70年

ユダヤ戦争・エルサレム攻囲戦: ティトゥス率いるローマ帝国軍がエルサレムを完全に制圧。

ローマ帝国軍がエルサレムを完全制圧した決定的な戦い。 第二神殿の破壊とユダヤ人のディアスポラが始まった。
70年、ローマ帝国とユダヤ人との間で起こった第一次ユダヤ戦争において、 ティトゥス率いるローマ軍はエルサレムを包囲し、徹底的に攻撃を加えた。 城壁は破壊され、第二神殿は焼失した。 この戦いの敗北はユダヤ人のディアスポラ(離散)を加速させた。 ローマは略奪と制圧により帝国の威信を誇示した。
70年 ユダヤ戦争 エルサレム攻囲戦 ティトゥス ローマ帝国 エルサレム
1191年

第3回十字軍: アルスフの戦い。リチャード1世の十字軍がサラーフッディーンを撃退。

1191年、アルスフの戦いでリチャード1世がサラーフッディーン軍を撃退した。 十字軍の戦術と士気が示された歴史的な勝利。
1191年9月7日、第3回十字軍の戦場となったアルスフでイングランド王リチャード1世が指揮を執った。 巧みな騎士戦術と防御陣形により、サラーフッディーン率いるアイユーブ朝軍を撃退した。 勝利により十字軍は補給線を確保し、聖地奪還作戦に有利な状況を築いた。 この戦いは中世騎士戦術の典型例として後世に語り継がれた。 リチャード1世の勇名は「獅子心王」の異名を一層強固にした。
1191年 第3回十字軍 アルスフの戦い リチャード1世 十字軍 サラーフッディーン
1228年

第6回十字軍: ローマ皇帝フリードリヒ2世がアッコに上陸。

1228年、フリードリヒ2世が第6回十字軍を率いてアッコに上陸した。 武力を用いず外交で聖地の一部を回復した。
1228年9月7日、ローマ皇帝フリードリヒ2世は第6回十字軍の旗手としてアッコに上陸した。 教皇と確執があったため武力行使を制限されたが、和平交渉に注力した。 数ヶ月の交渉を経てエルサレムなど聖地の一部返還を実現する条約が締結された。 外交的手法による「平和的十字軍」は異例の試みとされ、欧州で賛否を呼んだ。 フリードリヒ2世は学識と交渉術を駆使し、十字軍史に独自の足跡を残した。
1228年 第6回十字軍 ローマ皇帝 フリードリヒ2世 アッコ
1652年

郭懷一事件が勃発。

1652年、台湾で発生した郭懷一(グオ・ファイイー)による反乱事件。
1652年、台湾を支配していたオランダ東インド会社に対して台湾在住の漢人移民である郭懷一が反乱を起こしました。 反乱軍は一時的に拠点を掌握し、地元住民の支持を受けました。 オランダ側は増援部隊を派遣し、激しい戦闘の末に反乱を鎮圧。 郭懷一は捕らえられ処刑され、反乱の残党も根絶されました。 この事件は台湾における漢人移民の民族意識の高まりを象徴し、その後の植民政策にも影響を与えました。
1652年 郭懷一事件
1706年

スペイン継承戦争: トリノの戦い。

1706年、スペイン継承戦争におけるトリノ包囲戦をめぐる重要な会戦。
1706年9月、フランス軍が北イタリアの要衝トリノを包囲しました。 サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とオーストリアのオイゲン公爵が連合軍を率い、巧みな夜襲戦術で包囲軍を撃破。 トリノ解放に成功したことでフランスの北イタリア支配が後退し、戦局は大きく転換しました。 この勝利はオーストリア・サヴォイア連合に戦略的優位をもたらし、後の和睦交渉にも影響を与えました。 ヨーロッパ列強の勢力均衡に一石を投じた会戦として知られます。
1706年 スペイン継承戦争 トリノの戦い
1757年

七年戦争: モイスの戦い。

1757年、プロイセン軍とオーストリア軍がボヘミアで衝突した戦い。
1757年9月、七年戦争期にボヘミア地方のモイス近郊で両軍が激突。 プロイセン軍は防御線を築いたものの、オーストリア軍の猛攻を受けて前進を許しました。 指揮官フリードリヒ大王は速やかに反撃を試みたものの戦線は混乱。 最終的には両軍とも大きな損耗を被りつつ、オーストリアに有利な状況で終結しました。 この会戦は中欧戦域における勢力争いを象徴し、戦争全体の帰趨に影響を与えました。
1757年 七年戦争 モイスの戦い
1776年

