紀元前31年

アクティウムの海戦。

紀元前31年、アクティウム沖でオクタウィアヌス軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍が決戦を繰り広げました。
紀元前31年9月2日、ギリシャ西部アクティウム沖でローマ内戦の重要海戦アクティウムの海戦が行われました。 オクタウィアヌス率いる艦隊がマルクス・アントニウスとクレオパトラ7世連合艦隊を包囲し、数的優位を活かして攻撃を展開します。 連合艦隊は撤退を余儀なくされ、主要艦が鹵獲または撃沈される敗北を喫しました。 この勝利によりオクタウィアヌスは単独支配への道を開き、翌年にはアウグストゥスの称号を獲得します。 共和政ローマの終焉と帝政ローマの始まりを決定づけた歴史的戦闘です。
紀元前31年 アクティウムの海戦
1192年

ヤッファ条約(Treaty of Jaffa)がリチャード獅子心王とサラディンの間で締結。第3回十字軍が終了。

1192年、リチャード獅子心王とサラディンがヤッファ条約を締結し、第3回十字軍が正式に終結しました。
1192年9月2日、イングランド王リチャード1世(獅子心王)とイスラム指導者サラディンがパレスチナのヤッファで和平条約を結びました。 条約によりキリスト教徒の巡礼は許可され、聖地の領有権は現状維持されることが合意されます。 これをもって第3回十字軍の軍事行動は停止し、双方は互いの領域保全を約束しました。 ヤッファ条約後も小競り合いは続いたものの、大規模戦闘は回避され、中世の宗教戦争における一つの転換点となります。 歴史的には紛争の緩和と異文化交流の可能性を示す重要な事例です。
1192年 ヤッファ条約 リチャード獅子心王 サラディン 第3回十字軍
慶長5年7月25日

小山評定。会津討伐に向かう途中の徳川家康が下野国小山で石田三成の挙兵を知り、諸将を集めて軍議を開く。

1600年7月25日、小山評定で徳川家康が石田三成の挙兵を察知し、諸将を集めて軍議を開きました。
慶長5年7月25日(1600年9月2日)、関ヶ原の戦いを控えた重要会議「小山評定」が下野国小山で開催されました。 会津討伐に向かっていた徳川家康は、石田三成率いる反乱計画を察知し、迅速に諸将を召集しました。 評定では反乱鎮圧の方針や軍勢配置が協議され、家康は効率的な戦略を策定します。 この決定的連携が後の関ヶ原の戦いに大きく影響を与え、勝利への足掛かりとなりました。 日本史における戦略的軍議の典型例としても後世に語り継がれています。
1600年 慶長 7月25日 徳川家康 石田三成
1649年

イタリアの都市カストロ(Castro)が教皇インノケンティウス10世の軍によって破壊され、カストロ戦争(英語版)が終結。

1649年、教皇インノケンティウス10世の軍勢によりイタリアのカストロが破壊され、カストロ戦争が終結しました。
1649年9月2日、教皇インノケンティウス10世が派遣した軍勢がラツィオ州の都市カストロを包囲・攻撃し、徹底的に破壊しました。 この攻撃により1527年から続いたカストロ戦争は事実上終結します。 ファルネーゼ家と教皇領の勢力争いが背景にあった本戦争は、教皇権の強化とイタリア諸国の抗争を象徴する事件でした。 戦後、カストロは再建を許されず廃墟のまま放置され、地図から消えた都市となりました。 近代以前のイタリアにおける教会国家と世俗権力の緊張関係を示す重要な歴史事象です。
1649年 イタリア カストロ Castro インノケンティウス10世 カストロ戦争 英語版
1794年

ヴァンデーの反乱: バウシュの戦い(Bataille des Bauches)

ヴァンデーの反乱の一環としてバウシュの戦いが行われた。
1794年9月2日、フランス革命に反発するカトリック王党派勢力がヴァンデー地方で蜂起し、共和国軍と激突しました。 バウシュの戦い (Bataille des Bauches) はヴァンデーの反乱における主要な戦闘の一つで、王党派の反撃を試みたものの共和国軍に敗北しました。 この戦いにより反乱軍の勢力は大きく削がれ、ヴァンデー地方制圧に向けた共和国軍の作戦が加速しました。 ヴァンデーの反乱は革命政府に重い課題を突き付ける内戦的性格を持ち、多数の民間人犠牲も生んだ悲劇的な出来事でした。 その後も蜂起の鎮圧作戦は続き、地域社会に深い傷跡を残しました。
1794年 ヴァンデーの反乱 バウシュの戦い Bataille des Bauches
1807年

砲艦戦争(英語版): コペンハーゲンの戦い

砲艦戦争中、イギリス海軍によるコペンハーゲンの戦いが勃発した。
1807年9月2日、ナポレオン戦争下でイギリス海軍がデンマークのコペンハーゲンを砲撃しました。 イギリスはデンマークがフランス側に艦隊を提供することを恐れ、先制攻撃を行い市街地にも被害をもたらしました。 数日間の激しい砲撃により多くの市民と港湾設備が破壊され、最終的にデンマークは艦隊をイギリスに引き渡しました。 この戦いは砲艦戦争の一部として、海軍戦術と市街戦への影響を示す重要な事例となりました。
1807年 砲艦戦争 英語版 コペンハーゲンの戦い 英語版
1856年

