476年

西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって退位させられ、西ローマ帝国が滅亡。

476年、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられ、長きにわたった西ローマ帝国が終焉を迎えた日。
西ローマ帝国は内乱と傭兵制度の崩壊により弱体化していた。10歳前後で皇帝に即位していたロムルス・アウグストゥルスは実権を握れずにいた。傭兵隊長オドアケルは実権を掌握し、元老院へ皇帝退位を通告した。これにより西ローマ帝国は事実上終焉し、約五百年続いた古代ローマ帝国の西域は崩壊した。その後、イタリア半島ではゲルマン人王国が興隆し、ヨーロッパ中世への転換点となった。
476年 ロムルス・アウグストゥルス オドアケル 西ローマ帝国
武徳9年8月8日

李世民(太宗)が唐の第2代皇帝に即位。

626年、李世民が唐の第2代皇帝・太宗として即位し、中国史上の黄金期の礎を築いた日。
李世民は父高祖李淵の後を継ぎ、唐王朝の第2代皇帝として正式に即位した。彼は科挙制度の整備や貴族勢力の抑制など内政改革を断行した。軍事面でも優れた指導力を発揮し、西域遠征や東突厥征伐に成功した。彼は学者や文人を重用し、文化面でも大きな繁栄をもたらした。これらの治世は「貞観の治」と称され、後の中国文化や政治制度に大きな影響を与えた。
626年 武徳 8月8日 太宗
925年

ウェセックス家の王族アゼルスタンがアングロ・サクソン人の王に就任。

925年、ウェセックス公アゼルスタンがアングロ・サクソン人の王に就任し、イングランド統一への道を開いた日。
ウェセックス公アゼルスタンは西イングランドを基盤に勢力を拡大していた。彼はキリスト教布教を進めつつ、北部・中部の諸王族を服属させた。正式にアングロ・サクソン王として即位することで政治的権威を確立し、後のイングランド統一王国の礎を築いた。彼はまた教会との関係も重視し、王権強化と宗教的整備を両立させた。アゼルスタンの治世は安定をもたらし、交易や農業の発展を促進した。
925年 ウェセックス家 アゼルスタン アングロ・サクソン人の王
1282年

アラゴン王ペドロ3世がパレルモにてシチリア王ピエトロ1世として即位することを宣言する。

1282年、アラゴン王ペドロ3世がパレルモでシチリア王としての即位を宣言し、新たな王権を主張した日。
シチリア晩祷事件をきっかけに、マッターナと呼ばれる反乱が発生した。これに乗じてアラゴン王ペドロ3世はシチリア島へ進軍し、現地貴族や市民の支持を得た上でピエトロ1世として即位を宣言した。彼の介入はアンジュー家との対立を激化させ、地中海におけるアラゴン勢力の拡大に繋がった。以後、シチリア王国はアラゴンとの連合体制として発展し、地中海情勢に大きな影響を与えた。彼の即位宣言はヨーロッパ各国に波紋を広げ、外交的緊張を引き起こした。
1282年 アラゴン王 ペドロ3世 パレルモ シチリア王
1479年

アルサソヴァス条約(英語版)がアフォンソ5世らによって署名される。

1479年、アフォンソ5世らがアルサソヴァス条約を署名し、伊比利半島の領域分割と海洋権益が定められた日。
アルサソヴァス条約はカスティーリャ王国とポルトガル王国の間で締結された講和条約である。ポルトガル王アフォンソ5世とカスティーリャ王フェルナンド2世らが署名し、カナリア諸島や西大西洋の水路における支配権を画定した。これによりポルトガルは大西洋航路での優位を確立し、後の大航海時代での植民活動に大きな影響を与えた。条約はイベリア諸国の競争と協調のバランスを象徴する重要文書とされる。海洋進出の法的根拠を明確にしたことから、新大陸発見後の領有権競争にも大きな影響を与えた。
1479年 アルサソヴァス条約 英語版 アフォンソ5世
1607年

Flight of the Earls: ヒュー・オニールが90人ほどの味方と共にアイルランドからの退去を開始。

1607年、ヒュー・オニールらアイルランド貴族が国外へ退去し、ゲール貴族時代の終焉を告げる『諸侯の亡命』が始まった日。
『Flight of the Earls』はアルスター伯ヒュー・オニールとクラン伯らがイングランド王権との対立を逃れ、約90人の支持者と共にアイルランドを出航した出来事である。彼らの退去によりアルスター地方の支配権は没収され、イングランドによるプランテーション政策が加速した。これが伝統的ゲール社会の解体を促し、アイルランドの社会構造に深い影響を与えた。彼らは大陸各地に亡命し、帰還を試みたものの政治的再興は叶わなかった。この出来事はアイルランド史における重要な転換点とされ、プランテーション政策の加速を招いた。
1607年 Flight of the Earls ヒュー・オニール
宝永7年8月11日

