和銅元年8月10日

日本初の銅銭「和同開珎」を発行。

708年、律令国家の財政基盤を強化するために、日本初の正式な貨幣「和同開珎」が鋳造・発行されました。朝廷による貨幣制度の成立は、物流や税制に大きな影響を及ぼしました。
708年に鋳造された和同開珎は、長さ約2cm、重さ約3.4gの円形銅銭であり、中央に方孔を持つ特徴的な形状をしています。 朝廷は豪族や民間にこれを流通させ、物資の流通を活性化し、租税納入の統一通貨として利用しました。 それまで米や布を基軸とした物々交換に頼っていた経済は、貨幣経済への移行により大きく変革しました。 和同開珎の発行は、律令国家の財政基盤を確立し、中央集権的な統制力を強化する狙いがありました。 現在、博物館などで原物が展示されており、古代日本の重要遺産として知られています。
708年 和銅 8月10日 和同開珎
天平宝字3年8月3日

鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立。

759年、唐僧・鑑真が律宗の道場として唐律招提(後の唐招提寺)を建立しました。戒律研究と仏教伝来に大きな役割を果たしました。
鑑真は唐から6度日本への渡航を試み、遂に8年目で来日しました。 来日後は奈良に招かれ、759年(天平宝字3年)8月に唐律招提の設立を開始し、戒律の研究と布教を行いました。 この道場は後に唐招提寺と呼ばれ、正式な寺院として完成しました。 戒律僧の養成と仏教文化の普及に尽力し、日本仏教史上欠かせない存在となりました。 現在の唐招提寺はユネスコ世界遺産にも登録され、その建築と鑑真の足跡が高く評価されています。
759年 天平宝字 8月3日 鑑真 唐招提寺
1009年

975年に着工したマインツ大聖堂(英語版)で火災が起こる。

1009年、マインツ大聖堂で火災が発生し、建設中の壮大な聖堂が被災しました。
マインツ大聖堂は975年に着工されたロマネスク様式の大規模教会建築の一つでした。 1009年8月29日の夜に発生した火災は、木造の屋根構造を中心に激しく燃え広がり、大聖堂の大部分を焼失しました。 この火災により貴重な宗教美術や蔵書も焼失し、当時の宗教都市マインツに大きな衝撃を与えました。 その後、再建が試みられ、現在の大聖堂は中世から近世にかけて改修・再建された姿が残っています。 火災による被害は12世紀以降の建築様式への移行にも影響を与えました。
1009年 マインツ大聖堂 英語版
1350年

百年戦争: ウィンチェルシーの海戦。

百年戦争中の1350年、イングランドとフランスの艦隊がウィンチェルシー沖で衝突しました。
ウィンチェルシーの海戦は、百年戦争(1337年-1453年)の中期に起こった海上戦闘です。 1350年8月29日、イングランド王エドワード3世の艦隊とフランス艦隊がイングランド南海岸のウィンチェルシー沖で激突しました。 イングランド側は海賊船や商船を改装した艦隊を率い、フランス側を撃退しました。 この勝利によりイングランドの海上補給線が安定し、南仏からの資金や物資の輸送に好影響を与えました。 海戦の詳細は史料に乏しいものの、中世ヨーロッパの海戦戦術研究に重要な事例とされています。
1350年 百年戦争 ウィンチェルシーの海戦
延文4年/正平14年8月6日

筑後川の戦い。

1359年、南北朝時代の武将たちが筑後川を挟んで激突した合戦です。
筑後川の戦いは、南北朝時代(1336年-1392年)の内乱の一つで、九州の勢力争いの一環でした。 1359年8月6日(延文4年/正平14年)に筑後川の河口付近で北朝方と南朝方の軍勢が激突しました。 対岸の制圧を巡り激しい乱戦となり、多くの武将や兵士が戦死したと伝えられます。 勝敗の詳細は不明ですが、この合戦は九州地方での南北朝両勢力の勢力範囲を左右する重要な戦いでした。 その後、九州全体にわたる抗争は断続的に続きましたが、最終的には北朝側が優勢を保つ形となりました。
1359年 延文 正平 8月6日 筑後川の戦い
1475年

英仏間でピキニー条約(英語版)が締結。7年間の停戦や自由貿易などを定める。

1475年、イングランド王とフランス王がピキニー条約を締結し、7年間の停戦と貿易の自由化を定めました。
ピキニー条約(Treaty of Picquigny)は、1475年8月29日にイングランド王エドワード4世とフランス王ルイ11世の間で調印された和平協定です。 この条約により7年間の停戦が確立され、イングランド軍のフランス国内での略奪行為が停止しました。 また、通商特権の付与によりイングランド商人はフランスとの間で自由に交易できるようになりました。 条約にはイングランド王への年金支払いも含まれ、フランス王からの現金提供が約束されました。 ピキニー条約は百年戦争の事実上の終結とされ、その後の英仏関係に大きな影響を与えました。
1475年 ピキニー条約 英語版
1498年

