式が行われ、本格的な占領統治が始まりました。
1945年9月8日、第二次世界大戦終結後の東京で連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ占領軍の進駐式が行われました。ジープや車両部隊が皇居前広場に進駐し、戦後の日本統治が正式にスタートしました。これにより庶民生活や行政機構に大きな変化が訪れ、教育改革や財閥解体など占領政策が本格化しました。マッカーサーは後に日本国憲法草案作成にも深く関与し、戦後日本の民主化に大きな影響を与えました。
1945年 アメリカ占領軍
1946年

ブルガリアで国民投票により王制の廃止が決定。

ブルガリアで国民投票が行われ、王制廃止が正式に決定しました。
1946年9月8日、ブルガリアで国民投票が実施され、王制の廃止と人民共和国の樹立が圧倒的多数で承認されました。第二次世界大戦後、ソ連の影響下で成立した親ソ政権が共和制を推進し、ツァーリ(皇帝)シメオン2世は国外へ退去しました。これによりブルガリアは王政から共産主義体制へと移行し、翌年にはブルガリア人民共和国が宣言されました。以降約45年間、共産党政権が支配を続けました。
1946年 ブルガリア