1813年
半島戦争: サン・マルシャルの戦い。
スペイン半島戦争中の一戦で、イギリス・ポルトガル連合軍がフランス軍を撃破した重要な戦い。
1813年8月31日、スペイン北部サン・マルシャル付近で、ウェリントン公爵アルバート・ウェリントン率いるイギリス・ポルトガル連合軍とナポレオン軍が激突した。連合軍は夜間攻撃を含む巧妙な戦術を展開してフランス軍の防衛線を突破した。戦闘は数時間で終結し、連合軍が勝利を収めた。この勝利により半島戦争での連合軍の勢いが増し、スペイン解放運動を後押しした。さらに翌月のビトリアの戦いへの布石となり、ナポレオン支配からの解放に向けた重要な前哨戦となった。
1813年
半島戦争
サン・マルシャルの戦い
英語版
1864年
南北戦争: ジョーンズバラの戦いが始まる。
ジョーンズバラの戦いが始まり、アトランタ包囲戦の鍵を握る激戦が展開された。
1864年8月31日、アメリカ南北戦争中、北軍のウィリアム・シャーマン将軍がジョージア州ジョーンズバラにて南軍の補給線を断つための攻撃を開始した。戦闘は数日間続き、北軍は鉄道の要衝を狙って南軍防御を突破。これによりアトランタ包囲戦が決定的となり、南軍は退却を余儀なくされた。ジョーンズバラの戦いはアトランタ制圧への転換点となり、リンカーン再選にも大きく貢献した。
1864年
南北戦争
ジョーンズバラの戦い
1918年
第一次世界大戦: モン・サン・クエンタンの戦いが始まる。
第一次世界大戦末期の西部戦線で、連合国軍がドイツ軍に対して反攻作戦を開始しました。
モン・サン・クエンタンの戦いは第一次世界大戦末期の1918年8月31日に始まった連合国軍の反攻作戦です。北フランスの丘陵地帯でイギリス軍やオーストラリア軍がドイツ軍に圧力をかけ、特にオーストラリア第2師団が重要拠点を奪取しました。この攻勢は100日攻勢の一環であり、ドイツ軍の後退を決定的に促し、戦争終結への流れを加速させました。激戦の多くが連合軍の士気を高め、戦後の軍事戦術にも大きな示唆を与えました。
1918年
第一次世界大戦
モン・サン・クエンタンの戦い
英語版
1923年
ギリシャのケルキラ島(コルフ島)をイタリア海軍が砲撃・占領(コルフ島事件)。
イタリア海軍がギリシャ領コルフ島を砲撃・占領し、国際連盟を巻き込んだ外交危機となった事件です。
1923年8月27日に発生したイタリア人国境監視委員団襲撃事件を口実に、イタリアはギリシャに賠償を要求しました。ギリシャ側の拒否を受け、同月31日にイタリア海軍がコルフ島を砲撃し一時的に占領しました。コルフ島事件は国際連盟の調停を試みるも領土問題と集団安全保障の限界を浮き彫りにし、列強間の軍事的圧力の危険性を示しました。最終的にはイタリアの撤退で収束しましたが、ファシズム台頭の前兆とも評される出来事です。
1923年
ギリシャ
ケルキラ島
イタリア海軍
コルフ島事件
1931年
チリで艦隊の反乱が起こる。
チリ海軍の水兵と下士官による反乱が発生し、国内政治に混乱をもたらしました。
1931年8月31日、チリ海軍内で賃金引き下げや軍内部の不満を理由に水兵と下士官が反乱を起こしました。バルパライソ湾で数隻の艦艇が一時的に掌握されましたが、政府は迅速に鎮圧部隊を派遣して反乱を鎮めました。多くの反乱兵が逮捕・処罰され、海軍の士気低下と政治的不安定化が浮き彫りとなりました。経済大恐慌期の軍事予算削減が背景にあり、この事件はチリの近代史における転換点とも言われます。
1931年
チリ
艦隊の反乱
1939年
ドイツ工作員がポーランドのラジオ局襲撃を自作自演したグライヴィッツ事件。
ナチス・ドイツがポーランド侵攻の口実とするために、自作自演でラジオ局を襲撃した謀略事件です。
1939年8月31日未明、ナチス・ドイツの特務部隊がポーランド領内グライヴィッツのラジオ局を襲撃し、ポーランド軍兵士に偽装して攻撃を行いました。このグライヴィッツ事件はドイツによるポーランド侵攻の宣伝用口実として利用され、9月1日の攻撃開始を正当化するための偽情報工作でした。襲撃後に作成された映像や報道は国内でポーランドの侵略行為として受け止められ、多くの市民を動員しました。戦後のニュルンベルク裁判ではナチスの謀略として糾弾され、その悪質さが明らかにされました。
1939年
ドイツ
ポーランド
グライヴィッツ事件
1949年
ギリシャ内戦: ギリシャ民主軍がグラモス山で敗北しアルバニアに撤退、以降9月に民主軍の大部分が降伏する。
ギリシャ内戦の最終局面で、共産派の民主軍がグラモス山で敗れ撤退を余儀なくされました。
