天正18年8月1日
徳川家康が江戸城に入城。入城日は、後に八朔御祝儀の日になる。
徳川家康が豊臣秀吉の命を受けて江戸城に入城した。
1590年8月30日(天正18年8月1日)、豊臣秀吉の命により徳川家康が関東へ移封され、江戸城に入城した。家康は城の整備を進め、関東支配の拠点として城下町の発展を図った。この入城日は農事暦の「八朔」と重なり、後に八朔御祝儀が行われる伝統となった。江戸城はのちに家康の政権「江戸幕府」の中心となり、日本史に大きな転換をもたらした。初期の整備によって江戸は関東最大の政治・経済都市へと成長した。
1590年
天正
8月1日
徳川家康
江戸城
八朔
元和元年7月7日
江戸幕府が武家諸法度を発布。
江戸幕府が大名統制のために武家諸法度を発布した。
1615年8月30日(元和元年7月7日)、徳川幕府は大名統制を目的とした「武家諸法度」を制定・発布した。法令では大名の城郭修理、婚姻、領地の移動などが厳しく制限され、大名は幕府への報告義務を負った。これにより中央集権化が進み、国内の平和と安定が図られた。武家諸法度は以降300年以上にわたり幕府政治の基礎法典として運用され、江戸時代の秩序維持に大きく寄与した。
1615年
元和
7月7日
江戸幕府
武家諸法度
1727年
オラニエ公妃アンが王の長女の称号プリンセス・ロイヤルを授けられる。
オラニエ公妃アンにイギリス王室のプリンセス・ロイヤルの称号が授与された。
1727年8月30日、イギリス王ジョージ2世の長女アンに「プリンセス・ロイヤル」の称号が正式に授けられた。プリンセス・ロイヤルは王室の第一王女に与えられる伝統的な地位であり、16世紀の制定以来、格式を示す重要な儀礼とされてきた。アンの称号授与は宮廷儀礼として注目を集め、王室外交や文化を象徴する出来事となった。この伝統は現代まで継承され、王室女性の地位を示す象徴として機能している。
1727年
アン
プリンセス・ロイヤル
1882年
済物浦条約。
朝鮮王朝と清朝の間で甲申事変収束のため済物浦条約が締結される。
1882年8月30日、朝鮮王朝と清朝が済物浦港で条約を締結。
条約により朝鮮側は賠償金を支払い、中国軍の駐留を認めた。
清朝は朝鮮への軍事的影響力を強化し、外交の主導権を掌握。
この協定は朝鮮が事実上清朝の保護下に置かれる転機となった。
その後の日清関係や朝鮮半島情勢に重大な影響を与えた。
1882年
済物浦条約
1900年
幸徳秋水が、自由党の後身・憲政党の藩閥との妥協を批判する論文「自由党を祭る文」を『萬朝報』で発表。
幸徳秋水が『萬朝報』で論文「自由党を祭る文」を発表し、藩閥政治を批判。
1900年8月30日、幸徳秋水は『萬朝報』に批判論文「自由党を祭る文」を掲載。
自由党の後身である憲政党が藩閥政治との妥協を図ったことを鋭く糾弾。
幸徳は政治的原則と国民の権利尊重を強く訴え、改革への熱意を示した。
論文は自由民権運動内外に波紋を呼び、政治論争を活性化。
日本近代政治思想における重要なマイルストーンとされる。
1900年
幸徳秋水
自由党
憲政党
藩閥
萬朝報
1911年
日本で西園寺公望が第14代内閣総理大臣に就任し、第2次西園寺内閣が発足。
西園寺公望が第14代内閣総理大臣に就任し、第2次内閣を組閣。
1911年8月30日、西園寺公望が内閣総理大臣に就任し第2次西園寺内閣が発足。
立憲政友会を中心に組閣され、議会運営と財政再建に注力。
選挙制度改革や日露戦後処理など内政課題に取り組んだ。
藩閥勢力との調整を図りつつ国会と協調を目指した。
政友会内の対立や軍部の圧力により、内閣は多くの試練に直面した。
1911年
西園寺公望
内閣総理大臣
第2次西園寺内閣
