394年
フリギドゥスの戦い。ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が対立皇帝エウゲニウスを破る。
ローマ帝国の分裂を左右したフリギドゥスの戦いで、テオドシウス1世が対立皇帝エウゲニウスを破り正統性を確立しました。
394年9月6日、テオドシウス1世率いる東ローマ軍とエウゲニウス率いる西ローマ軍がフリギドゥス川沿いで激突した。
戦闘は一日を通し両軍が激しく衝突し、多大な犠牲を伴う決戦となった。
テオドシウス軍は底力を見せつけ、巧妙な側面攻撃によってエウゲニウス軍を崩壊させた。
この勝利によりテオドシウス1世はローマ帝国の統一統治に向けた足掛かりを築き、帝国の正統皇帝として確固たる地位を得た。
後世の史書では、この戦いが帝国再統一の転機と位置づけられている。
394年
フリギドゥスの戦い
ローマ帝国
テオドシウス1世
エウゲニウス
1634年
三十年戦争:ネルトリンゲンの戦い。9月7日まで。
1634年のネルトリンゲンの戦いが9月6日から翌7日にかけて行われ、カトリック連合軍がプロテスタント連合軍に決定的勝利を収めました。
三十年戦争中の1634年9月6日、バイエルン・スペインなどのカトリック連合軍がシュヴェービシュ・ギュンツ川近郊でプロテスタント勢力に襲い掛かった。
指揮を執ったフェルディナント・フォンダースラッベン伯とイングランドの指揮官マンフォート伯が共同で攻撃を展開。
プロテスタント連合軍は前線を突破され、補給線が断たれるなどして大敗を喫した。
この勝利によりカトリック連合は勢力的優位に立ち、戦局は大きく転換した。
ネルトリンゲンの衝撃はプロテスタント諸侯に打撃を与え、後のウェストファリア条約締結までの流れに影響を与えた。
1634年
三十年戦争
ネルトリンゲンの戦い
9月7日
1781年
アメリカ独立戦争:グロトンハイツの戦い。
1781年、アメリカ独立戦争中のグロトンハイツの戦いが行われ、イギリス軍の奇襲で激戦となりました。
アメリカ独立戦争の最終盤、イギリス軍のベネディクト・アーノルド将軍率いる部隊がコネチカット州グロトン要塞を奇襲攻撃した。
1781年9月6日、要塞守備隊は必死に抵抗したものの、数で勝るイギリス軍に押されて壊滅的打撃を受けた。
攻撃後、イギリス軍はニュー・ロンドンの市街地を焼き払い、多くの民間人にも被害が及んだ。
この戦いは残虐さでも知られ、独立派住民の結束を一層強める結果となった。
グロトンハイツの戦いは独立戦争の苦難を象徴する出来事の一つとして語り継がれている。
1781年
アメリカ独立戦争
グロトンハイツの戦い
1813年
ナポレオン戦争:デネヴィッツの戦い
1813年、ナポレオン戦争中にプロイセン・ロシア連合軍がデネヴィッツでフランス軍を撃破しました。
1813年9月6日、ドイツ戦役の一環としてプロイセン軍とロシア軍の連合部隊がデネヴィッツ村付近でバイエルン王国軍と交戦した。
連合軍はブリュッヘル侯とブルシェ元帥の指揮下、フランス元帥ネイ率いる軍を包囲・撃破した。
この戦いでフランス軍は大きな損害を受け、ナポレオンのドイツにおける勢力は大きく後退した。
デネヴィッツの勝利はワルシャワ同盟諸国の士気を高め、終盤のライプツィヒの戦いへの布石となった。
戦術的にも協調作戦の成功例として評価され、ナポレオン戦争史における重要な転換点とされている。
1813年
ナポレオン戦争
デネヴィッツの戦い
英語版
1939年
第二次世界大戦:南アフリカ連邦が英国と連合国側に立ってナチス・ドイツに宣戦布告。
1939年9月6日、南アフリカ連邦がイギリス連合国側としてナチス・ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦しました。
ドミニオン諸国の参戦は大英帝国の戦争総力戦を支えました。
南アフリカ連邦は当時、イギリス王室を元首とする自治領でした。
9月6日に政府は公式にドイツに宣戦布告し、連合国側に立って戦争に参加。
国内ではアフリカーンス系住民の反発も強く、政治的対立が続出。
南アフリカ軍は北アフリカ戦線などで連合国軍の一翼を担いました。
参戦は連邦の国際的地位を高める一方、人種差別政策との矛盾を内包していました。
戦後、この参戦の評価は国内外で賛否両論を呼びました。
1939年
第二次世界大戦
南アフリカ連邦
ナチス・ドイツ
1939年
第二次世界大戦:バーキング・クリークの戦い、この戦争中での英空軍パイロット初の死者が同士討ちにより出る。
1939年9月6日、空軍パイロット同士の誤認攻撃により、バーキング・クリークの戦いでRAF初の戦死者が出ました。
開戦直後の混乱が引き起こした悲劇的事故です。
バーキング・クリークの戦いは第二次世界大戦開戦直後に発生。
識別ミスからイギリス機が味方機を敵機と誤認し攻撃を開始。
この事故でRAFパイロットが同士討ちで戦死し、軍内部に衝撃が走りました。
報告を受けて識別システムや無線連絡の改善が急務とされました。
同士討ちによる戦死例は非常にまれで、史上初のケースとして語り継がれています。
