景行天皇元年7月11日

第12代天皇・景行天皇が即位。

71年7月11日、第12代天皇として景行天皇が即位しました。日本の古代史における重要な転換点です。
景行天皇は日本書紀に記される第12代天皇であり、その即位は71年7月11日と伝えられています。 即位に関する詳細は史書において伝説的要素が強く、神話と史実の境界が曖昧です。 景行天皇の治世については文献が限られており、具体的な施策や事績は残されていません。 しかし、後世の皇室制度の基盤を築いたとされ、天皇家の連続性を象徴しています。 日本の古代国家形成期を理解する上で欠かせない人物とされています。
71年 7月11日 景行天皇
79年

イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火し、火砕流や泥流でポンペイ・ヘルクラネウムが埋没。

79年8月24日、イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火し、ポンペイやヘルクラネウムが火砕流で埋没しました。
紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が突如大噴火を起こしました。 大量の火山灰と火砕流が周辺都市を襲い、古代ローマの都市ポンペイとヘルクラネウムはほぼ一瞬にして深い灰に埋没しました。 数千人の住民が避難できず、遺体や建造物はそのまま当時の姿で保存されました。 考古学的調査により、これらの都市は当時の都市生活や建築、彫刻が鮮明に蘇る「時の凍結」として知られています。 この出来事は自然の驚異と災害の厳しさを今に伝える、人類史上有名な火山災害の一つです。
79年 ヴェスヴィオ火山 大噴火 火砕流 ポンペイ ヘルクラネウム
410年

ローマ略奪 (410年): アラリック1世率いる西ゴート族がローマを陥落させ、3日間にわたる略奪を開始。

410年8月24日、西ゴート族の指導者アラリック1世がローマを陥落させ、3日間にわたり略奪を行いました。
410年8月24日、西ゴート族の王アラリック1世率いる軍勢がローマ市内に侵入し、略奪を開始しました。 ローマ陥落は西ローマ帝国の衰退を象徴する出来事とされ、中世暗黒時代の幕開けと位置付けられます。 市民は恐慌状態に陥り、教会や公共施設までも略奪と破壊の対象となりました。 略奪は3日間にわたり続き、貴重な芸術品や書物も失われました。 この事件は後世の歴史家に大きな衝撃を与え、ローマの栄光の終焉として語り継がれています。
410年 ローマ略奪 (410年) アラリック1世 西ゴート族 ローマ
斉明天皇7年7月24日

斉明天皇崩御により中大兄皇子(天智天皇)が天皇を称制。

661年8月24日、斉明天皇が崩御し、中大兄皇子(後の天智天皇)が摂政として政務を執り始めました。
661年8月24日、在位中の斉明天皇が薨去しました。 斉明天皇は孝徳天皇の皇后であり、皇后としても再び即位した稀有な女性天皇でした。 崩御に伴い、皇子である中大兄皇子が摂政(実質的な天皇)として政務を担当しました。 これにより政治の実権は中大兄皇子に移り、大化の改新を推進する前段階の政局が進みました。 後に彼は天智天皇として即位し、日本古代国家の基礎を築きました。
661年 斉明天皇 7月24日 中大兄皇子(天智天皇)
天武天皇元年7月23日

大友皇子(弘文天皇)が自決し、壬申の乱が終結。

672年8月24日、大友皇子(弘文天皇)が自決し、天武天皇との皇位継承を巡る壬申の乱が終結しました。
672年8月24日、壬申の乱の敗北を悟った大友皇子(弘文天皇)が自決し、乱は終結しました。 壬申の乱は天智天皇の死後、皇位継承を巡って勃発した内乱で、互いの正統性が争われました。 天武天皇(大海人皇子)はこの勝利により即位し、律令国家の整備を本格化させました。 戦闘は各地で激しく繰り広げられ、多くの貴族や兵士が命を落としました。 この乱の勝敗は日本古代史の権力構造に大きな影響を与えました。
672年 天武天皇 7月23日 大友皇子(弘文天皇) 壬申の乱
文応元年7月16日

日蓮が前執権・北条時頼に『立正安国論』を献進。

1260年8月24日、僧・日蓮が鎌倉幕府の執権・北条時頼に『立正安国論』を献上しました。
1260年8月24日、日蓮は『立正安国論』を著し、鎌倉幕府の有力者である北条時頼に提出しました。 この文書では、国家の安寧には正しい仏法の実践が不可欠であると説かれています。 当時の社会不安や自然災害を背景に、日蓮は仏教の力で国を救う道を訴えました。 『立正安国論』は後の法華経の普及と日蓮宗の確立に大きな影響を与えました。 日蓮の大胆な行動は幕府に警戒され、一時期流罪の危機に瀕することになります。
1260年 文応 7月16日 日蓮 北条時頼 立正安国論
1572年

サン・バルテルミの虐殺。フランスで、カトリックのギーズ公アンリの兵が改革派の貴族や市民を大量虐殺。

1572年8月24日、フランスでカトリック勢力がプロテスタント派の貴族や市民を標的に大量虐殺を行いました。
1572年8月24日、フランスのパリで聖バルテルミの祝日に合わせ、カトリックのギーズ公アンリの命令でプロテスタント(ユグノー)の貴族や市民が襲撃されました。 虐殺は数日間続き、数千人ともいわれるユグノーが虐殺されました。 この事件は宗教戦争の最高潮を象徴し、ヨーロッパ各地に衝撃を与えました。 多くのプロテスタントが逃亡を余儀なくされ、以後のユグノー戦争へとつながっていきます。 フランス国内の宗教対立は長期化し、社会的混乱を深刻化させました。
1572年 サン・バルテルミの虐殺 カトリック ギーズ公アンリ 改革派
1662年

