天平元年8月10日
藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)が聖武天皇の妃となる。初の皇族以外の皇后。
光明子が聖武天皇の妃となり、皇族以外初の皇后に就任した。
藤原氏の権勢がさらに強まる転機となった。
729年(天平元年)、藤原不比等の娘である光明子が聖武天皇の皇后に選ばれた。
皇族以外からの皇后就任は史上初の事例であった。
後に光明皇后と称された彼女は政治・文化両面で大きな影響力を持った。
この即位は藤原氏権力の拡大を象徴し、律令国家の体制にも変化をもたらした。
奈良時代の宮廷文化や仏教振興に多大な貢献を果たした。
729年
天平
8月10日
藤原不比等
光明皇后
聖武天皇
皇后
天平宝字2年8月1日
第47代天皇・淳仁天皇が即位。
第47代天皇・淳仁天皇が即位した。
聖武上皇の影響下で治世が始まった。
758年(天平宝字2年)、淳仁天皇が第47代天皇として即位した。
皇孫として即位したものの、在位中は聖武上皇の影響力が強かった。
財政難や農民反乱など政治的混乱が続いた。
764年に退位を余儀なくされ、流罪となった後生涯を終えた。
短命で波乱に満ちた治世は後世に批判的に語られることが多い。
758年
天平宝字
8月1日
淳仁天皇
1159年
教皇アレクサンデル3世が即位。
1159年、アレクサンデル3世が教皇に即位した。
アンチポープとの対立が続く時代の中で選ばれた。
1159年3月、ロベルト・ヴィジェランゲが教皇アレクサンデル3世として即位した。
教皇就任直後から複数のアンチポープとの抗争に巻き込まれた。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)との権力闘争が激化した。
1177年のヴェネツィア条約で両者の和解が図られ、教皇権優位の回復に成功した。
1181年までの長期政権で教会法・教会組織の整備を進めた。
1159年
アレクサンデル3世
1303年
アナーニ事件。フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世をローマ近郊のアナーニに捕囚。
1303年、フランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世をアナーニで捕囚し、権力闘争が表面化した。
1303年9月7日、フランス王フィリップ4世の命により教皇ボニファティウス8世がローマ近郊アナーニで拘束された。
これは教皇権と王権の対立が激化した結果であり、教会の威信に大きな打撃を与えた。
拘束は数日で解除されたものの、ボニファティウス8世は精神的苦痛を受けたと伝えられる。
この事件は後のアヴィニョン捕囚への伏線となり、教皇庁の権威失墜を象徴した。
中世ヨーロッパの世俗権力と宗教権力の軋轢を象徴する代表的な事件である。
1303年
アナーニ事件
フランス王
フィリップ4世
ボニファティウス8世
アナーニ
1571年
リドルフィ陰謀事件で、第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードをロンドン塔に移送するための英国女王の令状が届く。
1571年、リドルフィ陰謀事件でノーフォーク公爵トマス・ハワードがロンドン塔への移送を命じられた。
エリザベス1世暗殺計画が露見した。
1571年9月7日、ロドルフィ陰謀事件に関連し、ノーフォーク公爵トマス・ハワードのロンドン塔移送を命ずる女王令状が届いた。
ロドルフィはエリザベス1世暗殺とメアリー女王奪還を計画し、カトリック勢力と結託していた。
ハワードは政界有力者の一人だったが、内通者の密告で関与が発覚した。
彼は後に裁判で有罪とされるが、処刑を免れて幽閉された。
この事件は英国における宗教と政治の緊張関係を浮き彫りにした。
1571年
リドルフィ陰謀事件
英語版
ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
ロンドン塔
慶安4年7月23日
慶安の変。兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画が発覚。
1651年、慶安の変で由井正雪らの幕府転覆計画が露見した。
江戸幕府の治安体制が強化された。
1651年9月7日(慶安4年7月23日)、兵学者由井正雪らが江戸幕府打倒を企てた慶安の変が発覚した。
彼らは江戸城侵入や幕府高官暗殺を計画していたが、内通者の報告で未遂に終わった。
幕府は直ちに大規模な摘発を行い、正雪は自害、協力者は厳罰に処せられた。
事件後、幕府は大奥や江戸市中の監視を強化し、治安維持策を徹底した。
