元和元年7月9日
江戸幕府が、豊臣秀吉を祭神として祀る豊国神社の破却を命令。
1615年、江戸幕府が豊臣秀吉を祀る豊国神社の破却を命じました。
1615年の夏、江戸幕府は大坂夏の陣ののち豊臣家の痕跡を徹底的に排除する方針を採りました。同年9月1日、豊臣秀吉を祭神とする豊国神社の破却が正式に命じられます。豊国神社は当時、大坂城近郊で敬愛を集めていた社でしたが、幕府の権威を揺るがす存在とみなされました。破却によって豊臣家に対する公的記憶の封印と幕府の支配正当化が図られました。この措置は江戸幕府による統制強化の象徴的な出来事となりました。
1615年
元和
7月9日
江戸幕府
豊臣秀吉
豊国神社
1715年
フランス王ルイ14世が、ヨーロッパの君主では最長となる在位期間72年と110日で死去。
フランス王ルイ14世が72年110日の在位を経て死去。ヨーロッパ君主として最長の在位記録を樹立しました。
ルイ14世は1643年にわずか4歳で即位し、1661年以降は実質的に統治を行いました。
「朕は国家なり」と絶対王政を極め、中央集権を強化しました。
ヴェルサイユ宮殿の建設により華麗な宮廷文化を築き、芸術・建築にも大きな影響を与えました。
フランスの国力を増大させ、数度にわたる対外戦争を遂行しヨーロッパ政治を動かしました。
1715年9月1日に72年110日の在位を終え、その死は各国に衝撃を与えました。
その統治手法や文化事業は以後の君主制や芸術に大きな足跡を残しています。
1715年
フランス
ルイ14世
ヨーロッパ
寛政2年7月22日
浦上一番崩れ。肥前国浦上村の村民19人がキリシタンとして初めて検挙。
肥前浦上村で19人の村民が初めてキリシタンとして摘発され、幕府の禁教政策が強化されました。
寛政2年(1790年)9月1日、長崎藩領の浦上村でキリスト教徒19人が摘発され、日本史上初の大規模検挙となりました。
江戸幕府は禁教令を厳格化し、潜伏キリシタンを弾圧していました。
この「浦上一番崩れ」は地域住民の通報と奉行所の取り締まりによって実行されました。
検挙された信徒たちは改宗を強制されたり、長崎奉行所で処罰を受けたりしました。
以降も禁教政策は続き、明治維新までキリスト教信仰は秘密裏に守られました。
本事件は幕府の宗教統制の象徴として後世に語り継がれています。
1790年
寛政
7月22日
浦上一番崩れ
1873年
ズールー王国最後の国王セテワヨ・カムパンデが即位。
ズールー王国の最後の国王セテワヨ・カムパンデが即位し、王国の運命を担いました。
1873年9月1日、セテワヨ・カムパンデがズールー王国第8代国王として即位しました。
若き国王は伝統的なズールー軍団を強化し、国家の統一と防衛に努めました。
同時期、南アフリカでは英・オランダ系移民との緊張が高まっていました。
文化復興を掲げ、儀式や法制度の整備にも着手しました。
後の英・ズールー戦争への布石ともなり、王国は激しい危機に直面します。
ズールー王国の歴史における最後の独立指導者として知られています。
1873年
ズールー王国
セテワヨ・カムパンデ
1894年
第4回衆議院議員総選挙。
第4回目となる衆議院議員総選挙が行われ、初期の立憲政治がさらに成熟する契機となりました。
1894年9月1日、明治憲法下で4回目の衆議院議員総選挙が実施されました。
選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者に限られ、有権者数は約44万人でした。
主な争点は政党と政府間の権力調整や租税問題、軍備拡張などで、自由党や進歩党が激しく競いました。
結果として自由党が議席を伸ばし、立憲政治の成立に向けた動きが加速しました。
有権者層の制限や選挙制度の課題も浮き彫りになり、制度改革の議論が活発化しました。
この選挙は初期の国会運営や政党の台頭を示す重要な歴史的節目とされています。
1894年
第4回衆議院議員総選挙
1905年
日本の有力新聞各紙がポーツマス条約の内容を不服とした記事や社説を掲載する。
日本の主要新聞各紙がポーツマス条約の締結内容を批判し、国民の不満を代弁しました。
1905年9月1日付で、日本の有力新聞各紙がポーツマス条約の内容に対する不満を記事や社説で表明しました。
日露戦争終結後の講和条約で失地回復の不足や賠償金の不払いが批判の対象となり、国民感情を刺激しました。