イングランドで統一令制定。国内の全ての聖職者と教師に聖公会祈祷書の承認を義務づける。

1662年8月24日、イングランドで統一令が制定され、聖公会祈祷書の採用が全聖職者に義務付けられました。
1662年8月24日、イングランド国会は統一令(Act of Uniformity)を制定しました。 これにより、全ての聖職者と学校教師は聖公会祈祷書(Book of Common Prayer)を用いることが法的に義務付けられました。 統一令は清教徒(ピューリタン)らを聖職から排除し、約2千人の聖職者が辞任または追放される結果となりました。 宗教的統一を図る一方で、信教の自由を求める動きに対する弾圧ともなりました。 この法令はイングランド国教会の立場を強化し、その後の宗教政策にも大きな影響を与えました。
1662年 統一令 聖公会祈祷書
1814年

米英戦争: ブラーデンスバーグの戦い。勝利した英軍はワシントンD.C.を占領し大統領府(現ホワイトハウス)を焼き討ちにする。

1814年8月24日、米英戦争中のブラーデンスバーグの戦いで英軍がワシントンD.C.を占領し、大統領府を焼き討ちにしました。
1814年8月24日、米英戦争の一幕であるブラーデンスバーグの戦いが発生しました。 軍事的に敗れた米軍は後退し、英軍はそのまま首都ワシントンD.C.に侵入しました。 英軍は大統領府(現ホワイトハウス)や国会議事堂などの主要建造物を放火し、多大な被害を与えました。 首都陥落はアメリカに衝撃を与え、戦意高揚と国民的団結を促す契機ともなりました。 その後、米軍は反撃に転じ、戦争は国境地域を中心に激化していきました。
1814年 米英戦争 ブラーデンスバーグの戦い ワシントンD.C. ホワイトハウス 焼き討ち
1853年

アメリカ・ニューヨーク州のレストランのシェフ・ジョージ・クラムが、フライドポテトが厚すぎるという客の要望に対し、薄くスライスしたポテトを提供。ポテトチップスの起源とされる。

1853年8月24日、ニューヨーク州のレストランでジョージ・クラムが客の要望に応えて薄くスライスした揚げ芋を提供し、ポテトチップスの原型を生み出しました。
1853年8月24日、アメリカ・ニューヨーク州サラトガスプリングスのレストランでシェフのジョージ・クラムが客から「フライドポテトが厚すぎる」との不満を受けました。 そこでクラムはポテトを極薄にスライスし、揚げて塩を振った料理を提供しました。 薄くカリカリに揚げられたポテトは客に好評を博し、やがて「ポテトチップス」と呼ばれるようになりました。 この出来事はスナック文化の発展につながり、現在では世界中で愛されるおやつの原点とされています。 その後、工業的な製造方法が確立され、大量生産・流通が可能になりました。
1853年 ニューヨーク州 ジョージ・クラム ポテトチップス
明治4年7月9日

刑部省・弾正台を廃止し司法省を設置。

明治4年、政府は刑部省と弾正台を廃止し、司法省を設置しました。 これにより、法と裁判の近代化が一歩進みました。
江戸時代までの司法行政を担っていた刑部省と弾正台は、明治維新後の制度改革で廃止されました。 1871年(明治4年)7月9日、新たに司法省が設置され、裁判所の運営や法秩序の維持を一元的に管理する役割を担いました。 これにより、旧来の官職体系から脱却し、西洋法を取り入れた近代的な司法制度の基盤を形成。 司法省は法律の整備や裁判官の任命、裁判制度の統括などを行い、法の支配を推進しました。 この改革は、身分や地域による司法のばらつきを解消し、全国的な法の均一化を目指した重要な一歩となりました。 新設された司法省は、後の大審院(最高裁判所)へと発展し、日本の裁判制度の中核を担う機関へと成長しました。
1871年 明治 7月9日 司法省
1875年

マシュー・ウェッブが、記録に残っている中では史上初めてドーバー海峡を泳いで渡る。

マシュー・ウェッブは史上初めてドーバー海峡を泳いで渡り、過酷な潮流と低水温を克服しました。 この偉業は水泳史に残る壮大な冒険として知られています。
マシュー・ウェッブ(1848–1883年)はイギリスの溺者救助員出身の水泳選手で、1875年にドーバー海峡横断に挑戦しました。 8月24日にイングランド南端ケント州コルフォード岬を出発し、安全のボートに付き添われながら泳ぎ続けました。 ドーバー海峡は潮流が速く、海水温が低いことで知られ、約34キロメートルの横断は極めて困難な挑戦でした。 ウェッブは低体温症や荒波に苦しみながらも、翌25日にフランス・カレー近郊に到達し泳ぎ切ることに成功。 この偉業は当時の新聞で大々的に報道され、水泳競技や遠泳の普及に大きな影響を与えました。 その後、ドーバー海峡横断は極めて名誉ある挑戦とみなされ、多くの水泳愛好家が追随しました。
1875年 マシュー・ウェッブ ドーバー海峡 泳いで渡る