1056年

テオドラが病死。ビザンツ帝国のマケドニア朝が断絶する。

ビザンツ帝国の最後の女帝テオドラが死去し、マケドニア朝は終焉を迎えました。
1056年8月31日、ビザンツ帝国の女帝テオドラがその生涯を閉じ、マケドニア朝は後継者を欠いて終焉を迎えました。 テオドラは皇帝コンスタンティノス9世の妹として短期間ながらも帝位を保持し、宮廷内の権力均衡を保とうと尽力しました。 彼女の死により、マケドニア朝は断絶し、新たな統治体制の模索が始まりました。 この出来事は東ローマ帝国の政局に大きな転換をもたらし、その後の皇位継承問題や貴族勢力の抗争に影響を与えました。 教会や軍事貴族の台頭が進み、帝国の内政は大きな変革期へと突入しました。
1056年 テオドラ ビザンツ帝国 マケドニア朝
1217年

フェルナンド3世がカスティーリャ王に即位。

フェルナンド3世がカスティーリャ王として即位し、後のスペイン統一への礎を築きました。
1217年8月31日、若きフェルナンド3世は父アルフォンソ9世の死去に伴いカスティーリャ王の座につきました。 彼はレコンキスタ(国土回復運動)を推進し、後に隣接するレオン王国と統合を果たします。 フェルナンド3世の治世下でトレドやコルドバの奪回が進み、イベリア半島におけるキリスト教勢力の地盤が強化されました。 教会との協調を図りつつ法整備や行政改革を推進し、スペイン王権の基盤を固めました。 後世、彼は聖王(カトリック列聖)として崇められ、スペイン統一の象徴的存在となります。
1217年 フェルナンド3世 カスティーリャ
1218年

アル・カーミルがアイユーブ朝第5代スルタンに即位。

アイユーブ朝の第5代スルタンにアル・カーミルが就任し、国家体制の安定化を図りました。
1218年8月31日、アル・カーミルがアイユーブ朝の第5代スルタンに即位し、エジプトとシリアの統治権を継承しました。 彼は国内のマムルーク勢力との関係調整を進めつつ、学問や交易の振興に力を注ぎました。 即位後は都市の発展や交易路の確保を優先し、アイユーブ朝の経済的安定を促進しました。 また、紅海航路や地中海貿易の要所として商業活動を後押しし、国家財政の強化に寄与しました。 アル・カーミルの治世は、イスラム文化の発展と軍事的安定を両立させた時期として評価されています。
1218年 アル・カーミル アイユーブ朝 スルタン
1314年

ノルウェー王ホーコン5世が首都をベルゲンからオスロに移す。

ホーコン5世がノルウェーの首都をベルゲンからオスロに遷都し、王権強化を図りました。
1314年8月31日、ノルウェー王ホーコン5世は政治・軍事の集約を目的に首都を貿易都市ベルゲンから内陸のオスロへと遷都しました。 この遷都は南部防衛の拠点強化と中央集権化を推進するための戦略的判断でした。 オスロには新たな王宮が築かれ、行政機能や法廷が集中配置されることで統治効率が向上しました。 また都市開発が進み、後世のノルウェー文化や経済発展の礎となる拠点が形成されました。 ホーコン5世の遷都政策は、デンマークやスウェーデンとの緊張緩和にも寄与しました。
1314年 ノルウェー ホーコン5世 ベルゲン オスロ
1422年

ヘンリー6世が生後9か月でイングランド王に即位。

生後わずか9か月のヘンリー6世が即位し、王権争いの火種となりました。
1422年8月31日、父ヘンリー5世の急逝により生後9か月のヘンリー6世がイングランド王となりました。 幼帝政権下では摂政による統治が行われ、百年戦争の継続や国内貴族の抗争が深刻化しました。 ヘンリー6世はしばしば精神を病み、その治世は貴族間の権力闘争と不安定な政局に悩まされます。 やがてランカスター家とヨーク家の対立、いわゆる薔薇戦争の火種となり、国内は長期にわたり内乱状態に陥りました。 幼少即位は中世イングランド史における王権の脆弱性を象徴する出来事となりました。
1422年 ヘンリー6世 イングランド
1535年

ローマ教皇パウルス3世がテューダー朝のイングランド王ヘンリー8世をカトリック教会から追放する。

パウルス3世教皇がヘンリー8世を破門し、イングランド宗教改革に拍車をかけました。
1535年8月31日、ローマ教皇パウルス3世は教皇勅書によってイングランド王ヘンリー8世をカトリック教会から破門しました。 この措置はヘンリー8世が離婚問題をめぐりローマ教廷と対立した結果であり、王は教皇への反発を強めます。 1534年の至高法制定を経てヘンリー8世はイングリス・キリスト教会を創設し、ローマからの独立を正式に宣言しました。 この破門は欧州全域の宗教改革勢力に影響を与え、教会と国家のあり方を根底から変える転換点となりました。 以降イングランドはプロテスタント勢力の一翼を担い、宗教と政治が一体化した近代国家への道を歩みます。
1535年 ローマ教皇 パウルス3世 テューダー朝 イングランド ヘンリー8世 カトリック教会
慶長19年7月26日

