紀元前401年
クナクサの戦い
紀元前401年、ペルシア内の王位継承争いの一環としてクナクサの戦いが勃発。キュロス2世(若者)対アルタクセルクセス2世の対立が激化した。
紀元前401年、現イラクのクナクサ近郊でペルシア帝国の内紛を巡る大規模な戦闘が発生しました。
参加したのはアルタクセルクセス2世率いる帝国軍と、王位を狙うキュロス2世(若者)を支援するギリシャ傭兵部隊です。
ギリシャ人傭兵は一時的に戦場を優位に進めたものの、キュロス2世が戦死したことで撤退に追い込まれました。
この出来事はキュロスの遠征記『Anabasis』として知られ、後世の歴史記録に大きな影響を与えました。
また、ギリシャ傭兵たちの帰還劇は古代史の格好の題材となりました。
紀元前401年
クナクサの戦い
紀元前36年
シチリア戦争:ナウロクス沖の海戦。
紀元前36年、ローマ内戦のシチリア戦争でナウロクス沖の海戦が行われ、オクタウィアヌス勢力が勝利を収めた。
紀元前36年、シチリア島沖のナウロクス付近の海域で大規模な海戦が勃発しました。
オクタウィアヌスの副将マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが率いる艦隊と、ポンペイウス派のセクストゥス・ポンペイウスの艦隊が激突。
アグリッパの戦術的勝利により、ローマにおける穀物供給路が安定し、セクストゥスの勢力は壊滅的打撃を受けました。
この海戦はローマ内戦の決定的転機となり、アウグストゥス(オクタウィアヌス)への権力集中を加速させました。
この勝利によりアウグストゥスは政敵を完全に排除し、ローマ帝政への道を開いた。
紀元前36年
ナウロクス沖の海戦
301年
サンマリノが成立。現存する中では世界最古の共和国。
301年、イタリア北東部のモンテ・ティターノにおいてサンマリノ共和国が建国。現存最古の共和国と称される。
301年、キリスト教の石工マリヌスがモンテ・ティターノ山に逃れ、その地に小さな共同体を築いたことがサンマリノ共和国の起源と伝えられています。
神聖ローマ帝国やナポリ王国など周囲の大国に囲まれつつも、独自の自治を維持し続けました。
中世以降も巧みな外交と内政で存続を図り、現代でも最小の主権国家として国際社会に認められています。
サンマリノはその長い歴史と伝統を尊重し、観光客に開かれた小国としても知られています。
毎年8月には中世の衣装を纏った祭りも開催され、歴史を感じることができます。
301年
サンマリノ
590年
グレゴリウス1世が第64代ローマ教皇に就任。
590年、グレゴリウス1世がローマ教皇に選出され、後に『大グレゴリウス』と称される改革を始めた。
590年9月3日、修道士であり教会改革を志していたグレゴリウス1世が第64代ローマ教皇に就任しました。
彼は教会の財政再建や聖歌の整備(後のグレゴリオ聖歌)を推進し、西欧の教会制度に大きな影響を与えました。
また、ランゴバルド王国や東ローマ帝国との外交交渉を通じてローマの安全確保にも努めました。
その人格と行政手腕から『大グレゴリウス』と尊称され、カトリック教会史上屈指の名君として知られています。
彼の業績は中世ヨーロッパの教会と国家の関係性に深い足跡を残しました。
590年
グレゴリウス1世
ローマ教皇
673年
1日に即位した西ゴート王ワムバがヒルデリック(英語版)の反乱を鎮圧。
673年、西ゴート王ワムバが即位後わずか数日で反乱を鎮圧し、王権を確立した。
673年8月1日に西ゴート王として即位したワムバは、同月内にヒルデリックの反乱勢力と衝突しました。
ワムバは機敏に軍を率いて反乱を迅速に鎮圧し、新王の正統性を広く示しました。
反乱鎮圧後、厳格な法令を制定して内政を安定させ、王朝の基盤を固めました。
彼の治世は西ゴート王国の最後期にあたり、イベリア半島におけるビザンツ帝国との緊張緩和にも寄与しました。
ワムバの統治手法は後世の西ゴート史においても高く評価されています。
673年
1日
西ゴート
ワムバ
英語版
ヒルデリック
英語版
863年
アラブ・東ローマ戦争: ララカオンの戦い。
863年、アラブ勢力と東ローマ帝国がララカオンで衝突し、戦線は膠着状態に陥った。
863年9月3日、東地中海地域を巡るアラブ・東ローマ戦争の一環としてララカオンの戦いが発生しました。
東ローマ帝国軍は暗殺や裏切りが横行する状況下でも堅固に防衛線を構築し、アラブ軍の進軍を食い止めました。
この戦闘は両勢力の拠点地域に大きな被害をもたらし、次期の外交交渉にも影響を与えました。
戦術的には東ローマ側が優位を保ったものの、両軍ともに消耗が激しく、戦線は膠着状態に陥りました。
この出来事は中世初期のビザンティン外交史において重要な転換点とされています。
863年
アラブ・東ローマ戦争
ララカオンの戦い
1189年
リチャード獅子心王がウェストミンスター寺院で戴冠。
1189年、イングランド王リチャード1世がウェストミンスター寺院で戴冠し、獅子心王として知られる。
