1173年

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍によって包囲されていたアンコーナのスタミラ(Stamira)が、市外に設置された爆弾を起爆してフリードリヒの軍を攻撃するために単身市外へ出撃、起爆した爆弾によりスタミラは死亡し後にイタリアのナショナリズム運動の一環で英雄と見なされる。

1173年、神聖ローマ帝国の軍に包囲されたアンコーナで、スタミラが単身で敵の爆弾を起爆し軍勢を混乱させた逸話です。
アンコーナは当時独立した海洋共和国として繁栄していましたが、1173年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍勢に包囲されます。地元の女性スタミラは市外に設置された爆弾に気づくと、敵の不意を突くため単身で起爆させました。爆発は皇帝軍に大混乱をもたらし、包囲の撹乱に成功します。スタミラは爆発に巻き込まれその生涯を終えましたが、その自己犠牲の勇気は後のイタリア・ナショナリズム運動で高く評価され、英雄として語り継がれることとなりました。
1173年 フリードリヒ1世 アンコーナ スタミラ Stamira イタリア ナショナリズム
文治5年7月19日

源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討のために鎌倉を出発。

1189年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討のため鎌倉を発った日です。
源頼朝は1185年に平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた後も東北の統治を目指していました。1189年9月1日、頼朝は奥州藤原氏討伐の命を受け、鎌倉を出発します。この遠征は平泉の藤原泰衡に対する討伐軍で、翌年の藤原氏滅亡につながりました。頼朝の東北行軍は鎌倉幕府の全国支配権確立を象徴する重要な出来事として知られています。
1189年 文治 7月19日 源頼朝 藤原泰衡
建仁3年7月24日

仏師運慶・快慶が東大寺金剛力士像の造立を開始。

1203年、運慶と快慶が東大寺の金剛力士像制作を開始しました。
東大寺南大門に安置される金剛力士像は、日本彫刻史における最高傑作の一つとされています。運慶と快慶は鎌倉時代を代表する仏師であり、1203年にこれらの巨像の造立を始めました。彼らは木材の切削技法や写実的表現を駆使し、迫力ある筋肉表現と表情を彫り上げました。その完成は東大寺復興の象徴ともなり、以後の彫刻技術に大きな影響を与えました。
1203年 建仁 7月24日 運慶 快慶 東大寺 金剛力士
1420年

チリのアタカマ州でM9.4のカルデラ地震(1420 Caldera earthquake)、ハワイや日本にも津波が到達する。

1420年、チリ・アタカマ州を襲ったM9.4の大地震と津波が発生しました。
1420年9月1日、チリ北部アタカマ州沿岸でマグニチュード9.4と推定される巨大地震が発生しました。この地震により大規模な津波が南米の沿岸を襲い、さらにハワイや日本にも到達したと伝えられています。史料は限られていますが、地域社会には深刻な被害が生じたと考えられています。この津波の遠隔地到達は前近代の地震学研究においても注目される事例です。
1420年 チリ アタカマ州 カルデラ地震 1420 Caldera earthquake
1435年

リトアニアの内戦最後の戦闘パバイスカスの戦いが行われジーギマンタスの軍勢が勝利。

1435年、リトアニア内戦最後の戦いパバイスカスの戦いが行われました。
リトアニア大公国では1431年から兄弟間の継承争いが続いていました。1435年9月1日、パバイスカスで行われた最終決戦でジーギマンタスの軍が勝利を収めます。この勝利によりジーギマンタス1世は大公位を確立し、国内の統一を図りました。戦いはリトアニア史上重要な転換点とされ、その後のポーランド・リトアニア連合形成にも影響を与えました。
1435年 リトアニアの内戦 パバイスカスの戦い ジーギマンタス
正統14年8月15日

土木の変、オイラトのエセンが正統帝(英宗)を捕らえる。

1449年、オイラトのエセンが明の正統帝を捕らえた土木の変が起こりました。
1449年9月1日、明朝はモンゴルのオイラト部族の指導者エセンによる侵入を受け、正統帝(英宗)が捕虜となる事件が発生しました。これが「土木の変」と呼ばれる危機で、明朝は大きな屈辱を味わいます。英宗の不在に伴い、弟の景泰帝が即位しましたが、問題の根本的解決には至りませんでした。この事件は明朝の北方防衛の脆弱さを浮き彫りにし、後の国内政治にも影を落としました。
1449年 正統 8月15日 土木の変 オイラト エセン 正統帝(英宗)
1529年