太平天国の乱: 太平天国の都天京(南京)で、北王韋昌輝が、東王楊秀清を殺害。天京事変の始まり。

太平天国の乱で北王韋昌輝が東王楊秀清を殺害し、天京事変が始まった。
1856年9月2日、太平天国の都天京(南京)で北王韋昌輝が東王楊秀清を暗殺しました。 この事件は内部権力闘争の一環で、指導層間の対立が激化して以降、数日にわたり残党狩りや虐殺が行われました。 天京事変と呼ばれるこの粛清劇により、太平天国運動は大きな打撃を受け、統率力が低下しました。 英国やフランスもこの混乱を好機と捉え、太平天国側支援の動きに慎重姿勢を強めました。 結果的に天京事変は反乱勢力内の分裂を深め、長期化する戦乱の要因となりました。
1856年 太平天国の乱 韋昌輝 楊秀清 天京事変
1864年

南北戦争: シャーマン将軍率いる北軍により前日に陥落した南軍の軍事拠点アトランタに同氏の軍が入城。アトランタ方面作戦が終了。

南北戦争でシャーマン将軍率いる北軍がアトランタに入城した。
1864年9月2日、アメリカ南北戦争中のアトランタ方面作戦で、北軍のウィリアム・シャーマン将軍がアトランタに入城。 前日の攻撃で市街地は包囲されており、南軍は防衛線を放棄し撤退しました。 アトランタ攻略はリンカーン大統領の再選に弾みをつけ、民衆の士気を大きく高めました。 この勝利を経てシャーマンは「燃える大地作戦(March to the Sea)」へと進軍し、戦局を決定的に有利にしました。 アトランタ陥落は南北戦争の転機となり、合衆国の再統一への道筋を作りました。
1864年 南北戦争 シャーマン将軍 アトランタ アトランタ方面作戦
元治元年8月2日

第一次長州征討: 将軍徳川家茂が中国・四国など35藩に長州征討の為の出兵を命令。

江戸幕府が反抗的な長州藩を討伐するため、徳川家茂が35藩に出兵を命じた歴史的事件。幕府の権威回復を目指した大規模な軍事行動です。
元治元年(1864年)、幕府は長州藩の勢力拡大に対抗し討伐軍を編成しました。 将軍徳川家茂は中国・四国の35藩に対し、長州征討のための出兵を命じ、幕府の威信回復を図りました。 この第一次長州征討は、薩摩藩など一部藩の協力を得て行われ、幕末の政治的緊張を象徴する出来事となりました。 遠征は長州藩への圧力を目的としていましたが、十分な成果を挙げられず、翌年の第二次長州征討へとつながります。 この一連の動きは明治維新への道筋に大きな影響を与えました。
元治 8月2日 第一次長州征討 徳川家茂
1870年

普仏戦争: セダンの戦いでナポレオン3世が10万の将兵とともに投降し捕虜となる。ナポレオンは4日に廃位。

1870年、普仏戦争の転機となるセダンの戦いで、ナポレオン3世が捕虜となった歴史的出来事。
普仏戦争中の1870年9月2日、フランス皇帝ナポレオン3世はセダンの戦いで10万人の将兵とともにドイツ・プロイセン軍に包囲され降伏しました。 この敗北は第三共和制樹立の契機となり、同月4日にナポレオン3世は廃位を余儀なくされました。 フランス帝政の終焉を象徴する戦闘として、ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えた重要な出来事です。 プロイセンの勝利はドイツ統一への道を開き、後の欧州情勢に深い影響を与えました。 この戦いは近代戦術と国民軍の衝突としても知られています。
1870年 普仏戦争 セダンの戦い ナポレオン3世 捕虜 4日
1898年

マフディー戦争: オムダーマンの戦い。

1898年、スーダンでイギリス・エジプト連合軍とマフディー派が激突したオムダーマンの戦い。
マフディー戦争の一環として行われたオムダーマンの戦いは1898年9月2日にスーダンで発生しました。 イギリス・エジプト連合軍は近代的な装備と戦術を駆使してマフディー派を破り、多大な犠牲を出しました。 指揮官カーチス卿の下、機関銃や大砲が戦局を決定づけ、植民地支配を強固にする転機となりました。 この勝利によりスーダンの実効支配を確立し、英国植民地帝国の拡大に寄与しました。 戦闘は近代戦の様相を示す重要な事例として知られています。
1898年 マフディー戦争 オムダーマンの戦い
1914年

第一次世界大戦・青島出兵: 日本陸軍が山東半島への上陸を開始。

1914年、日本陸軍が第一次世界大戦で青島(山東半島)に上陸し出兵を開始。
第一次世界大戦において、1914年9月2日、日本陸軍はドイツ租借地であった青島への上陸を開始しました。 山東半島での出兵は、日英同盟に基づく協力行動の一環として行われ、ドイツ側の要塞攻略を目指しました。 この作戦により日本は中国における勢力拡大を図り、戦後の山東の割譲を有利に進める足掛かりを得ました。 攻城戦は数週間にわたり続き、ドイツ守備隊の降伏をもって終結しました。 青島占領は日本の国際的地位向上に寄与し、対中国政策にも影響を与えました。
1914年 第一次世界大戦 日本陸軍 山東半島