アメリカの潜水艇「タートル」がイギリスの戦列艦「イーグル」を攻撃。世界初の潜水艦攻撃。

世界初の潜水艦攻撃を試みた歴史的事件。
1776年9月7日、アメリカ独立戦争中に発明家デイヴィッド・ブッシュネルの潜水艇「タートル」がイギリス戦列艦イーグルに奇襲を試みました。 世界初の潜水艦攻撃とされるこの作戦では、操縦者シーモア大尉が潜航して船体に爆薬を装着しようとしました。 接近に成功したものの、装着器具の故障や強い海流の影響で作戦は未遂に終わります。 タートルは一時的に回収されず浮揚不可能になり、攻撃は失敗とされました。 この事件は潜水艦戦術の可能性と課題を示し、後の海軍技術発展に大きな影響を与えました。
1776年 潜水艇 タートル イーグル
1778年

アメリカ独立戦争: ドミニカ侵攻。

アメリカ独立戦争の一環として行われたドミニカ島への侵攻作戦。
1778年9月、アメリカ独立戦争と並行してフランスがイギリス領ドミニカ島を攻撃。 フランス艦隊はセントルシア島から進軍し、首都ローゾー周辺で英軍を包囲しました。 現地のフランス軍指揮官は速やかな砲撃と上陸作戦で英国守備隊を圧倒。 数日でドミニカ島を占領し、英国の西インド植民地支配に大きな打撃を与えました。 この作戦は独立戦争の国際的拡大を象徴する出来事となりました。
1778年 アメリカ独立戦争 ドミニカ侵攻
1812年

ナポレオン戦争・1812年ロシア戦役: ボロジノの戦い。

ナポレオンのロシア侵攻における最大の激戦、ボロジノの戦い。
1812年9月7日、ナポレオン率いるフランス大陸軍とロシア帝国軍がモスクワ近郊ボロジノで激突。 両軍合わせて約25万人が参加し、ヨーロッパ戦史上最も血生臭い会戦の一つとされます。 指揮官ムラヴィヨフやクツーゾフ将軍がロシア軍を奮い立たせ、一進一退の攻防が続きました。 戦後、両軍とも大きな損耗を被りながらもロシア軍は戦略的撤退を断行。 決定的勝利とはならなかったものの、ロシアの深遠なる防衛戦術を世界に示しました。
1812年 ナポレオン戦争 1812年ロシア戦役 ボロジノの戦い
1857年

メドウ山虐殺。

1857年9月7日、米国西部ユタ準州のメドウ山で移民隊が襲撃され、多数が犠牲となったメドウ山虐殺が起きた。
メドウ山虐殺は、1857年9月7日に当時のユタ準州(現在のユタ州)メドウ山付近で発生した事件です。当時モルモン教徒の民兵隊と見なされた襲撃者が移民キャラバン「ベアド家隊」を攻撃し、約120人が殺害されました。襲撃の背景には連邦政府とモルモン教徒の対立や、地元住民の不安が影響したとされています。事件後、僅かに生存した女性と子供が解放されましたが、責任者の処罰は長年先延ばしとなりました。今日では米国史における最も悲惨な内戦的虐殺の一つとして語り継がれています。
1857年 メドウ山虐殺 英語版
1860年

リソルジメント: ガリバルディがナポリ入城を果たす。

1860年9月7日、イタリア統一運動の指導者ガリバルディがナポリに入城し、両シチリア王国の制圧を確実にした。
リソルジメント(イタリア統一運動)の中核を担ったジュゼッペ・ガリバルディは、千人隊を先導して南イタリアへ進軍しました。1860年9月7日、ナポリに入城し、両シチリア王国の首都を制圧しました。この勝利によりサルデーニャ王国を中心としたイタリア統一に大きく前進しました。ガリバルディの行動は統一運動の象徴となり、後のイタリア王国成立への機運を高めました。
1860年 リソルジメント ガリバルディ ナポリ
1932年

チャコ戦争: ボケロンの戦いが始まる。(9月29日まで)

南米チャコ戦争の重要な戦いが始まりました。
1932年9月7日、チャコ戦争においてパラグアイ軍とボリビア軍がボケロンで激突し、ボケロンの戦いが始まりました。 この戦いはチャコ戦争の最初期における最大規模の陸戦で、激しい塹壕戦が繰り広げられました。 パラグアイ軍は地形を巧みに利用して防御を固め、一方のボリビア軍は圧倒的な火力で攻勢を試みました。 戦闘は9月29日まで続き、多くの犠牲者を生む結果となり、戦局に大きな影響を与えました。 この戦闘はチャコ戦争全体の流れを決定づけた重要な転換点となりました。
1932年 チャコ戦争 ボケロンの戦い 英語版 9月29日