70年

ユダヤ戦争・エルサレム攻囲戦: ティトゥス率いるローマ帝国軍がエルサレムを完全に制圧。

ローマ帝国軍がエルサレムを完全制圧した決定的な戦い。 第二神殿の破壊とユダヤ人のディアスポラが始まった。
70年、ローマ帝国とユダヤ人との間で起こった第一次ユダヤ戦争において、 ティトゥス率いるローマ軍はエルサレムを包囲し、徹底的に攻撃を加えた。 城壁は破壊され、第二神殿は焼失した。 この戦いの敗北はユダヤ人のディアスポラ(離散)を加速させた。 ローマは略奪と制圧により帝国の威信を誇示した。
70年 ユダヤ戦争 エルサレム攻囲戦 ティトゥス ローマ帝国 エルサレム
天平元年8月10日

藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)が聖武天皇の妃となる。初の皇族以外の皇后。

光明子が聖武天皇の妃となり、皇族以外初の皇后に就任した。 藤原氏の権勢がさらに強まる転機となった。
729年(天平元年)、藤原不比等の娘である光明子が聖武天皇の皇后に選ばれた。 皇族以外からの皇后就任は史上初の事例であった。 後に光明皇后と称された彼女は政治・文化両面で大きな影響力を持った。 この即位は藤原氏権力の拡大を象徴し、律令国家の体制にも変化をもたらした。 奈良時代の宮廷文化や仏教振興に多大な貢献を果たした。
729年 天平 8月10日 藤原不比等 光明皇后 聖武天皇 皇后
天平宝字2年8月1日

第47代天皇・淳仁天皇が即位。

第47代天皇・淳仁天皇が即位した。 聖武上皇の影響下で治世が始まった。
758年(天平宝字2年)、淳仁天皇が第47代天皇として即位した。 皇孫として即位したものの、在位中は聖武上皇の影響力が強かった。 財政難や農民反乱など政治的混乱が続いた。 764年に退位を余儀なくされ、流罪となった後生涯を終えた。 短命で波乱に満ちた治世は後世に批判的に語られることが多い。
758年 天平宝字 8月1日 淳仁天皇
1159年

教皇アレクサンデル3世が即位。

1159年、アレクサンデル3世が教皇に即位した。 アンチポープとの対立が続く時代の中で選ばれた。
1159年3月、ロベルト・ヴィジェランゲが教皇アレクサンデル3世として即位した。 教皇就任直後から複数のアンチポープとの抗争に巻き込まれた。 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)との権力闘争が激化した。 1177年のヴェネツィア条約で両者の和解が図られ、教皇権優位の回復に成功した。 1181年までの長期政権で教会法・教会組織の整備を進めた。
1159年 アレクサンデル3世
1191年

第3回十字軍: アルスフの戦い。リチャード1世の十字軍がサラーフッディーンを撃退。

1191年、アルスフの戦いでリチャード1世がサラーフッディーン軍を撃退した。 十字軍の戦術と士気が示された歴史的な勝利。
1191年9月7日、第3回十字軍の戦場となったアルスフでイングランド王リチャード1世が指揮を執った。 巧みな騎士戦術と防御陣形により、サラーフッディーン率いるアイユーブ朝軍を撃退した。 勝利により十字軍は補給線を確保し、聖地奪還作戦に有利な状況を築いた。 この戦いは中世騎士戦術の典型例として後世に語り継がれた。 リチャード1世の勇名は「獅子心王」の異名を一層強固にした。
1191年 第3回十字軍 アルスフの戦い リチャード1世 十字軍 サラーフッディーン
1228年

第6回十字軍: ローマ皇帝フリードリヒ2世がアッコに上陸。

1228年、フリードリヒ2世が第6回十字軍を率いてアッコに上陸した。 武力を用いず外交で聖地の一部を回復した。
1228年9月7日、ローマ皇帝フリードリヒ2世は第6回十字軍の旗手としてアッコに上陸した。 教皇と確執があったため武力行使を制限されたが、和平交渉に注力した。 数ヶ月の交渉を経てエルサレムなど聖地の一部返還を実現する条約が締結された。 外交的手法による「平和的十字軍」は異例の試みとされ、欧州で賛否を呼んだ。 フリードリヒ2世は学識と交渉術を駆使し、十字軍史に独自の足跡を残した。
1228年 第6回十字軍 ローマ皇帝 フリードリヒ2世 アッコ
1303年