1949年8月31日、ギリシャ内戦の最終段階で共産主義勢力ギリシャ民主軍(EDES)は北西部のグラモス山で政府軍に敗北しました。民主軍はアルバニア国境を越えて撤退し、続く9月に大多数が降伏または捕虜となり内戦は事実上終結しました。この勝利はトルーマンドクトリンに基づくアメリカの支援を受けた政府軍の成果とされ、冷戦期の東西対立構造に影響を与えました。内戦で荒廃した地域の復興と難民の処遇が、新国政の重要課題となりました。
ギリシャ内戦
1993年
ロシア軍がリトアニアからの撤兵を完了。
1993年8月31日、ソ連崩壊後のリトアニアから最後のロシア軍部隊が撤退し、完全な主権回復が実現しました。
ソビエト連邦崩壊後、1991年に独立を回復したリトアニアには旧ソ連軍が駐留していました。
1993年8月31日に最後のロシア連邦軍部隊がヴィリニュス近郊の基地を離れ、完全に撤退が完了しました。
これにより、リトアニアの主権回復と国防自主の実現が国際的にも確認されました。
撤兵完了はバルト三国の独立回復運動の象徴的マイルストーンとなり、NATOやEU加盟交渉が加速しました。
その後、リトアニアは1999年にNATO、2004年にEUへ加盟し、安定した民主主義国家へと発展しました。
1993年
ロシア
リトアニア
1994年
北アイルランド問題: IRA暫定派が停戦を発表。
1994年8月31日、北アイルランド紛争の主要勢力であるIRA暫定派が武装闘争の一時停止を宣言しました。
北アイルランド紛争(Troubles)の中心勢力であったアイルランド共和軍(IRA)暫定派は、1994年8月31日付で武装闘争の一時停止を公式に発表しました。
この停戦宣言は、英国政府や北アイルランドの政治勢力との和平交渉開始に向けた重要な一歩とされました。
当時は多数の暴力事件が続いていたものの、停戦により双方に対話の道が開かれました。
その後、1998年のベルファスト(グッドフライデー)合意へと至る和平プロセスの土台となりました。
現在でもこの停戦宣言は北アイルランド和平の転換点として歴史に刻まれています。
1994年
北アイルランド問題
IRA暫定派
停戦
1994年
49年間旧東ドイツに駐留していたロシア(旧ソ連)軍の撤退が完了。
1994年8月31日、旧東ドイツから49年間駐留していたロシア軍の完全撤退が完了しました。
第二次世界大戦後、ソ連軍は東ドイツ(ドイツ民主共和国)に駐留し続けていました。
ドイツ再統一後の安全保障条約として1990年に締結された「ドイツ最終規定条約」に基づき、1994年8月31日に最後の部隊が撤退しました。
約49年にわたる外国軍の駐留はこれをもって終息し、再統一ドイツの主権が国際的に確立されました。
撤退完了は冷戦終結後のヨーロッパ安全保障秩序再編の象徴的出来事とされています。
以降、旧東ドイツ地域はNATOおよびEUの一員として新たな発展を遂げました。
東ドイツ
1994年
ロシア軍がエストニアからの撤兵を完了。
1994年8月31日、エストニアから最後のロシア連邦軍が撤退し、バルト三国の完全独立主権が回復しました。
エストニアは1991年にソ連崩壊を機に独立を回復しましたが、旧ソ連軍が国内に駐留していました。
1994年8月31日、リトアニアに続き最後のロシア連邦軍部隊が撤退し、国内の外国軍駐留が完全に終了しました。
これにより、エストニアの国家主権が明確化し、国際社会での承認がさらに進みました。
撤退完了はエストニアのNATO(2004年)およびEU(2004年)加盟への基盤を固める重要な契機となりました。
以降、エストニアはIT先進国としての道を歩み、経済成長と民主化を推進しています。
エストニア
1996年
クルドのマスード・バルザニがサダム・フセインに対クルディスタン愛国同盟の援軍を要請、クルド人自治区の首都アルビールにイラク軍が押し寄せる。
1996年8月31日、クルド民主党のマスード・バルザニがサダム・フセイン政権に軍事支援を要請し、イラク軍がアルビールに進攻しました。
イラク北部では1994年からクルド民主党(KDP)とクルディスタン愛国同盟(PUK)の内戦が続いていました。
1996年8月、KDP首長マスード・バルザニはPUKへの対抗策としてイラク中央政府に軍事支援を要請しました。
サダム・フセイン政権はこれを受け、8月末にイラク軍部隊がアルビールに進攻しました。
イラク軍の介入により、KDP側は一時的にPUK支配地域から撤退を余儀なくされましたが、国際社会の圧力で程なく撤兵が行われました。
この事件はクルド人自治区の内部抗争が地域情勢に大きな波紋を広げた象徴的な出来事とされています。
1996年
クルド
マスード・バルザニ
サダム・フセイン
クルディスタン愛国同盟
アルビール
イラク