新聞は政府の譲歩姿勢を鋭く追及し、世論の高揚とともに国家主義的な論調を助長しました。
これにより政府は内外から批判を受け、対外政策のあり方や報道の役割が問われる事態となりました。
当時のメディアと政治の関係性を示す重要な事例とされています。
1905年
ポーツマス条約
1916年
日本初の労働法「工場法」が施行。児童労働の制限や女性の労働時間を制限する規定などが盛り込まれた。
日本で初めての労働法「工場法」が施行されました。児童労働や女性の労働時間に関する規定が設けられ、労働者保護が法制化されました。
1916年9月1日、日本初の労働関係法規である「工場法」が施行されました。本法は急速な工業化による労働者の過酷な労働条件を改善するために制定されました。児童労働の禁止や有害業務からの隔離、女性労働者の労働時間制限などが主な内容です。これにより法的に労働者保護の枠組みが整備され、後の労働基準法制定へとつながる基盤が築かれました。
1916年
工場法
児童労働
1928年
アルバニア共和国で憲法改正が行われ、アフメト・ベイ・ゾグー大統領がゾグー1世として国王に即位。
アルバニアで憲法が改正され、大統領アフメト・ベイ・ゾグーが国王ゾグー1世として即位しました。
1928年9月1日、アルバニア共和国は憲法を改正し、共和制から立憲君主制へと移行しました。同時に大統領アフメト・ベイ・ゾグーがアフメト・ベイ・ゾグー1世として国王に即位し、国名もアルバニア王国となりました。ゾグー1世は近代化と中央集権化を掲げて統治を行い、教育制度や行政機構の整備を進めました。しかしその強権的な統治手法は国内外で賛否を呼びました。
1928年
アルバニア共和国
憲法
ゾグー1世
1939年
日本で初の興亜奉公日を実施。
1939年、日本で初めて『興亜奉公日』が実施され、勤労奉仕が奨励されました。
『興亜奉公日』は大東亜共栄圏の建設を目指し、国民に勤労奉仕を促す日として制度化されました。
この制度は国家総動員体制の一環で、国民の戦意高揚や労働力確保を目的としていました。
1939年9月1日に初めて実施され、参加者は学生や労働者が産業施設や農村で奉仕活動を行いました。
奉仕活動は道路整備や農作業支援、工場での軽作業など多岐にわたり、プロパガンダ色も強かったとされています。
戦後には廃止され、戦時下の国民動員政策を象徴する取り組みとして歴史に記録されています。
興亜奉公日
1939年
スイス議会がアンリ・ギザンをスイス軍の総司令官に選出する。
1939年、スイス議会はアンリ・ギザンをスイス軍の総司令官に選出しました。
アンリ・ギザン将軍は中立国スイスの軍事的指導者として、第二次世界大戦期のスイス防衛戦略を統括しました。
1939年9月1日、スイス連邦議会は彼を総司令官に選出し、国内の防衛体制強化を命じました。
ギザンは山岳防衛計画『レダウト戦略』を提唱し、国民の独立維持と総力戦体制の構築を目指しました。
彼の指導のもと、スイス軍は侵略を防ぐための軍備増強や動員訓練を実施しました。
戦後もスイスの国防政策に大きな影響を与えた人物です。
スイス
アンリ・ギザン
スイス軍
1946年
ギリシアで人民投票により王政を支持。
1946年、ギリシアの国民投票で王政支持が決定されました。
第二次世界大戦後の1946年9月1日、ギリシアで王政存続の是非を問う国民投票が実施されました。
投票の結果、王政支持が多数を占め、ジョージ2世の復位が決定されました。
この国民投票はギリシア内戦開始前の政治的緊張を反映しており、王党派と共和派の対立が激化しました。
王位復帰後も国内は不安定な状況が続き、内戦は1949年まで続きました。
王政は1973年に最終的に廃止され、共和制へ移行しました。
1946年
ギリシア
1947年
日本で労働省が発足。山川菊栄が婦人少年局長に就任し、日本初の女性局長となる。
1947年、日本で労働省が発足し、山川菊栄が婦人少年局長に就任し日本初の女性局長となりました。
日本の労働省は1947年9月1日の施行により発足し、労働行政の中枢機関として機能を開始しました。
同日、山川菊栄が婦人少年局長に就任し、日本初の女性局長として話題となりました。
山川局長は女性や少年労働者の保護政策や福祉施策の立案に尽力しました。
戦後復興期における労働環境の改善と人権意識の向上に寄与した重要人物です。
労働省は後に厚生労働省へ改組され、現在の日本の労働行政の基礎を築きました。
1947年
労働省
山川菊栄
局長