徳川家康が、豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘の「国家安康」の文字に言いがかりをつけ落慶法要を延期させる。大坂冬の陣のきっかけに。

家康が方広寺の鐘文句を問題視し、落慶法要延期で大坂冬の陣の口実を作りました。
1614年8月31日(慶長19年7月26日)、徳川家康は豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘「国家安康」に難癖をつけ、落慶法要の延期を命じました。 鐘文句に“家康”の文字を分断する意図があると批判し、豊臣家への圧力手段としたのです。 この一連の動きが豊臣家との緊張を一気に高め、大坂冬の陣勃発の口実を与えました。 1614年末、両軍はついに衝突し、日本の封建時代終盤を象徴する大規模戦闘が始まります。 家康の政治戦略と豊臣家の反発は、その後の江戸幕府成立にも大きな影響を与えました。
1614年 慶長 7月26日 徳川家康 豊臣秀頼 方広寺 大坂冬の陣
1763年

ブラジル植民地の首都がサルヴァドールからリオ・デ・ジャネイロに移される。

ブラジル植民地の首都がサルヴァドールからリオへ移され、行政拠点が再編されました。
1763年8月31日、ポルトガル領ブラジルの行政改革により植民地の首都がサルヴァドールからリオ・デ・ジャネイロに遷されました。 新たな首都リオは南大西洋航路の要所に位置し、軍事・交易拠点としての重要性が高まりました。 移転により行政機構が一元化され、植民地統治の効率化と財政基盤の強化が図られます。 リオは後のコーヒー貿易繁栄期においても中枢都市として発展を遂げ、人口と文化の多様性が拡大しました。 この遷都はブラジルの社会構造や経済成長に大きく寄与し、新たな時代の幕開けとなりました。
1763年 ブラジル植民地 サルヴァドール リオ・デ・ジャネイロ
1776年

ウィリアム・リヴィングストンが初代ニュージャージー州知事(当時は邦知事といった)に就任する。

ウィリアム・リヴィングストンがニュージャージー州初代知事に就任し、独立戦争期の州統治を担いました。
1776年8月31日、アメリカ独立戦争下のニュージャージー州でウィリアム・リヴィングストンが初代州知事に就任しました。 独立宣言採択直後の混乱期に、州政府の設立や行政組織の整備を主導し、統治体制の基礎を築きました。 リヴィングストンは植民地時代の制度を刷新し、民兵編成や財政確立に尽力して大陸軍への物資供給も担いました。 ニュージャージーは戦略的に重要な補給拠点となり、彼の指導が戦局に大きく貢献しました。 戦後は教育機関の設立にも関わり、州の社会基盤整備に貢献しました。
1776年 ウィリアム・リヴィングストン ニュージャージー州知事
1798年

フランスの援助を受けた1798年のアイルランド反乱軍がコナハト共和国を建国すると宣言する。

アイルランド反乱軍がコナハト共和国建国を宣言し、英国支配への抵抗を図りました。
1798年8月31日、フランスの支援を受けたアイルランド反乱軍はコナハト共和国の建国を宣言しました。 この試みは英領支配に対する民族主義運動の一環で、共和制樹立を目指した大胆な挑戦でした。 反乱軍は地元住民や志願兵とともに戦闘を展開しましたが、英軍の組織的反撃により短期間で鎮圧されます。 共和国の維持は叶わず、実質的に崩壊しましたが、この反乱は後のアイルランド自由化運動に大きな影響を与えました。 1798年反乱は民族意識の高揚と独立への道筋を示す歴史的事件として記憶されています。
1798年 アイルランド反乱 コナハト共和国 英語版
1813年

半島戦争: サン・マルシャルの戦い。

スペイン半島戦争中の一戦で、イギリス・ポルトガル連合軍がフランス軍を撃破した重要な戦い。
1813年8月31日、スペイン北部サン・マルシャル付近で、ウェリントン公爵アルバート・ウェリントン率いるイギリス・ポルトガル連合軍とナポレオン軍が激突した。連合軍は夜間攻撃を含む巧妙な戦術を展開してフランス軍の防衛線を突破した。戦闘は数時間で終結し、連合軍が勝利を収めた。この勝利により半島戦争での連合軍の勢いが増し、スペイン解放運動を後押しした。さらに翌月のビトリアの戦いへの布石となり、ナポレオン支配からの解放に向けた重要な前哨戦となった。
1813年 半島戦争 サン・マルシャルの戦い 英語版
1848年

ヨハン・シュトラウス1世の『ラデツキー行進曲』がウィーンで初演。

英雄的な行進曲『ラデツキー行進曲』がウィーンで初演され、大衆に爆発的な人気を博した。
1848年8月31日、ヨハン・シュトラウス1世が作曲した『ラデツキー行進曲』がウィーンの帝国軍楽隊によって初演された。作品はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の将軍ラデツキーに捧げられ、聴衆の心を掴んで大成功を収めた。その軽快なリズムと荘厳な旋律は瞬く間に欧州中に広まり、行進曲の金字塔と称される。本作はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートの定番曲として今日まで愛され続けている。
1848年 ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