この事件は空中戦における識別技術の重要性を浮き彫りにしました。
バーキング・クリークの戦い
英語版
同士討ち
1944年
第二次世界大戦:イーペル解放。
第二次世界大戦中、ベルギーのイーペルが連合軍により解放された。
1944年9月6日、連合軍がイーペル(イープル)の占領を解放。
イーペルは第一次世界大戦でも激戦地となった歴史的都市。
ドイツ軍の撤退に伴い、カナダ軍や英国軍が市内に進攻した。
解放後は戦略的拠点として補給路の確保に重要な役割を果たした。
市民は自由を勝ち取り、復興への第一歩を踏み出した。
1944年
イーペル
1945年
第二次世界大戦・ニューギニアの戦い:ニューブリテン島、ニューアイルランド島方面の日本軍の今村均陸軍大将と草鹿任一海軍中将がセントジョージ海峡内の英空母グローリー上でオーストラリア軍への降伏文書に署名。
ニューギニア戦線で降伏文書が調印され、セントジョージ海峡で日本軍がオーストラリア軍に降伏。
1945年9月6日、ニューギニアのニューブリテン島・ニューアイルランド島方面で戦闘を終結。
今村均陸軍大将と草鹿任一海軍中将が英空母「グローリー」上で降伏文書に署名した。
これにより日本軍はオーストラリア第8軍に降伏し、地域での戦闘が正式に停止した。
援用された「グローリー」は戦後も歴史的な戦勝シンボルとして語り継がれる。
この調印は太平洋戦争終結の過程における重要な出来事の一つとされる。
1945年
ニューギニアの戦い
ニューブリテン島
ニューアイルランド島
今村均
草鹿任一
セントジョージ海峡
英語版
英
空母
グローリー
1955年
イスタンブール・ポグロム。
1955年9月6日、イスタンブールでトルコ人によるギリシャ系住民への大規模な暴動が発生しました。
イスタンブール・ポグロムは1955年9月6日、トプカプ宮殿の爆破事件に端を発し、ギリシャ系トルコ市民や商店、教会が襲撃・略奪・放火された一連の暴動です。数千名のギリシャ系住民が被害を受け、数十名が死亡、多数が負傷しました。事件はトルコ国内の反ギリシャ感情を露呈させ、エーゲ海を挟むギリシャ・トルコ関係を著しく悪化させました。国際的非難を浴びたこの暴動は、地域の民族間緊張の深刻さを象徴する歴史的事件として記憶されています。
1955年
イスタンブール・ポグロム
英語版
1965年
インド軍が国境を越えパキスタンに侵攻し、公式に第二次印パ戦争が開戦。
1965年9月6日、インド軍が国境を越えてパキスタンに侵攻し、第二次印パ戦争が正式に開戦しました。
第二次印パ戦争は、カシミール地方をめぐる緊張が高まる中で勃発したインドとパキスタンの軍事衝突です。1965年9月6日、インド軍がパンジャーブ方面で国境を越え進攻したことを契機に戦闘が本格化しました。両国は戦車戦や空中戦を繰り広げ、前線はカシミールとパンジャーブの広範囲に及びました。国連安全保障理事会の仲裁により9月23日に停戦が合意され、11月にはティフ協定が締結されて戦闘は終結。戦後の南アジア情勢に大きな影響を与え、以後も両国間の対立構造は継続しました。
1965年
第二次印パ戦争
1970年
PFLP旅客機同時ハイジャック事件。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が5機の旅客機を同時にハイジャック。
1970年9月6日、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が同時に5機の旅客機をハイジャックする重大事件が発生しました。
PFLP旅客機同時ハイジャック事件は、1970年9月6日にローマ発、ミュンヘン発、チューリヒ発、パリ発の5機の旅客機がパレスチナ解放人民戦線(PFLP)により同時にハイジャックされたテロ事件です。犯行グループは乗客を複数の収容地に拘束し、身代金や政治的要求を掲げて交渉を続行。最終的には各国政府の連携により交渉が成立し、乗客は解放されましたが、国際社会に大きな衝撃を与え、航空セキュリティ強化の契機となりました。
1970年
PFLP旅客機同時ハイジャック事件
パレスチナ解放人民戦線
1983年
自衛隊が傍受した大韓航空機撃墜事件の際のソ連軍機の交信記録が国連安保理で公開。
1983年9月6日、自衛隊が傍受したソ連軍機の交信記録が国連安全保障理事会で公開され、事件の真相を国際社会に示しました。
大韓航空機007便撃墜事件は1983年8月にソ連軍が民間旅客機を撃墜した衝撃的な事件です。日本の航空自衛隊は北太平洋上でソ連軍機の通信を傍受し、その記録を保有していました。1983年9月6日にこれらの交信記録が国連安全保障理事会で公開され、事件の経緯やソ連側の動きを国際社会に示しました。公開された記録には民間機か否かを議論するやり取りや追跡指示の内容が含まれていました。この情報公開は国際的な非難を強め、冷戦下での航空安全保障の課題を浮き彫りにしました。以降、民間航空機の軍事衝突防止策の見直しが各国で進められる契機となりました。
1983年
自衛隊
大韓航空機撃墜事件
国連安保理