アナーニ事件。フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世をローマ近郊のアナーニに捕囚。

1303年、フランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世をアナーニで捕囚し、権力闘争が表面化した。
1303年9月7日、フランス王フィリップ4世の命により教皇ボニファティウス8世がローマ近郊アナーニで拘束された。 これは教皇権と王権の対立が激化した結果であり、教会の威信に大きな打撃を与えた。 拘束は数日で解除されたものの、ボニファティウス8世は精神的苦痛を受けたと伝えられる。 この事件は後のアヴィニョン捕囚への伏線となり、教皇庁の権威失墜を象徴した。 中世ヨーロッパの世俗権力と宗教権力の軋轢を象徴する代表的な事件である。
1303年 アナーニ事件 フランス王 フィリップ4世 ボニファティウス8世 アナーニ
1571年

リドルフィ陰謀事件で、第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードをロンドン塔に移送するための英国女王の令状が届く。

1571年、リドルフィ陰謀事件でノーフォーク公爵トマス・ハワードがロンドン塔への移送を命じられた。 エリザベス1世暗殺計画が露見した。
1571年9月7日、ロドルフィ陰謀事件に関連し、ノーフォーク公爵トマス・ハワードのロンドン塔移送を命ずる女王令状が届いた。 ロドルフィはエリザベス1世暗殺とメアリー女王奪還を計画し、カトリック勢力と結託していた。 ハワードは政界有力者の一人だったが、内通者の密告で関与が発覚した。 彼は後に裁判で有罪とされるが、処刑を免れて幽閉された。 この事件は英国における宗教と政治の緊張関係を浮き彫りにした。
1571年 リドルフィ陰謀事件 英語版 ノーフォーク公爵 トマス・ハワード ロンドン塔
1620年

グスタフ2世アドルフによりコッコラが建設される。

1620年、グスタフ2世アドルフがフィンランド西海岸に新都市コッコラを建設した。 交易と漁業の拠点として発展が期待された。
1620年9月7日、スウェーデン王グスタフ2世アドルフはフィンランド西海岸にコッコラを創設した。 バルト海交易や漁業の拠点として設計された計画都市であった。 入植者と技術者を動員し、碁盤目状の街路と堅固な港湾施設が整備された。 コッコラの建設はスウェーデン帝国の東方政策と経済拡大を象徴する事業だった。 現在は歴史地区として保存され、17世紀初頭の都市計画を今に伝えている。
1620年 グスタフ2世アドルフ コッコラ
慶安4年7月23日

慶安の変。兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画が発覚。

1651年、慶安の変で由井正雪らの幕府転覆計画が露見した。 江戸幕府の治安体制が強化された。
1651年9月7日(慶安4年7月23日)、兵学者由井正雪らが江戸幕府打倒を企てた慶安の変が発覚した。 彼らは江戸城侵入や幕府高官暗殺を計画していたが、内通者の報告で未遂に終わった。 幕府は直ちに大規模な摘発を行い、正雪は自害、協力者は厳罰に処せられた。 事件後、幕府は大奥や江戸市中の監視を強化し、治安維持策を徹底した。 慶安の変は幕府統制体制の強化を促し、以後の治安政策に影響を与えた。
1651年 慶安 7月23日 慶安の変 由井正雪
1652年

郭懷一事件が勃発。

1652年、台湾で発生した郭懷一(グオ・ファイイー)による反乱事件。
1652年、台湾を支配していたオランダ東インド会社に対して台湾在住の漢人移民である郭懷一が反乱を起こしました。 反乱軍は一時的に拠点を掌握し、地元住民の支持を受けました。 オランダ側は増援部隊を派遣し、激しい戦闘の末に反乱を鎮圧。 郭懷一は捕らえられ処刑され、反乱の残党も根絶されました。 この事件は台湾における漢人移民の民族意識の高まりを象徴し、その後の植民政策にも影響を与えました。
1652年 郭懷一事件
1706年

スペイン継承戦争: トリノの戦い。

1706年、スペイン継承戦争におけるトリノ包囲戦をめぐる重要な会戦。
1706年9月、フランス軍が北イタリアの要衝トリノを包囲しました。 サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とオーストリアのオイゲン公爵が連合軍を率い、巧みな夜襲戦術で包囲軍を撃破。 トリノ解放に成功したことでフランスの北イタリア支配が後退し、戦局は大きく転換しました。 この勝利はオーストリア・サヴォイア連合に戦略的優位をもたらし、後の和睦交渉にも影響を与えました。 ヨーロッパ列強の勢力均衡に一石を投じた会戦として知られます。
1706年 スペイン継承戦争 トリノの戦い