スペインがアルゼンチンに建設した最初の砦であるサンクティ・スピリトゥ(Sancti Spiritu)が原住民によって破壊される。

1529年、アルゼンチンで最初のスペイン砦サンクティ・スピリトゥが原住民に破壊されました。
スペインは南米への進出初期にアルゼンチン地域にサンクティ・スピリトゥ砦を建設しました。1529年9月1日、先住民の襲撃によりこの砦は破壊され、ヨーロッパ勢力の警戒を強める契機となります。この事件は現地情勢の不安定さと植民地化の困難さを象徴しています。砦の喪失は即座に補給路の再構築と軍事的対応を迫りました。その後もスペインは度重なる遠征と交渉を繰り返しながら支配体制を確立していきました。
1529年 スペイン アルゼンチン サンクティ・スピリトゥ Sancti Spiritu
1604年

シク教の聖典グル・グラント・サーヒブが黄金寺院に設置される。

1604年、シク教の聖典『グル・グラント・サーヒブ』が黄金寺院に安置されました。
シク教第5代グルのアージャーンによって編纂された『グル・グラント・サーヒブ』は、教義と賛歌を集めた宗教的経典です。1604年9月1日、この経典はパンジャーブ地方の黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)に正式に設置されました。以後、グル・グラント・サーヒブはシク教徒の礼拝と儀式の中心となり、その神聖性は高く尊ばれています。多くの巡礼者が寺院を訪れ、この聖典の公開朗読を聞くことを慕い求めています。黄金寺院への設置はシク教の教義が体系化される重要な節目でした。
1604年 シク教 グル・グラント・サーヒブ 黄金寺院
元和元年7月9日

江戸幕府が、豊臣秀吉を祭神として祀る豊国神社の破却を命令。

1615年、江戸幕府が豊臣秀吉を祀る豊国神社の破却を命じました。
1615年の夏、江戸幕府は大坂夏の陣ののち豊臣家の痕跡を徹底的に排除する方針を採りました。同年9月1日、豊臣秀吉を祭神とする豊国神社の破却が正式に命じられます。豊国神社は当時、大坂城近郊で敬愛を集めていた社でしたが、幕府の権威を揺るがす存在とみなされました。破却によって豊臣家に対する公的記憶の封印と幕府の支配正当化が図られました。この措置は江戸幕府による統制強化の象徴的な出来事となりました。
1615年 元和 7月9日 江戸幕府 豊臣秀吉 豊国神社
1644年

ティパミュアの戦い(Battle of Tippermuir)。

1644年、スコットランドのティパーミュアで王党派とコヴェナンター軍が衝突しました。
1644年9月1日、スコットランド内戦の一環としてティパーミュアの戦いが勃発しました。ジェームズ・グラハム率いる王党派軍とコヴェナンター軍がモンガム州近郊で衝突し、王党派が勝利を収めます。この戦闘はモンローズ伯爵による一連の遠征行動の始まりとなり、同年の内戦情勢に大きな影響を与えました。小規模ながら戦術的な勝利は、王党派の士気向上と影響力拡大に寄与しました。この勝利によりモンローズは北部での優勢を確立し、さらなる戦闘へと勢いをつけました。
1644年 ティパミュアの戦い Battle of Tippermuir
1715年

フランス王ルイ14世が、ヨーロッパの君主では最長となる在位期間72年と110日で死去。

フランス王ルイ14世が72年110日の在位を経て死去。ヨーロッパ君主として最長の在位記録を樹立しました。
ルイ14世は1643年にわずか4歳で即位し、1661年以降は実質的に統治を行いました。 「朕は国家なり」と絶対王政を極め、中央集権を強化しました。 ヴェルサイユ宮殿の建設により華麗な宮廷文化を築き、芸術・建築にも大きな影響を与えました。 フランスの国力を増大させ、数度にわたる対外戦争を遂行しヨーロッパ政治を動かしました。 1715年9月1日に72年110日の在位を終え、その死は各国に衝撃を与えました。 その統治手法や文化事業は以後の君主制や芸術に大きな足跡を残しています。
1715年 フランス ルイ14世 ヨーロッパ
1772年

ミッション・サン・ルイス・オビスポ・デ・トロサ(Mission San Luis Obispo de Tolosa)がカリフォルニア州サンルイスオビスポに設立される。

カリフォルニア州サンルイスオビスポにスペイン伝道所が設立され、地域社会の発展が始まりました。
1772年9月1日、スペイン帝国の伝道拠点としてミッション・サン・ルイス・オビスポ・デ・トロサが創設されました。 この伝道所はフランシスコ会修道士が先住民へのキリスト教布教と農業技術の伝授を目的に運営しました。 サンルイスオビスポの街はミッションを中心に発展し、後の都市形成に大きく寄与しました。 ぶどう栽培や羊毛生産が行われ、カリフォルニアの農業基盤を築く役割を果たしました。 現在も残る石造りの礼拝堂は建築史的価値が高く、多くの観光客を引きつけています。 この出来事はスペイン植民地支配と文化交流の歴史的象徴となっています。
1772年 ミッション・サン・ルイス・オビスポ・デ・トロサ Mission San Luis Obispo de Tolosa サンルイスオビスポ