1305年
イングランドによるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスが、ロンドンで処刑される。
イングランド支配に抵抗したスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスが処刑された歴史的事件です。
1305年8月23日、スコットランド独立戦争の指導者ウィリアム・ウォレスがロンドンのスミスフィールドで処刑されました。
ウォレスは1297年のスターリング橋の戦いで英軍を打ち破り、スコットランドの守護者として名を馳せました。
1305年に裏切りにより捕らえられ、有罪判決の後、極刑として絞首・内臓えぐり出し・四つ裂きの刑に処されました。
その壮絶な最期はスコットランドの抵抗の象徴となり、後の独立運動に大きな影響を与えました。
彼の勇敢さは後世に語り継がれ、映画「ブレイブハート」などを通じて国際的にも知られています。
1305年
イングランド
スコットランド
ウィリアム・ウォレス
1514年
チャルディラーンの戦い。124年間に及ぶオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの抗争が始まる。
1514年、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの長きにわたる抗争の火蓋を切るチャルディラーンの戦いが勃発しました。
1514年8月23日、アナトリア東部のチャルディラーン平原でオスマン帝国軍とサファヴィー朝軍が激突しました。
オスマン帝国側はスレイマン・シャー1世の指導下で近代的な火器部隊を活用し、対するサファヴィー朝は皇帝イスマーイール1世自ら先陣を切りました。
戦闘では銃火器を用いたオスマン軍が優位に立ち、サファヴィー軍は壊滅的被害を受けました。
この敗北によってサファヴィー朝はイラク南部やアゼルバイジャン方面への進出を制限され、両帝国の勢力均衡が形成されました。
また、宗教的背景を伴う衝突は今後の中東情勢にも大きな影響を及ぼしました。
1514年
チャルディラーンの戦い
オスマン帝国
サファヴィー朝
1866年
普墺戦争:プラハ条約締結により普墺戦争が終結。
普墺戦争がプラハ条約の締結により終結し、ドイツ統一への道筋が変わりました。
1866年8月23日、普墺戦争はプラハ条約の調印により正式に終結しました。
同戦争はプロイセン王国とオーストリア帝国がドイツ連邦の主導権を争ったもので、7月3日のケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが決定的勝利を収めていました。
条約によりオーストリアは北ドイツ連邦への干渉権を放棄し、イタリア王国へのベネチア割譲を承認しました。
これによりドイツ統一はプロイセン主導で進むこととなり、後のドイツ帝国成立への布石となりました。
プラハ条約はヨーロッパの勢力均衡を大きく変えた重要な国際条約です。
1866年
普墺戦争
プラハ条約
1914年
第一次世界大戦:日本(大日本帝国)がドイツ帝国に宣戦布告。
第一次世界大戦において大日本帝国がドイツ帝国に宣戦布告し、参戦しました。
1914年8月23日、日本は日英同盟に基づく支援を行うため、ドイツ帝国に対して正式に宣戦布告しました。
これにより日本は第一次世界大戦に参戦し、山東省・青島のドイツ海軍基地攻略などに関与しました。
参戦は国際的地位の向上をもたらす一方で、戦費の増大や国内産業への影響も招きました。
1914年
第一次世界大戦
日本
大日本帝国
ドイツ帝国
宣戦布告
1939年
第二次世界大戦:独ソ不可侵条約締結。
ナチス・ドイツとソ連の間で不可侵条約が締結されました。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)が署名されました。
ドイツ外相リッベントロップとソ連外相モロトフがモスクワで調印し、公には軍事衝突回避を謳いながら、秘密議定書で東ヨーロッパの勢力圏を画定しました。
この条約は第二次世界大戦の勃発を加速させる要因となりました。
1939年
第二次世界大戦
独ソ不可侵条約
1944年
第二次世界大戦:ルーマニア革命。ルーマニア王ミハイ1世が同国の指導者イオン・アントネスクを解任、ルーマニアが枢軸国から離脱。
