紀元前44年

キケロが初のピリッピカ(攻撃演説)を行う。以降数か月のうちに14回の演説を行う。

紀元前44年、弁論家キケロが初のピリッピカ(攻撃演説)を行い、マルクス・アントニウスを激しく非難しました。
紀元前44年9月2日、著名な弁論家マルクス・トゥッリウス・キケロはマルクス・アントニウスに対する最初の演説「ピリッピカ」を披露しました。 この演説は共和政ローマを守る戦いの一環として、アントニウスの権力志向や汚職を痛烈に批判します。 キケロは同年中に計14回もの演説を行い、民衆や元老院の支持を取り付けようとしました。 一方で演説活動は政治的緊張を高め、最終的にマルクス・アントニウスとの対立は武力衝突へと発展していきます。 共和政ローマ末期の混乱を象徴する重要な政治的事件です。
紀元前44年 キケロ ピリッピカ
紀元前44年

クレオパトラ7世が息子のプトレマイオス15世カエサリオンをプトレマイオス朝の共同統治者とすることを宣言。

紀元前44年、クレオパトラ7世が息子プトレマイオス15世カエサリオンをプトレマイオス朝の共同統治者と宣言しました。
紀元前44年9月2日、エジプト女王クレオパトラ7世は息子プトレマイオス15世カエサリオンを共同統治者に据えることを公に宣言しました。 カエサリオンはクレオパトラとジュリアス・シーザーの間に生まれた王子とされ、名目上は王権を分かち合う存在です。 この宣言は対外的・対内的正当性を高める戦略的措置であり、ローマ共和国との複雑な関係背景が影響しています。 しかしカエサリオン自身が実権を持つことはなく、母の支配体制を象徴的に補強する役割にとどまりました。 後のローマ内戦でカエサリオンはローマ勢力に命を狙われ、悲劇的な最期を迎えます。
クレオパトラ7世 プトレマイオス15世カエサリオン プトレマイオス朝
紀元前31年

アクティウムの海戦。

紀元前31年、アクティウム沖でオクタウィアヌス軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍が決戦を繰り広げました。
紀元前31年9月2日、ギリシャ西部アクティウム沖でローマ内戦の重要海戦アクティウムの海戦が行われました。 オクタウィアヌス率いる艦隊がマルクス・アントニウスとクレオパトラ7世連合艦隊を包囲し、数的優位を活かして攻撃を展開します。 連合艦隊は撤退を余儀なくされ、主要艦が鹵獲または撃沈される敗北を喫しました。 この勝利によりオクタウィアヌスは単独支配への道を開き、翌年にはアウグストゥスの称号を獲得します。 共和政ローマの終焉と帝政ローマの始まりを決定づけた歴史的戦闘です。
紀元前31年 アクティウムの海戦
1192年

ヤッファ条約(Treaty of Jaffa)がリチャード獅子心王とサラディンの間で締結。第3回十字軍が終了。

1192年、リチャード獅子心王とサラディンがヤッファ条約を締結し、第3回十字軍が正式に終結しました。
1192年9月2日、イングランド王リチャード1世(獅子心王)とイスラム指導者サラディンがパレスチナのヤッファで和平条約を結びました。 条約によりキリスト教徒の巡礼は許可され、聖地の領有権は現状維持されることが合意されます。 これをもって第3回十字軍の軍事行動は停止し、双方は互いの領域保全を約束しました。 ヤッファ条約後も小競り合いは続いたものの、大規模戦闘は回避され、中世の宗教戦争における一つの転換点となります。 歴史的には紛争の緩和と異文化交流の可能性を示す重要な事例です。
1192年 ヤッファ条約 リチャード獅子心王 サラディン 第3回十字軍
文永元年8月11日

鎌倉幕府執権・北条時頼が病で出家したのに伴い、北条政村が7代執権に就任。

1264年8月11日、鎌倉幕府の執権北条時頼が出家し、北条政村が第7代執権に就任しました。
1264年(文永元年)8月11日、鎌倉幕府で第6代執権を務めた北条時頼が病のため出家し、政界を退きました。 同日に同族の北条政村が第7代執権に任じられ、幕府の実権を引き継ぎます。 時頼は荘園整理や御家人統制など内政改革を推進した名執権とされ、政村はこれを支えながら自身の政治基盤を確立しました。 政村の就任は北条氏の権力維持と鎌倉幕府の安定化を図る意図が強く、以後の専制的執権支配をさらに強固にしました。 この交代劇は日本中世政治の権力構造を理解する上で重要な出来事です。
1264年 文永 8月11日 鎌倉幕府 執権 北条時頼 北条政村
1561年

この年の8月19日から20日にかけてスコットランドに帰国したスコットランド女王メアリーのエディンバラ入りを祝う式(Entry of Mary, Queen of Scots into Edinburgh)が行われる。

1561年8月19日から20日にかけて、帰国したスコットランド女王メアリー1世のエディンバラ入城を盛大に祝いました。
1561年8月19日から20日にかけて、フランス宮廷から帰国したメアリー1世(スコットランド女王)のエディンバラ入城式が開催されました。 女王を迎える市民や貴族たちは豪華な行列や花飾りで祝宴を演出し、盛大な歓迎式典を行いました。 この式典は新女王への忠誠を示す政治的儀礼であり、スコットランド統治の正統性を内外に示す機会となりました。 またメアリーはフランス文化や宮廷礼儀を持ち込み、以降の宮廷文化に大きな影響を与えました。 君主の入城儀式としてヨーロッパにおける華麗な例の一つとされています。
1561年 8月19日 20日 スコットランド スコットランド女王メアリー Entry of Mary, Queen of Scots into Edinburgh
慶長5年7月25日

