1173年

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍によって包囲されていたアンコーナのスタミラ(Stamira)が、市外に設置された爆弾を起爆してフリードリヒの軍を攻撃するために単身市外へ出撃、起爆した爆弾によりスタミラは死亡し後にイタリアのナショナリズム運動の一環で英雄と見なされる。

1173年、神聖ローマ帝国の軍に包囲されたアンコーナで、スタミラが単身で敵の爆弾を起爆し軍勢を混乱させた逸話です。
アンコーナは当時独立した海洋共和国として繁栄していましたが、1173年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍勢に包囲されます。地元の女性スタミラは市外に設置された爆弾に気づくと、敵の不意を突くため単身で起爆させました。爆発は皇帝軍に大混乱をもたらし、包囲の撹乱に成功します。スタミラは爆発に巻き込まれその生涯を終えましたが、その自己犠牲の勇気は後のイタリア・ナショナリズム運動で高く評価され、英雄として語り継がれることとなりました。
1173年 フリードリヒ1世 アンコーナ スタミラ Stamira イタリア ナショナリズム
文治5年7月19日

源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討のために鎌倉を出発。

1189年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討のため鎌倉を発った日です。
源頼朝は1185年に平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた後も東北の統治を目指していました。1189年9月1日、頼朝は奥州藤原氏討伐の命を受け、鎌倉を出発します。この遠征は平泉の藤原泰衡に対する討伐軍で、翌年の藤原氏滅亡につながりました。頼朝の東北行軍は鎌倉幕府の全国支配権確立を象徴する重要な出来事として知られています。
1189年 文治 7月19日 源頼朝 藤原泰衡
1435年

リトアニアの内戦最後の戦闘パバイスカスの戦いが行われジーギマンタスの軍勢が勝利。

1435年、リトアニア内戦最後の戦いパバイスカスの戦いが行われました。
リトアニア大公国では1431年から兄弟間の継承争いが続いていました。1435年9月1日、パバイスカスで行われた最終決戦でジーギマンタスの軍が勝利を収めます。この勝利によりジーギマンタス1世は大公位を確立し、国内の統一を図りました。戦いはリトアニア史上重要な転換点とされ、その後のポーランド・リトアニア連合形成にも影響を与えました。
1435年 リトアニアの内戦 パバイスカスの戦い ジーギマンタス
正統14年8月15日

土木の変、オイラトのエセンが正統帝(英宗)を捕らえる。

1449年、オイラトのエセンが明の正統帝を捕らえた土木の変が起こりました。
1449年9月1日、明朝はモンゴルのオイラト部族の指導者エセンによる侵入を受け、正統帝(英宗)が捕虜となる事件が発生しました。これが「土木の変」と呼ばれる危機で、明朝は大きな屈辱を味わいます。英宗の不在に伴い、弟の景泰帝が即位しましたが、問題の根本的解決には至りませんでした。この事件は明朝の北方防衛の脆弱さを浮き彫りにし、後の国内政治にも影を落としました。
1449年 正統 8月15日 土木の変 オイラト エセン 正統帝(英宗)
1529年

スペインがアルゼンチンに建設した最初の砦であるサンクティ・スピリトゥ(Sancti Spiritu)が原住民によって破壊される。

1529年、アルゼンチンで最初のスペイン砦サンクティ・スピリトゥが原住民に破壊されました。
スペインは南米への進出初期にアルゼンチン地域にサンクティ・スピリトゥ砦を建設しました。1529年9月1日、先住民の襲撃によりこの砦は破壊され、ヨーロッパ勢力の警戒を強める契機となります。この事件は現地情勢の不安定さと植民地化の困難さを象徴しています。砦の喪失は即座に補給路の再構築と軍事的対応を迫りました。その後もスペインは度重なる遠征と交渉を繰り返しながら支配体制を確立していきました。
1529年 スペイン アルゼンチン サンクティ・スピリトゥ Sancti Spiritu
1644年

ティパミュアの戦い(Battle of Tippermuir)。

1644年、スコットランドのティパーミュアで王党派とコヴェナンター軍が衝突しました。
1644年9月1日、スコットランド内戦の一環としてティパーミュアの戦いが勃発しました。ジェームズ・グラハム率いる王党派軍とコヴェナンター軍がモンガム州近郊で衝突し、王党派が勝利を収めます。この戦闘はモンローズ伯爵による一連の遠征行動の始まりとなり、同年の内戦情勢に大きな影響を与えました。小規模ながら戦術的な勝利は、王党派の士気向上と影響力拡大に寄与しました。この勝利によりモンローズは北部での優勢を確立し、さらなる戦闘へと勢いをつけました。
1644年 ティパミュアの戦い Battle of Tippermuir
1774年

