1032年
ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去し、コンラート2世が相続によってブルグント王位を継承。以後2年ほど続くブルゴーニュ継承問題の始まり。
ブルグント王ルドルフ3世が後継者なく死去し、神聖ローマ皇帝コンラート2世が王位を継承。ブルゴーニュ継承問題が表面化しました。
1032年9月6日、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく没し、ブルグント王国は王統を失った。
神聖ローマ皇帝コンラート2世は血縁関係を根拠に王位相続を主張し、ブルグント王位を自らの手に収めた。
これに対し地方貴族や領主の一部は反発し、王位継承を巡る権利と領土の帰属を巡って対立が深まった。
以後約2年間にわたって続いたブルゴーニュ継承問題は、中世ヨーロッパの封建構造と皇帝権力の境界を浮き彫りにした。
最終的には皇帝権の優位が認められる形で収束し、ブルゴーニュは神聖ローマ帝国の一部として組み込まれることになった。
1032年
ブルグント
ルドルフ3世
ブルゴーニュ継承問題
フランス語版
康熙28年7月23日、ユリウス暦8月27日
ロシア帝国と清がネルチンスク条約に調印。中国初の国境画定条約。
1689年、ロシア帝国と清朝がネルチンスク条約を調印し、両国間で初めて正式に国境を画定しました。
17世紀後半、ロシアの東方進出と清朝の北方防備を巡りアムール川流域で紛争が頻発した。
康熙28年(1689年)7月23日(ユリウス暦8月27日)、両国はロシアのアルハンゲリスク派遣団と清朝のイェルチン使節団による交渉の末、ネルチンスク条約に調印した。
条約はアムール川北岸をロシア領、南岸を清朝領とし、黒竜江流域の一部を両国が分割統治する内容だった。
この合意は中国史上初の正式な国境画定であり、東アジアにおける大規模な国際条約締結の先駆けとなった。
結果として両国の関係は安定化し、長期にわたる平和的共存が可能となった。
1689年
康熙
7月23日
8月27日
ロシア帝国
清
ネルチンスク条約
1885年
東ルメリ自治州がブルガリア自治公国との統合を宣言。(統一の日)
1885年9月6日、東ルメリ自治州がブルガリア自治公国との統合を宣言し、両地域の統一が実現した日です。
現在もブルガリアで「統一の日」として祝われています。
東ルメリ自治州は1878年のベルリン会議でオスマン帝国下の自治州として設置されました。
民族主義運動の高まりを受け、1885年9月6日にブルガリア自治公国との統合を宣言。
この統合はほとんど血を流さずに達成され、ブルガリア国家の領土統一を促進しました。
当時の大国はこの動きを静観し、後に形式的に承認。
統合後のブルガリアは政治的安定と経済成長を享受しました。
この日はブルガリア国内で歴史的な転換点とみなされ、“統一の日”として記念されています。
1885年
東ルメリ自治州
ブルガリア自治公国
統合
英語版
統一の日
英語版
1901年
マッキンリー大統領暗殺事件。ウィリアム・マッキンリー米大統領が狙撃される。これがもとで9月14日に死亡。
1901年9月6日、アメリカ第25代大統領ウィリアム・マッキンリーが狙撃されました。
この事件は大統領の死去(9月14日)につながり、アメリカ史に大きな衝撃を与えました。
マッキンリー大統領はバッファロー万国博覧会の会場でレオン・チョルゴッシュに狙撃されました。
事件後、負傷したマッキンリーは回復を見せましたが、傷口の感染により9月14日に死去。
暗殺者チョルゴッシュは無政府主義者であり、政治的動機があったとされています。
副大統領だったセオドア・ルーズベルトが職務を継承し、新たなリーダーシップを発揮。
大統領警護体制の見直しと大統領権限の強化につながりました。
マッキンリーの暗殺は20世紀初頭のアメリカ社会に大きな影響を与えました。
1901年
マッキンリー大統領暗殺事件
ウィリアム・マッキンリー
米大統領
9月14日
1930年
アルゼンチンでクーデター、第19代アルゼンチン統領イポリト・イリゴージェンが退陣を余儀なくされる。
1930年9月6日、アルゼンチンでホセ・フェリクス・ウリブリ将軍らによるクーデターが成功し、イポリト・イリゴージェン大統領が退陣を余儀なくされました。
第19代大統領イリゴージェンの民主的政権が軍事力によって終焉を迎えました。
当時のアルゼンチンは経済不況と政治的不安定に苦しんでいました。
9月6日に陸軍上級将校らが首都ブエノスアイレスでクーデターを敢行。
非暴力で政権を掌握し、イリゴージェンは辞任を強いられ国外追放。
ホセ・フェリクス・ウリブリ将軍が暫定政府を樹立し、軍政時代が始まりました。
このクーデターは南米における軍事介入の先例として注目されます。
アルゼンチン政治はその後も軍事政権と市民政権の間で揺れ動くことになりました。
1930年
アルゼンチン
クーデター
アルゼンチン統領
イポリト・イリゴージェン
1940年
国民の非難の声を受けルーマニア王カロル2世が退位し再び亡命。息子のミハイ1世が復位。イオン・アントネスクが首相に就任し国民投票の末、国家指導者(Conducător、総統とも)の地位に就く。
国民の非難を受けてルーマニア王カロル2世が退位し、息子ミハイ1世が即位。