1189年9月3日、リチャード1世(獅子心王)はウェストミンスター寺院でイングランド王として正式に戴冠しました。
彼は父ヘンリー2世の死去を受けて王位を継承し、即座に領土回復やフランスとの対立に備える必要に迫られました。
リチャードは後に第三回十字軍の指導者として名を馳せ、その勇猛さと騎士道精神で称賛を集めました。
戴冠式は華麗な儀式とロイヤルガードの行進で彩られ、その威厳はヨーロッパ中に知られ渡りました。
彼の治世は短期間ながら強力で、多くの伝説と物語の舞台となりました。
1189年
リチャード獅子心王
ウェストミンスター寺院
1260年
アイン・ジャールートの戦い。マムルーク朝軍がモンゴル帝国軍を破り、モンゴルの西進を阻止。
1260年、マムルーク朝がアイン・ジャールートでモンゴル軍を破り、西方進出を食い止めた。
1260年9月3日、シリア北部のアイン・ジャールートでマムルーク朝軍とモンゴル帝国軍が激突しました。
マムルークのバイバルス将軍らは巧みな戦術でモンゴルの重騎兵を撃退し、初めて大規模な敗北を与えました。
この勝利はモンゴル帝国の西進を永久に阻止し、イスラム世界の歴史において大きな転機となりました。
戦後、マムルーク朝はエジプト・シリア地域の覇権を確立し、地域の支配構造を一変させました。
アイン・ジャールートの戦いは中東史における最も重要な戦闘の一つとされています。
1260年
アイン・ジャールートの戦い
マムルーク朝
モンゴル帝国
1335年
ハンガリー王カーロイ1世がボヘミアのヨハン・フォン・ルクセンブルクとポーランド王カジミェシュ3世ヴィエルキの争いを仲裁、後に両国と同盟を結ぶ。
1335年、ハンガリー王カーロイ1世が中欧の争いを調停し、後にボヘミア・ポーランドと同盟を結んだ。
1335年9月3日、ハンガリー王カーロイ1世はボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクとポーランド王カジミェシュ3世ヴィエルキの対立を仲裁しました。
この調停は中欧の安定を図るとともに、ハンガリーの影響力を高める機会となりました。
後に三国は同盟を結び、ヴァイゼグラード会議として知られる外交的枠組みを形成しました。
この同盟は交易路の安全確保や国境防衛に寄与し、地域の繁栄に役立ちました。
カーロイ1世の手腕は中世ヨーロッパの外交史において高く評価されています。
1335年
ハンガリー王
カーロイ1世
ヨハン・フォン・ルクセンブルク
ポーランド王
カジミェシュ3世ヴィエルキ
1411年
セリンブリア条約(英語版)がオスマン帝国とヴェネツィア共和国間で結ばれる。
1411年、オスマン帝国とヴェネツィア共和国がセリンブリア条約を締結し、一時的な和平を実現した。
1411年9月3日、オスマン帝国とヴェネツィア共和国はセリンブリア条約に調印しました。
この条約は両国間の商船航行や交易に関する取り決めを定め、一時的な軍事衝突の停止をもたらしました。
オスマン帝国はアドリア海沿岸への影響力を拡大しようとし、ヴェネツィアは東地中海交易の安定を求めていました。
条約によって得られた和平の期間、両国は海上貿易路の整備と防衛強化に注力しました。
しかし翌年以降も緊張は続き、16世紀の大規模な戦争へと展開していきました。
1411年
セリンブリア条約
英語版
オスマン帝国
ヴェネツィア共和国
慶長8年7月28日
徳川家康の孫で7歳の千姫が、11歳の豊臣秀頼に輿入れ。
7歳の千姫が豊臣秀頼に輿入れし、徳川家と豊臣家の政治的結びつきを強化した婚姻が成立しました。
1603年7月28日、徳川家康の孫である7歳の千姫が豊臣秀頼に嫁ぎ、政略的な婚姻関係が成立した。
この婚姻は江戸幕府と豊臣氏の緊張緩和を目的とし、両家の協調を象徴した。
千姫は幼少ながら華やかな婚儀を経験し、後の大坂の陣でも注目を集める人物となった。
豊臣秀頼側はこの同盟によって幕府との和解を期待したが、結果として後の抗争を避けるには至らなかった。
日本の戦国・安土桃山時代から江戸時代初期の権力闘争を理解する上で、重要なエピソードとなっている。
1603年
慶長
7月28日
徳川家康
千姫
豊臣秀頼
1643年
三十年戦争: カルタヘナの戦い。
三十年戦争の一局面として、カルタヘナ近郊で行われた戦闘です。
1643年、ヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争の中で、カルタヘナの戦いが勃発した。
スペイン王国とフランス・神聖ローマ帝国連合軍が地中海沿岸の要衝を巡り衝突した。
戦闘は要塞や港湾の包囲戦となり、激しい砲撃戦が繰り広げられた。
最終的な勝敗は戦局全体に大きな影響を与えなかったものの、長期化する戦争の象徴的な一幕となった。
後の和平交渉にも影響を及ぼし、ヨーロッパ各地での連続する戦闘の一端を示している。
1643年
三十年戦争
カルタヘナの戦い