1960年

モハメド・アリがローマ五輪のボクシング競技のライトヘビー級で金メダルを獲得。当時はカシアス・クレイの名前で出場していた。

カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)がローマオリンピックのボクシング・ライトヘビー級で金メダルを獲得しました。
1960年9月5日、ローマオリンピックのライトヘビー級決勝で19歳のカシアス・クレイはポーランドのズビグニェフ・ピエトリチコフスキィを3-2の判定で破り、金メダルを獲得しました。軽快なフットワークと俊敏なパンチで相手を圧倒し、アマチュア界のスターとして注目を集めました。この勝利が契機となり、後にプロへ転向してモハメド・アリと改名。ボクシング史に残る伝説的なキャリアを築く第一歩となりました。
モハメド・アリ ローマ五輪 ボクシング競技
1962年

国鉄スワローズの金田正一が通算3509奪三振の世界記録(当時)を達成。

国鉄スワローズのエース金田正一が通算奪三振3509を記録し、当時の世界記録を樹立しました。
1962年9月5日、金田正一はプロ野球史上初となる通算3509奪三振を達成しました。剛速球と多彩な変化球を武器に1試合平均7奪三振以上を維持し続けた剛腕投手は、この記録で世界の注目を集めました。記録達成試合では地元ファンの声援を受けながら見事な投球を披露し、野球界に新たな金字塔を打ち立てました。この偉業はその後長く破られず、金田は日本プロ野球を象徴する投手として語り継がれました。
1962年 国鉄スワローズ 金田正一
1970年

この年のF1ワールドグランプリにて第10戦のイタリアGP予選での事故で死亡したヨッヘン・リントが死後に優勝。F1のドライバーズチャンピオンを死後追贈された唯一のレーサーとなる。

ヨッヘン・リントが1970年イタリアGP予選で事故死し、史上唯一の死後のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。
ヨッヘン・リントは1970年シーズンの第10戦イタリアGP予選中の事故で亡くなった後、唯一の死後追贈ドライバーズチャンピオンとなりました。彼はモナコGPなどで活躍し、シーズン中盤まで首位を走行していました。イタリアGPの事故は最終戦前の出来事でしたが、最終的にポイントリードを保ったままチャンピオンに輝きました。この出来事はモータースポーツ史上でも異例のケースとして語り継がれており、F1安全対策の見直しを促す契機ともなりました。
イタリアGP
1972年

ミュンヘンオリンピック事件。ミュンヘンオリンピックの選手村でパレスチナゲリラがイスラエル選手団を殺害。

1972年ミュンヘンオリンピックの選手村でパレスチナゲリラがイスラエル選手団を襲撃し、選手11人を殺害した。
1972年9月5日未明、ミュンヘンオリンピックの選手村にパレスチナ解放機構のメンバーが侵入し、イスラエル選手団を人質に取りました。最終的に選手11人が惨殺され、2名のドイツ警察官と5名のテロリストも死亡しました。この事件はオリンピック史上初のテロ行為として世界に衝撃を与えました。西側諸国はスポーツイベントの安全対策を見直し、以降の国際大会で厳重な警備が導入されました。事件はその後の中東和平交渉にも影響を及ぼしました。
1972年 ミュンヘンオリンピック事件 ミュンヘンオリンピック 選手村 イスラエル
1977年

9月3日に通算ホームラン数の世界最高記録(756本)を樹立した王貞治に、初の国民栄誉賞が贈られ、授賞式が行われる。

王貞治が通算756本塁打の世界新記録達成を受け、初の国民栄誉賞を授与された。
1977年9月5日、プロ野球選手の王貞治に日本初の国民栄誉賞が贈られ、授賞式が東京都内で行われました。王は9月3日に通算756本塁打の世界記録を樹立し、国民的ヒーローとなりました。昭和天皇からの表彰状と楯が手渡され、ファンから大きな祝福を受けました。この授賞はスポーツ選手としては初めての快挙であり、その後の表彰制度にも大きな影響を与えました。
9月3日 王貞治 国民栄誉賞