慶安の変は幕府統制体制の強化を促し、以後の治安政策に影響を与えた。
1651年
慶安
7月23日
慶安の変
由井正雪
1764年
ポーランド・リトアニア共和国の最後の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが即位。
ポーランド・リトアニア共和国最後の君主スタニスワフ・アウグストが即位。
1764年9月7日、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキがポーランド・リトアニア共和国の国王に選出・即位しました。
ロシア皇帝エカチェリーナ2世の後押しを受けた政治的決断であり、選挙王政末期の象徴的事件です。
即位後、彼は啓蒙思想に基づく諸改革を試み、教育制度や行政機構の近代化に着手。
しかし周辺列強の圧力と内部の反発により改革は難航しました。
その後の3度にわたる国土分割(分割統治)へとつながる重要な転換点となりました。
1764年
ポーランド・リトアニア共和国
国王
スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ
寛政10年7月27日
近藤重蔵らが択捉島の最北端に「大日本惠登呂府」の標識を建立。
択捉島の領有を示す日本政府の標識を建立。
1798年、幕府の探検家近藤重蔵らが蝦夷地探検の一環で択捉島最北端に到達。
「大日本惠登呂府」と刻まれた標識を建て、日本領であることを内外に示しました。
この遠征は北方領土の実効支配を強化する目的を持ち、幕府直轄の監視下で行われました。
標識の建立は以後の領土交渉や国際関係において重要な歴史的証拠となりました。
現在も探検隊の足跡は日露関係史の一部として語り継がれています。
1798年
寛政
7月27日
近藤重蔵
択捉島
1818年
カール14世ヨハンがノルウェーのニーダロス大聖堂で戴冠(5月11日ストックホルム大聖堂で行ったものに続く2度目の戴冠式)。
スウェーデン王カール14世ヨハンのノルウェー戴冠式。
1818年9月7日、スウェーデン王カール14世ヨハンがノルウェーの首都トロンハイムのニーダロス大聖堂で二度目の戴冠式を挙行。
同年5月にストックホルムで行った戴冠に続く公式儀礼として実施されました。
戴冠式はノルウェー王権承認の象徴であり、両国連合の統治正当性を示す重要な行事でした。
カール14世ヨハンはもとフランス元帥であり、バルテルム公爵として知られていた国際的逸話のある人物です。
両国民を一体化するための政治的意味合いが強い式典でした。
1818年
カール14世ヨハン
ニーダロス大聖堂
5月11日
1822年
ペドロ1世がブラジルのポルトガルからの独立を宣言。
ポルトガルからのブラジル独立を宣言した歴史的瞬間。
1822年9月7日、ポルトガル王家の皇子ペドロ1世がイピランガ川畔で『独立か死か(Independência ou Morte!)』と宣言。
これによりブラジル帝国の誕生が公式に宣言され、南米最大の独立国家が誕生しました。
独立運動はリオデジャネイロを中心に広がり、市民や軍隊の支持を受けて短期間で勝利が確定。
ペドロ1世は初代皇帝として即位し、帝政体制の下で近代国家建設に着手しました。
ブラジル独立はラテンアメリカ諸国の独立運動にも大きな波及効果をもたらしました。
1822年
ペドロ1世
ブラジル
ポルトガル
1860年
リソルジメント: ガリバルディがナポリ入城を果たす。
1860年9月7日、イタリア統一運動の指導者ガリバルディがナポリに入城し、両シチリア王国の制圧を確実にした。
リソルジメント(イタリア統一運動)の中核を担ったジュゼッペ・ガリバルディは、千人隊を先導して南イタリアへ進軍しました。1860年9月7日、ナポリに入城し、両シチリア王国の首都を制圧しました。この勝利によりサルデーニャ王国を中心としたイタリア統一に大きく前進しました。ガリバルディの行動は統一運動の象徴となり、後のイタリア王国成立への機運を高めました。
1860年
リソルジメント
ガリバルディ
ナポリ
1886年
明治天皇と政府の間で機務六条が結ばれ、親政権の放棄や立憲君主の受け入れを表明。
1886年9月7日、明治天皇と政府が機務六条を締結し、親政を放棄して立憲君主制を正式に受け入れた。
機務六条は、1886年9月7日に明治天皇と内閣が取り交わした政務運営に関する基本方針です。これにより天皇が直接政治を行う親政制を放棄し、臣下の輔弼に基づく立憲君主制を受け入れる姿勢が明文化されました。近代日本における天皇制と内閣制度の基盤を築く重要な転換点となりました。国会開設や憲法制定への道筋を整える契機となりました。
1886年
明治天皇
機務六条