新宮家・閑院宮を創設。

江戸時代において、皇室の分家として新宮家と閑院宮が創設されました。 幕府との関係調整や皇位継承に備えた重要な制度改革でした。
1710年、後水尾天皇の第四皇子にあたる宮家として新宮家と閑院宮が設立されました。 これは、皇位継承の安定化と宮廷勢力の調整を目的としたものでした。 創設当初は宮家の財政基盤の確立や領地の分配が課題となりました。 また、幕府との協力関係を維持しつつ、朝廷儀礼に参加する役割が与えられました。 この制度は以後の宮家制度にも影響を与え、近世皇室の構造を特徴づける出来事です。
1710年 宝永 8月11日 閑院宮
1781年

スペインのネベ総督が現在のロサンゼルスの前身となる村落を建設。

スペイン植民地の総督ペドロ・フェリクス・デ・ネベが、現在のロサンゼルスの前身となる定住地を創設しました。 カリフォルニア南部の歴史的起点です。
1781年9月4日、スペイン帝国のカリフォルニア総督ペドロ・フェリクス・デ・ネベは、川沿いの小規模な村落を設立しました。 この集落は「エル・プエブロ・デ・ヌエストラ・セニョーラ・レイナ・デ・ロス・アンヘレス」と名付けられ、後にロサンゼルスへと発展します。 設立にはスペイン政府による入植者や宣教師が関与し、現地のトンガ族との交渉も行われました。 当初は農業と牧畜を基盤としたコミュニティで、街道や教会の建設が進みました。 この日をロサンゼルス市の創設記念日として、現代でも祝賀行事が催されるなど重要な歴史的節目とされています。
1781年 スペイン ロサンゼルス
1800年

マルタ包囲戦が終了。マルタはイギリスの保護国になる。

ナポレオン率いるフランス軍に対するマルタ包囲戦が終結し、島はイギリス保護下に入りました。 地中海覇権の一環として重要な転換点です。
1800年9月4日、イギリス海軍とオスマン帝国の連合軍がマルタ島のフランス守備隊から降伏を受け、包囲戦が終了しました。 これにより、マルタは事実上イギリスの保護国となり、戦略的要衝として地中海航路の要となりました。 イギリスはマルタに要塞建設と港湾整備を進め、後の軍事基地としての役割を強化しました。 フランス革命戦争における英仏戦線のひとつの節目であり、英国海軍の地中海支配を確実にしました。 この契機が1814年のセント・ジュリアン条約での領有承認へとつながります。
1800年 マルタ包囲戦
1870年

フランス皇帝ナポレオン3世がプロイセンの捕虜となったのを受けてパリで蜂起が発生し、国防政府(臨時政府)が成立。第二帝政が終焉を迎え、第三共和政が始まる。

普仏戦争に敗北しナポレオン3世が捕虜となったことで、パリ市民が蜂起し臨時の国防政府を樹立しました。 フランス第二帝政が終焉し、第三共和政が発足しました。
1870年9月4日、セダンの戦いでプロイセン軍に捕らえられたナポレオン3世の報に触れ、パリで市民蜂起が勃発しました。 共和主義者や労働者らがパリ市壁に立てこもり、臨時国防政府を樹立して抵抗を宣言しました。 政府は総動員令を発し、市民義勇隊を組織して普仏戦争の継続を図りました。 この政変により長く続いた第二帝政は崩壊し、1871年に第三共和政の基盤が整備されました。 政治的混乱の中、市民の政治参加意識が高まり、フランスの近代民主主義の礎となった出来事です。
1870年 フランス皇帝 ナポレオン3世 第二帝政 第三共和政
1914年

イギリス、フランス、ロシアの政府間でロンドン条約(フランス語版)が締結。

イギリス・フランス・ロシア間でロンドン条約が調印され、三国協商の結束が強化された日。
1914年9月4日、イギリス、フランス、ロシアの政府代表がロンドンで条約を締結しました。 この協定は三国協商(トリプル・エンテンテ)の結束を公式に確認するものです。 当時、第一次世界大戦開戦直前の緊張が高まる中で制定されました。 条約には相互防衛義務や協調行動の取り決めが盛り込まれています。 欧州列強間のパワーバランスに大きな影響を与え、戦局にも関与しました。
1914年 ロンドン条約 フランス語版
1919年

ムスタファ・ケマル・アタテュルクがシヴァス会議を開く。9月11日まで。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクがシヴァス会議を開き、トルコ独立運動の基礎を築いた日。
1919年9月4日、ケマルはトルコ東部シヴァスで民族会議を召集しました。 この会議はオスマン帝国崩壊後のトルコ独立運動を統率する重要な場となります。 各地方代表が集まり、政府権限の集中と反占領闘争の方針を協議しました。 最終的にアンカラへ基幹政府を移す決定がなされ、国民運動の拠点が確立。 シヴァス会議は後のトルコ共和国樹立へと繋がる転換点でした。
1919年 ムスタファ・ケマル・アタテュルク シヴァス会議 英語版 9月11日