394年

フリギドゥスの戦い。ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が対立皇帝エウゲニウスを破る。

ローマ帝国の分裂を左右したフリギドゥスの戦いで、テオドシウス1世が対立皇帝エウゲニウスを破り正統性を確立しました。
394年9月6日、テオドシウス1世率いる東ローマ軍とエウゲニウス率いる西ローマ軍がフリギドゥス川沿いで激突した。 戦闘は一日を通し両軍が激しく衝突し、多大な犠牲を伴う決戦となった。 テオドシウス軍は底力を見せつけ、巧妙な側面攻撃によってエウゲニウス軍を崩壊させた。 この勝利によりテオドシウス1世はローマ帝国の統一統治に向けた足掛かりを築き、帝国の正統皇帝として確固たる地位を得た。 後世の史書では、この戦いが帝国再統一の転機と位置づけられている。
394年 フリギドゥスの戦い ローマ帝国 テオドシウス1世 エウゲニウス
1032年

ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去し、コンラート2世が相続によってブルグント王位を継承。以後2年ほど続くブルゴーニュ継承問題の始まり。

ブルグント王ルドルフ3世が後継者なく死去し、神聖ローマ皇帝コンラート2世が王位を継承。ブルゴーニュ継承問題が表面化しました。
1032年9月6日、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく没し、ブルグント王国は王統を失った。 神聖ローマ皇帝コンラート2世は血縁関係を根拠に王位相続を主張し、ブルグント王位を自らの手に収めた。 これに対し地方貴族や領主の一部は反発し、王位継承を巡る権利と領土の帰属を巡って対立が深まった。 以後約2年間にわたって続いたブルゴーニュ継承問題は、中世ヨーロッパの封建構造と皇帝権力の境界を浮き彫りにした。 最終的には皇帝権の優位が認められる形で収束し、ブルゴーニュは神聖ローマ帝国の一部として組み込まれることになった。
1032年 ブルグント ルドルフ3世 ブルゴーニュ継承問題 フランス語版
1492年

クリストファー・コロンブスが、大西洋横断前の最後の陸地となるカナリア諸島・ラ・ゴメラ島を出港。

1492年、コロンブスの艦隊が大西洋横断に向けて最後の寄港地ラ・ゴメラ島を出発しました。
コロンブスはスペイン女王イザベル1世と国王フェルナンド2世の支援を受け、インド航路を目指して西方へ航海を企図した。 出港前の最終補給地として選ばれたカナリア諸島のラ・ゴメラ島では食糧や水、航海用具の整備が行われた。 1492年9月6日、3隻の船団(サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号)は平穏な大西洋へ漕ぎ出した。 この航海は未知の世界への冒険であり、翌月にはアメリカ大陸との出会いをもたらす歴史的瞬間となった。 コロンブス遠征は後の欧州による新大陸開拓の契機と位置づけられている。
1492年 クリストファー・コロンブス 大西洋 カナリア諸島 ラ・ゴメラ島
1522年

フェルディナンド・マゼラン一行の5隻の船のうち唯一生き残ったビクトリア号がスペインのサンルカール・デ・バラメーダに帰還。人類史上初の世界一周を達成。

1522年、マゼラン探検隊のビクトリア号が生還し、人類史上初の世界周航を成し遂げました。
1519年に西回りで世界を目指したマゼラン艦隊は、過酷な航海と食糧難、戦闘により船団の大半を失った。 1521年にマゼラン自身はフィリピンで戦死し、残された数隻で帰還を目指すこととなる。 1522年9月6日、艦隊唯一の生存船ビクトリア号がサンルカール・デ・バラメーダに戻り、初の世界一周を完了した。 指揮を執ったフアン・セバスティアン・エルカーノの偉業は地球球体説を決定づけ、世界地図の作成に大きく貢献した。 この探検は近世大航海時代の象徴的出来事となり、ヨーロッパの大洋進出を加速させた。
1522年 フェルディナンド・マゼラン ビクトリア号 スペイン 世界一周
1634年

三十年戦争:ネルトリンゲンの戦い。9月7日まで。

1634年のネルトリンゲンの戦いが9月6日から翌7日にかけて行われ、カトリック連合軍がプロテスタント連合軍に決定的勝利を収めました。
三十年戦争中の1634年9月6日、バイエルン・スペインなどのカトリック連合軍がシュヴェービシュ・ギュンツ川近郊でプロテスタント勢力に襲い掛かった。 指揮を執ったフェルディナント・フォンダースラッベン伯とイングランドの指揮官マンフォート伯が共同で攻撃を展開。 プロテスタント連合軍は前線を突破され、補給線が断たれるなどして大敗を喫した。 この勝利によりカトリック連合は勢力的優位に立ち、戦局は大きく転換した。 ネルトリンゲンの衝撃はプロテスタント諸侯に打撃を与え、後のウェストファリア条約締結までの流れに影響を与えた。
1634年 三十年戦争 ネルトリンゲンの戦い 9月7日
康熙28年7月23日、ユリウス暦8月27日

ロシア帝国と清がネルチンスク条約に調印。中国初の国境画定条約。

1689年、ロシア帝国と清朝がネルチンスク条約を調印し、両国間で初めて正式に国境を画定しました。
17世紀後半、ロシアの東方進出と清朝の北方防備を巡りアムール川流域で紛争が頻発した。 康熙28年(1689年)7月23日(ユリウス暦8月27日)、両国はロシアのアルハンゲリスク派遣団と清朝のイェルチン使節団による交渉の末、ネルチンスク条約に調印した。 条約はアムール川北岸をロシア領、南岸を清朝領とし、黒竜江流域の一部を両国が分割統治する内容だった。 この合意は中国史上初の正式な国境画定であり、東アジアにおける大規模な国際条約締結の先駆けとなった。 結果として両国の関係は安定化し、長期にわたる平和的共存が可能となった。
1689年 康熙 7月23日 8月27日 ロシア帝国 ネルチンスク条約
寛延元年8月14日