1939年
日本で陸軍大将阿部信行が第36代内閣総理大臣に就任し、阿部内閣が発足。
陸軍大将・阿部信行が第36代内閣総理大臣に就任、阿部内閣が発足。
1939年8月30日、陸軍大将阿部信行が第36代内閣総理大臣に任命され、阿部内閣が発足。
内閣は統制経済や国民精神総動員運動の強化を進めた。
日中戦争の長期化や欧米諸国との対立激化に対応するため戦時体制整備を図った。
政策調整の難航や閣内対立により成果を上げきれず、短命内閣に終わる。
内閣総辞職後、米内光政内閣へと政権が移行した。
1939年
阿部信行
阿部内閣
1940年
松岡洋右外相とアンリ仏大使が北部仏印進駐に関する協定(松岡・アンリ協定)を締結。
松岡洋右外相と仏大使アンリが北部仏印進駐を認める松岡・アンリ協定を締結。
1940年8月30日、外相松岡洋右と在日仏大使アンリが北部仏領インドシナ進駐協定を締結。
協定により日本軍はインドシナ北部への兵站線確保と部隊展開を認められた。
ヴィシー政権を代表する仏大使との妥協で仏印統治は継続。
この協定は日本の南方進出戦略を強化し、資源確保に寄与。
後のインドシナ占領や日独伊三国同盟強化への足がかりとなった。
1940年
松岡洋右
北部仏印進駐
1940年
第二次ウィーン裁定(英語版)、ルーマニアはトランシルバニア北部をハンガリーに譲渡。
第二次ウィーン裁定により、ルーマニアは北トランシルバニアをハンガリーへ割譲しました。
1938年の第一次裁定に続く枢軸国による仲裁の一環として実施されました。
ムッソリーニとヒトラーの圧力を受けたルーマニア政府は北トランシルバニアを割譲。
割譲地域にはハンガリー系住民が多く、民族問題が複雑に絡んでいました。
この裁定は東ヨーロッパの勢力均衡を大きく変え、第二次世界大戦に向かう緊張を高めました。
戦後、国境線は再度見直されることになります。
第二次ウィーン裁定
英語版
1941年
第二次世界大戦: 日本で金属類回収令公布。
日本政府が戦時体制強化のため金属類回収令を公布しました。
日本政府は戦時体制強化の一環として金属類回収令を公布しました。
市民が家庭内の金属製品を提出することで軍需生産を支える狙いがありました。
鍋ややかん、生活用品などが対象となり、地方自治体が回収を行いました。
回収された金属は武器や弾薬の原材料として再利用されました。
当時の国民生活への影響は大きく、終戦まで継続的に実施されました。
1941年
第二次世界大戦
金属類回収令
1945年
第二次世界大戦後のドイツを統治する連合国管理理事会(英語版)が発足。
ドイツ統治のため連合国管理理事会が発足しました。
1945年8月30日、連合国管理理事会が発足しました。
アメリカ・イギリス・ソ連・フランスの代表が参加し、ドイツ統治を協議。
戦後ドイツの分割占領と再建方針を決定する最高機関として機能。
各占領地域の行政・経済政策に大きな影響を与えました。
後の東西冷戦構造の一因ともなった重要な国際会議です。
連合国管理理事会
英語版
1956年
スターリン批判を受け、北朝鮮で同国の幹部が最高指導者金日成の個人崇拝や工業政策を批判。(8月宗派事件)
北朝鮮で金日成批判派が個人崇拝を批判、8月宗派事件が発生しました。
1956年8月、北朝鮮共産党内の一部幹部が金日成批判を行いました。
スターリン批判の影響を受け、個人崇拝や重工業偏重政策を問題視。
平壌闘争会議で反対派が追及され、多数が失脚・粛清されました。
金日成の権威強化とカリスマ支配体制の礎を築く契機となりました。
北朝鮮政治史上、指導体制の転換点として知られています。
1956年
スターリン批判
北朝鮮
金日成
個人崇拝
8月宗派事件