イオン・アントネスクが国家指導者(Conducător)に就任し、独裁体制を始動させた。
第二次世界大戦の激化と敗戦の危機感から国内でカロル2世への不満が高まった。
民衆の抗議と政治的圧力の結果、9月6日にカロル2世は退位を決断した。
王位は17歳のミハイ1世に継承され、若き新国王が復位した。
イオン・アントネスクは首相に就任後、国家指導者(Conducător)の地位に選出された。
アントネスクは国民投票を経て権力を集中させ、権威主義的な体制を強化した。
この出来事はルーマニアが枢軸国側へ接近する転換点となった。
1940年
ルーマニア
カロル2世
ミハイ1世
イオン・アントネスク
総統
1941年
第二次世界大戦:御前会議で帝国国策遂行要領を決定。10月下旬までに米英に対する日本の要求が通らない場合は開戦を決意すると決定。
御前会議で帝国国策遂行要領が決定され、米英への最後通牒に失敗した場合の開戦方針が確認された。
1941年9月6日、天皇臨席の御前会議で「帝国国策遂行要領」が採択された。
会議では対米英交渉の行方によっては戦争も辞さない決意が示された。
10月下旬までに米英の要求を受け入れない場合、対英米開戦を決意する方針が確認された。
この決定は太平洋戦争勃発への重要なステップとなった。
日本政府は資源確保と国際孤立回避の両立を図りつつも強硬路線を選んだ。
結果的に米英との交渉が決裂し、翌12月に開戦に踏み切った。
1941年
御前会議
帝国国策遂行要領
1945年
トルーマン米大統領が「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令。
トルーマン大統領が対日初期方針を承認し、マッカーサーに指令を発した。
1945年9月6日、ハリー・S・トルーマン米大統領が占領下の日本に対する初期方針を承認。
方針には民主化と非軍事化、戦犯裁判の実施などが含まれていた。
トルーマンはこの計画をダグラス・マッカーサー元帥に指令として伝達。
マッカーサーは連合国最高司令官として日本占領を統括する準備を進めた。
この指令は戦後日本の政治・社会構造を大きく変える契機となった。
トルーマン
マッカーサー
1946年
アメリカ合衆国国務長官ジェームズ・F・バーンズが、シュトゥットガルトで共産主義勢力への対抗と本格的経済再建への着手などを演説し、ドイツ政策の見直しを表明。
バーンズ国務長官がシュトゥットガルト演説でドイツ政策の見直しを表明し、冷戦構造の一端を示した。
1946年9月6日、ジェームズ・F・バーンズ米国務長官がシュトゥットガルトで演説を行った。
演説では共産主義勢力への対抗と西ドイツの経済再建への支援が強調された。
同時に連合国による占領政策の再評価を示唆し、米国主導の新政策が明らかになった。
この「シュトゥットガルト演説」はトルーマン・ドクトリンの前提となる重要な指針とされる。
演説後、マーシャル・プランなど欧州復興政策への足掛かりが整備された。
1946年
アメリカ合衆国国務長官
ジェームズ・F・バーンズ
シュトゥットガルト
共産主義
ドイツ政策の見直し
1966年
南アのヘンドリック・フルウールト首相が 、ケープタウンで刺殺。
1966年9月6日、南アフリカ連邦の首相ヘンドリック・フルヴォールトがケープタウンの議会で刺殺されました。
ヘンドリック・マリー・ベルヴォールト(Hendrik Verwoerd)は、アパルトヘイト政策の中心的人物として知られる南アフリカ連邦の首相でした。1966年9月6日、ケープタウンの国会議事堂で演説中、議員ディミトリ・ツァフェンダスに襲われ胸部を刺され即死。政界と国際社会に大きな衝撃を与え、南アの人種隔離体制への批判が一層高まりました。事件後もアパルトヘイト政策は継続されましたが、同首相の暗殺は制度維持派にとっても予期せぬ事態となりました。
1966年
ヘンドリック・フルウールト
首相
ケープタウン
1968年
スワジランドがイギリス保護領から独立。
1968年9月6日、スワジランド(現エスワティニ王国)がイギリス保護領から独立しました。
長年イギリスの保護領であったスワジランドは、アフリカ各国の独立運動の波を受け、1968年9月6日にイギリスより主権を回復し独立国家となりました。初代国王モスワティ3世が即位し、立憲君主制のもとで政治基盤や行政機構の整備が進められました。独立後もイギリス連邦への加盟を維持しながら経済開発や教育制度の発展に努め、現在は2022年に国名をエスワティニ王国に改称しています。
1968年
スワジランド
イギリス
保護領
1976年
冷戦:ベレンコ中尉亡命事件。ソ連のミグ25戦闘機が函館空港に着陸し、アメリカへの亡命を求める。
1976年9月6日、ソ連空軍中尉ビクトル・ベレンコがミグ25戦闘機で函館空港に不時着し、アメリカへの亡命を希望しました。
ベレンコ中尉亡命事件は、冷戦期にソ連の最新鋭機ミグ25が西側に流出する重大事件です。1976年9月6日、ビクトル・イヴァノヴィチ・ベレンコ中尉が訓練飛行中に日本海上空から函館空港へ不時着を敢行し、アメリカへの亡命を求めました。機体は米英両国の技術者によって徹底的に解体・分析され、ソ連の航空技術が詳細に明らかになりました。この事件はNATO諸国の防空戦力や戦略構想に影響を与え、冷戦下の軍事バランスを再考させる契機となりました。
1976年
冷戦
ベレンコ中尉亡命事件
ソ連
ミグ25
函館空港
亡命