人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大坂竹本座で初演。

1748年、大坂竹本座で元禄赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演されました。
作者坂田藤十郎らによって脚本が書かれ、1748年9月6日(寛延元年8月14日)に大坂竹本座で初演された。 忠臣蔵の物語を浄瑠璃と三味線、人形遣いの技術で表現し、観客を魅了した。 人形浄瑠璃として完成度の高さとドラマ性豊かな演出で高い評価を受け、その後の江戸時代を代表する名作となった。 のちに歌舞伎化もされ、現代まで続く日本の忠臣蔵ブームの元祖と位置づけられている。 当時の上演記録や絵本、台本は今も研究資料として貴重視されている。
1748年 寛延 8月14日 人形浄瑠璃 仮名手本忠臣蔵 大坂 竹本座
1781年

アメリカ独立戦争:グロトンハイツの戦い。

1781年、アメリカ独立戦争中のグロトンハイツの戦いが行われ、イギリス軍の奇襲で激戦となりました。
アメリカ独立戦争の最終盤、イギリス軍のベネディクト・アーノルド将軍率いる部隊がコネチカット州グロトン要塞を奇襲攻撃した。 1781年9月6日、要塞守備隊は必死に抵抗したものの、数で勝るイギリス軍に押されて壊滅的打撃を受けた。 攻撃後、イギリス軍はニュー・ロンドンの市街地を焼き払い、多くの民間人にも被害が及んだ。 この戦いは残虐さでも知られ、独立派住民の結束を一層強める結果となった。 グロトンハイツの戦いは独立戦争の苦難を象徴する出来事の一つとして語り継がれている。
1781年 アメリカ独立戦争 グロトンハイツの戦い
1791年

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの歌劇『皇帝ティートの慈悲』がプラハで初演。

1791年、モーツァルトの歌劇『皇帝ティートの慈悲』がプラハで初演され、絶賛を浴びました。
モーツァルトが神聖ローマ皇帝レオポルト2世の戴冠式祝賀のために作曲した作品として知られる。 1791年9月6日、プラハのグロッケンシュピール劇場で初演が行われ、市民や貴族から高い評価を受けた。 「慈悲」と「権力」の葛藤を描いたドラマティックな台本と、美しいアリアの数々が聴衆を魅了した。 この作品はモーツァルトの最後のオペラ作品の一つとされ、彼の成熟した作曲技法が遺憾なく発揮されている。 初演後はヨーロッパ各地で上演され、今なおレパートリーとして愛され続けている。
1791年 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 皇帝ティートの慈悲 プラハ
1813年

ナポレオン戦争:デネヴィッツの戦い

1813年、ナポレオン戦争中にプロイセン・ロシア連合軍がデネヴィッツでフランス軍を撃破しました。
1813年9月6日、ドイツ戦役の一環としてプロイセン軍とロシア軍の連合部隊がデネヴィッツ村付近でバイエルン王国軍と交戦した。 連合軍はブリュッヘル侯とブルシェ元帥の指揮下、フランス元帥ネイ率いる軍を包囲・撃破した。 この戦いでフランス軍は大きな損害を受け、ナポレオンのドイツにおける勢力は大きく後退した。 デネヴィッツの勝利はワルシャワ同盟諸国の士気を高め、終盤のライプツィヒの戦いへの布石となった。 戦術的にも協調作戦の成功例として評価され、ナポレオン戦争史における重要な転換点とされている。
1813年 ナポレオン戦争 デネヴィッツの戦い 英語版
1885年

東ルメリ自治州がブルガリア自治公国との統合を宣言。(統一の日)

1885年9月6日、東ルメリ自治州がブルガリア自治公国との統合を宣言し、両地域の統一が実現した日です。 現在もブルガリアで「統一の日」として祝われています。
東ルメリ自治州は1878年のベルリン会議でオスマン帝国下の自治州として設置されました。 民族主義運動の高まりを受け、1885年9月6日にブルガリア自治公国との統合を宣言。 この統合はほとんど血を流さずに達成され、ブルガリア国家の領土統一を促進しました。 当時の大国はこの動きを静観し、後に形式的に承認。 統合後のブルガリアは政治的安定と経済成長を享受しました。 この日はブルガリア国内で歴史的な転換点とみなされ、“統一の日”として記念されています。
1885年 東ルメリ自治州 ブルガリア自治公国 統合 英語版 統一の日 英語版
1901年

マッキンリー大統領暗殺事件。ウィリアム・マッキンリー米大統領が狙撃される。これがもとで9月14日に死亡。

1901年9月6日、アメリカ第25代大統領ウィリアム・マッキンリーが狙撃されました。 この事件は大統領の死去(9月14日)につながり、アメリカ史に大きな衝撃を与えました。
マッキンリー大統領はバッファロー万国博覧会の会場でレオン・チョルゴッシュに狙撃されました。 事件後、負傷したマッキンリーは回復を見せましたが、傷口の感染により9月14日に死去。 暗殺者チョルゴッシュは無政府主義者であり、政治的動機があったとされています。 副大統領だったセオドア・ルーズベルトが職務を継承し、新たなリーダーシップを発揮。 大統領警護体制の見直しと大統領権限の強化につながりました。 マッキンリーの暗殺は20世紀初頭のアメリカ社会に大きな影響を与えました。
1901年 マッキンリー大統領暗殺事件 ウィリアム・マッキンリー 米大統領 9月14日