小山評定。会津討伐に向かう途中の徳川家康が下野国小山で石田三成の挙兵を知り、諸将を集めて軍議を開く。

1600年7月25日、小山評定で徳川家康が石田三成の挙兵を察知し、諸将を集めて軍議を開きました。
慶長5年7月25日(1600年9月2日)、関ヶ原の戦いを控えた重要会議「小山評定」が下野国小山で開催されました。 会津討伐に向かっていた徳川家康は、石田三成率いる反乱計画を察知し、迅速に諸将を召集しました。 評定では反乱鎮圧の方針や軍勢配置が協議され、家康は効率的な戦略を策定します。 この決定的連携が後の関ヶ原の戦いに大きく影響を与え、勝利への足掛かりとなりました。 日本史における戦略的軍議の典型例としても後世に語り継がれています。
1600年 慶長 7月25日 徳川家康 石田三成
1649年

イタリアの都市カストロ(Castro)が教皇インノケンティウス10世の軍によって破壊され、カストロ戦争(英語版)が終結。

1649年、教皇インノケンティウス10世の軍勢によりイタリアのカストロが破壊され、カストロ戦争が終結しました。
1649年9月2日、教皇インノケンティウス10世が派遣した軍勢がラツィオ州の都市カストロを包囲・攻撃し、徹底的に破壊しました。 この攻撃により1527年から続いたカストロ戦争は事実上終結します。 ファルネーゼ家と教皇領の勢力争いが背景にあった本戦争は、教皇権の強化とイタリア諸国の抗争を象徴する事件でした。 戦後、カストロは再建を許されず廃墟のまま放置され、地図から消えた都市となりました。 近代以前のイタリアにおける教会国家と世俗権力の緊張関係を示す重要な歴史事象です。
1649年 イタリア カストロ Castro インノケンティウス10世 カストロ戦争 英語版
1666年

ロンドン大火:ロンドン橋近くのパン屋から出火。火災は9月6日まで続き、ロンドンの5分の4が焼失した。

1666年、ロンドン橋付近のパン屋から出火した大火が9月6日まで続き、街の5分の4を焼失しました。
1666年9月2日、ロンドン橋近くのパン屋で発生した火災が強風に煽られて一気に市街地へ広がります。 炎は木造家屋を次々と襲い、数日間燃え続けた結果、中心部の約五分の四が灰燼となりました。 死者数は正確に記録されていませんが、多数の住民が家屋や財産を失ったと伝えられます。 ロンドン市は大規模な再建計画を策定し、防火基準の強化や街路の拡張など都市計画を大きく見直しました。 この大火は近代都市計画の転換点となり、後のロンドンの発展に影響を与えました。
1666年 ロンドン大火 ロンドン橋 9月6日
1715年

5歳にしてフランス王に即位したルイ15世の摂政にフィリップ・ドルレアンが就任。

1715年、5歳のルイ15世の摂政にオルレアン公フィリップ・ドルレアンが就任しました。
1715年9月2日、幼くしてフランス王位を継承したルイ15世に代わり、オルレアン公フィリップ・ドルレアンが摂政に指名されました。 長期にわたるルイ14世の統治を受け継いだ摂政政権は、財政再建や宮廷改革を主要課題としました。 フィリップは諸侯や財務当局との調整を進め、外交政策にも一定の影響を及ぼしました。 彼の統治期間は権力の均衡と王党派・共和派の間での政治的駆け引きが特徴とされます。 ブルボン朝継続の要として、フランス国内の安定に寄与した重要な政権移行期です。
1715年 フランス王 ルイ15世 フィリップ・ドルレアン
グレゴリオ暦9月13日

イギリスでグレゴリオ暦を導入。9月2日の翌日が9月14日となる。

イギリスでグレゴリオ暦が公式に導入され、9月2日の翌日が9月14日となった歴史的出来事。
1752年、イギリスとその植民地で長年使用されてきたユリウス暦から、より正確なグレゴリオ暦へと切り替えられました。 この改革により、9月2日の翌日は飛び飛びの11日を飛ばし9月14日となり、人々の生活や行政に大きな影響を与えました。 グレゴリオ暦導入は、カトリック諸国に遅れること200年近いタイムラグでの採用でした。 切り替えに際しては民衆の混乱を避けるため、日付調整の告知が行われたものの、さまざまな混乱や抗議も発生しました。 その後、世界の多くの国々が同様にカレンダー改革を実施し、今日我々が使う国際標準の暦が確立しました。
1752年 9月13日 イギリス グレゴリオ暦 9月14日
1789年

アメリカ合衆国財務省設置。

1789年、合衆国初の財務省が設置され、国家の財政運営が制度化された。
1789年9月2日、ジョージ・ワシントン大統領が議会の財務法 (Treasury Act) に署名し、アメリカ合衆国財務省が正式に設立されました。 初代財務長官にはアレクサンダー・ハミルトンが就任し、国家の予算編成や税制、債務管理など財政政策の基盤を築きました。 財務省の創設は、独立以来の財政混乱を整理し、連邦政府の信用を向上させる重要な一歩でした。 以降、合衆国の経済発展と政府機能強化に大きく貢献し、現代に至るまで存続する中央行政機関の一つとして位置付けられています。 設立以来、財務省は米国経済の中核を担い続けています。
1789年 アメリカ合衆国財務省