ヴァスコ・ダ・ガマが3か月のインド・カリカット滞在の後にポルトガルへ向けて出発。

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド・カリカット滞在3ヶ月の後、ポルトガルへの帰航を開始しました。
ヴァスコ・ダ・ガマは1498年5月に初めてインドのカリカット(現在のコーリコード)に到達し、大西洋とインド洋を結ぶ海路を確立しました。 同年8月29日、約3ヶ月にわたる交易交渉と補給を終えた彼は、インド諸港から香辛料や宝石を積み込み、ポルトガルへの帰航を開始しました。 この航海は新航路開拓の成功を示すもので、ヨーロッパとアジア間の海上交易を大きく発展させました。 帰路にはアフリカ沿岸を南下し、好天候や海流を利用してヨーロッパへの速達を図りました。 ダ・ガマの航海は大航海時代を象徴する偉業となり、ポルトガルの海上帝国樹立の礎となりました。
1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ インド カリカット ポルトガル
1521年

ベオグラード包囲戦が終了しオスマン帝国がハンガリーから同市を獲得。

1521年、オスマン帝国がハンガリーの首都ベオグラードを攻略し、支配下に置きました。
ベオグラード包囲戦は、1521年8月29日にオスマン帝国のスレイマン1世率いる軍勢がハンガリー王国の要衝ベオグラード(現セルビア)を陥落させた戦闘です。 この攻略によりオスマン帝国はドナウ川流域での支配権を確立し、中央ヨーロッパ侵攻の足掛かりを得ました。 要塞の堅固な防御にもかかわらず、オスマン軍の強力な大砲隊と包囲戦術が決定的な役割を果たしました。 ベオグラード奪取後、オスマン帝国はバルカン半島全域への影響力を拡大し、以降数十年にわたって欧州勢力との対立が続きました。 この戦いは16世紀初頭のヨーロッパ政治勢力図を大きく変えた重要な節目とされています。
1521年 ベオグラード包囲戦
1526年

オスマン=ハンガリー戦争: モハーチの戦い。

1526年、オスマン帝国軍とハンガリー軍がモハーチ平野で激突し、ハンガリーが壊滅的敗北を喫しました。
モハーチの戦いは、1526年8月29日にオスマン帝国のスレイマン1世軍とハンガリー王国の軍勢がモハーチ近郊で行った決戦です。 オスマン軍は優れた騎兵と火砲を駆使し、ハンガリー軍を圧倒しました。 ハンガリー王ラヨシュ2世も戦死し、王国は実質的に解体されました。 この敗北によりハンガリーはオスマン帝国の属国となり、中央ヨーロッパの勢力均衡が大きく崩れました。 モハーチの戦いは16世紀ヨーロッパにおける軍事技術と戦術の変革を示す象徴的な出来事です。
1526年 モハーチの戦い
天正16年7月8日

豊臣秀吉が刀狩令を発布。

1588年、豊臣秀吉が全国の武士や農民から刀を没収する刀狩令を布告しました。
刀狩令は、1588年(天正16年)7月8日に豊臣秀吉が発布した法令で、武士や農民から鉄砲・刀剣を徴収し武装の一元管理を図りました。 この政策により農民の武装解除が進み、一揆や反乱の抑制、高い治安維持が実現されました。 同時に刀狩は天下統一後の領地支配体制を強化し、兵農分離を促進する契機となりました。 徴収された武器は再鍛造・再配分され、豊臣政権の権威を象徴しました。 刀狩令は江戸時代の武家支配体制にも影響を及ぼし、社会秩序の安定に寄与したと評価されています。
1588年 天正 7月8日 豊臣秀吉 刀狩令
寛保元年7月19日

渡島大島・寛保岳噴火に伴っての津波が発生(寛保津波)。対岸を中心に1,467人の死者を出す。

1741年7月19日、渡島大島・寛保岳の噴火に伴う津波が対岸を襲い、1,467人の命を奪った災害です。
1741年7月19日、現在の北海道渡島大島付近で寛保岳が大規模な噴火を起こしました。 噴火に伴う大津波は対岸を襲い、数メートルに及ぶ波が住民を襲撃しました。 記録によると1,467人が死亡し、家屋や漁船も甚大な被害を受けました。 寛保津波として歴史に名を残し、北海道における初期の大規模災害の一つとされています。 この事件は火山噴火と津波の複合危険性を示す教訓として研究対象となっています。
1741年 寛保 7月19日 渡島大島 寛保津波
1756年

プロイセン王フリードリヒ2世がザクセンに侵攻し、七年戦争が勃発。

1756年、プロイセン王フリードリヒ2世がザクセンへ侵攻し、七年戦争が始まりました。
1756年8月29日、プロイセン王フリードリヒ2世がザクセン選帝侯領への奇襲攻撃を仕掛けました。 これをきっかけに英仏露墺などヨーロッパ列強が巻き込まれる七年戦争が始まり、世界規模の戦乱へと拡大します。 戦争は陸上と海上の両面で激しい戦闘が続き、北米・インドでも戦線が展開されました。 七年戦争は初の真の世界大戦とも称されるほど広範囲に影響を及ぼし、各国の勢力図を大きく塗り替えました。 最終的に1763年のパリ条約で終結し、国際秩序は大きな転換期を迎えました。
1756年 プロイセン フリードリヒ2世 七年戦争