ルーマニア王ミハイ1世がイオン・アントネスク政権を解任し、枢軸国から離脱しました。
1944年8月23日、ルーマニア王ミハイ1世は首相イオン・アントネスクを解任し、ドイツ軍支配下の同国が連合国側に寝返る決断を下しました。
このルーマニア革命により、ルーマニアは枢軸国から離脱し、ソ連軍の進攻を許容する形で戦局に大きな転換点をもたらしました。
ミハイ1世の英断は東欧における戦後体制の構築にも影響を及ぼしました。
1944年
ルーマニア革命
ルーマニア
ミハイ1世
イオン・アントネスク
枢軸国
1945年
第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令。(シベリア抑留)
スターリンが日本軍捕虜のソ連国内移送(シベリア抑留)を指令しました。
1945年8月23日、ソ連は日本降伏後の捕虜処遇を巡り、ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜をシベリア各地の収容所へ移送するよう命じました。
過酷な労働条件と厳しい気候下で、多くの捕虜が強制労働に従事し、シベリア抑留と呼ばれる長期抑留が始まりました。
この措置は戦後の国際人道法や日ソ関係にも深い影響を残しています。
1945年
ソ連対日参戦
ソビエト連邦
ヨシフ・スターリン
日本軍
捕虜
シベリア抑留
1956年
千代田区公会堂でニューギニア及びボルネオ方面戦没者追悼式が行われた(ニューギニアの戦い、ボルネオの戦いを参照)。
1956年8月23日、千代田区公会堂でニューギニアおよびボルネオ方面の戦没者追悼式が行われた。
太平洋戦争中の激戦地であったニューギニアとボルネオ戦の戦没者を慰霊。
1956年8月23日、東京・千代田区公会堂にて追悼式を開催。
遺族や元兵士、政府関係者らが参列し、黙祷や献花を行った。
式典では当時の戦況報告や生存者の証言も紹介された。
戦後10年余りが経過した時期にあらためて犠牲者を追悼する機会となった。
日本の戦争記憶と平和への願いを象徴する行事となった。
1956年
ニューギニアの戦い
ボルネオの戦い
1958年
中国人民解放軍が中華民国の金門島に対し砲撃を開始し、金門砲戦が始まる。
1958年8月23日、中国人民解放軍が金門島への砲撃を開始し、金門砲戦(第二次台湾海峡危機)が勃発した。
冷戦下、中華人民共和国軍が中華民国支配下の金門島を集中砲撃。
1958年8月23日午前、中国人民解放軍は数千発の砲弾を発射。
国民党軍は防衛反撃を行い、多数の死傷者が発生。
米国は台湾への防衛義務を表明し、海峡の軍事的緊張が高まった。
砲撃は数カ月間続き、最終的に停戦協定で一時的に緊張が緩和。
台湾海峡における米中対立の一端を象徴する事件となった。
1958年
中国人民解放軍
中華民国
金門島
金門砲戦
1971年
実尾島事件: 韓国が実尾島(シルミド)で訓練を行っていた特殊部隊員が反乱を起こす。
1971年8月23日、韓国の実尾島(シルミド)で訓練中の特殊部隊員が反乱を起こした実尾島事件が発生した。
韓国軍による北朝鮮ゲリラ討伐部隊として結成された実尾島部隊の兵士約200名が訓練基地で反乱。
彼らは待遇改善や除隊を要求し、武器を持って施設を占拠。
韓国政府は軍と警察を投入し、数日間の交渉後に部隊を制圧。
反乱の背景には厳しい軍規律や人権抑圧があったとされる。
事件は軍内部の問題を浮き彫りにし、後の制度改革の契機となった。
ドキュメンタリーや映画化もされ、歴史的事件として語り継がれている。
1971年
実尾島事件
韓国
実尾島
2011年
40年以上続いたリビアの内戦で反体制派がカダフィ大佐の拠点を攻略し、カダフィ政権が事実上崩壊した。
2011年、リビア内戦で反体制派がカダフィ大佐の拠点を制圧し、政権が事実上崩壊した。
2011年のリビア内戦における重要な転機。
40年以上にわたって続いたカダフィ体制に対し、反体制派・国民軍がトリポリ南部の強固な拠点を攻略。
首都トリポリ付近への進軍が加速し、長年続いた政権の瓦解を決定づけた。
NATOの支援を受けた反体制派は制空権を確保し、カダフィ政権は事実上崩壊した。
これによりカダフィは逃亡を余儀なくされ、同年10月に死亡が確認された。
リビアの新体制移行と中東諸国の民主化運動に大きな影響を与えた。
2011年
リビア
カダフィ