アメリカ独立戦争: チューセッツ湾にて「パウダー・アラーム(英語版)」が起こる。

マサチューセッツ湾で武器捜索の誤情報が拡散し、民兵が警戒を強めました。
1774年9月1日、イギリス軍が武器弾薬を押収しようとしたとの誤報が流れ、マサチューセッツ湾周辺で警報が発せられました。 「パウダー・アラーム」と呼ばれるこの事態は、現地民兵と住民の危機意識を高めました。 迅速に集結した民兵隊は現場に急行し、イギリス軍との衝突は回避されましたが、緊張が一層増大しました。 独立開戦前夜の政治的対立を象徴し、住民の結束を促す契機となりました。 大陸会議での武装を巡る議論が活発化し、独立への流れを後押ししました。 現在でも史跡として語り継がれる歴史の一幕です。
1774年 アメリカ独立戦争 チューセッツ湾 パウダー・アラーム 英語版
1862年

南北戦争: シャンティリーの戦い。

南北戦争中、バージニア州シャンティリーで北軍と南軍が激突しました。
1862年9月1日、バージニア州シャンティリー周辺でシャンティリーの戦いが勃発しました。 第二次ブルランの敗北後、北軍はリー将軍率いる南軍を追撃しました。 激しい雨とぬかるみの中、小規模ながら激戦となり多くの犠牲を出しました。 北軍は戦術的勝利を目指したものの、混乱により指揮系統が乱れました。 南軍は巧みな防御戦術で反撃し、結果は引き分けに近い形となりました。 この戦いは補給線と悪天候が戦況に与える影響を示す事例として知られています。
1862年 南北戦争 シャンティリーの戦い
1870年

普仏戦争: セダンの戦い。プロイセン王国が完勝。フランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、フランス第二帝政が終焉へ。

普仏戦争でプロイセン軍がセダンの戦いに勝利し、ナポレオン3世が捕虜となりました。
1870年9月1日、プロイセン王国率いるドイツ連邦軍とフランス帝政軍がセダンで激突しました。 ドイツ軍は鉄道を活用した迅速な機動戦でフランス軍を包囲しました。 ナポレオン3世自らも戦列に加わったものの、指揮系統の混乱が致命的となりました。 多くのフランス兵が降伏し、ナポレオン3世は捕虜となり政治的威信を喪失しました。 この敗北がフランス第二帝政の終焉を決定づけ、翌年第三共和政の成立を促しました。 セダンの戦いは近代戦争の転機として軍事史に刻まれています。
1870年 普仏戦争 セダンの戦い プロイセン王国 ナポレオン3世 フランス第二帝政
1913年

南京事件。袁世凱軍が南京を占領し中国第二革命を鎮圧。占領時に在留日本人3名が殺害される。

袁世凱軍が南京を占領し、中国第二革命を鎮圧。占領時に在留日本人3名が殺害される事件が起きました。
1913年9月1日、袁世凱率いる北洋軍が南京を占領し、中国第二革命を武力で鎮圧しました。 第二革命は反袁の動きから起こり、各地で激しい戦闘が展開されていました。 南京占領時には在留日本人3名が殺害され、日本政府や日本人社会に衝撃を与えました。 この事件は中国内政への外国人保護問題や日中関係の緊張を高める一因となりました。 後の中華民国成立過程における軍閥抗争の一幕として歴史に刻まれています。
1913年 袁世凱 南京 第二革命
1939年

第二次世界大戦: ドイツが突如ポーランドに侵攻。これに対してイギリスとフランスが3日に宣戦し、第二次世界大戦が勃発。

ドイツ軍がポーランドに侵攻し、イギリスとフランスの宣戦を招いて第二次世界大戦が始まりました。
1939年9月1日、ナチス・ドイツ軍がポーランドに突然侵攻しました。これを受けてイギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告し、ヨーロッパでの全面戦争が勃発しました。ドイツの電撃戦(ブリッツクリーク)は迅速にポーランドを制圧し、戦争は各国へと拡大。これが世界規模の戦火へとつながり、6年に及ぶ第二次世界大戦の幕開けとなりました。
1939年 第二次世界大戦 ドイツ ポーランドに侵攻 第二次世界大戦
1939年

ドイツ軍で最終版となる鉄十字の制定。

1939年、ドイツ軍は鉄十字勲章の最終版を制定しました。
鉄十字はプロイセン王国時代に創設された勲章で、第一次世界大戦後もドイツ軍で用いられてきました。 1939年9月1日、ナチス・ドイツ政府は鉄十字の最終版を制定し、スワスチカをあしらったデザインが特徴です。 この勲章は前線での勇敢さを称える目的で授与され、第二次世界大戦中に多くの兵士に授与されました。 授章にはいくつかの等級が設定され、金・銀などのクラスが存在しました。 戦後、ナチスの象徴であるスワスチカのため、ドイツ連邦軍での使用は制限されています。
鉄十字