1059年
メルフィ条約締結: ローマ教皇ニコラウス2世がノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドをアプリア・カラブリア伯並びにシチリア伯に任命した。
1059年、ローマ教皇ニコラウス2世がメルフィ条約を締結し、ロベルト・イル・グイスカルドを南イタリアの伯に任命しました。
1059年8月23日、ローマ教皇ニコラウス2世は南イタリアで勢力を拡大していたノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドをアプリア・カラブリア伯およびシチリア伯に任命し、正式に封土を認めるメルフィ条約を締結しました。
この条約により、ノルマン人は教皇庁の承認を得て南イタリアでの地位を確立し、以後の南イタリア・シチリア征服の基礎を築きました。
教皇ニコラウス2世は、教皇権の強化とノルマン人による異端派からの防衛を目的として、この条約を利用しました。
一方、ロベルト・イル・グイスカルドはこの機会を利用して領地を拡大し、後のシチリア王国樹立への足掛かりを得ました。
ヨーロッパ中世史の中で、教皇と軍事勢力の結びつきを象徴する重要な出来事でした。
1059年
メルフィ条約
英語版
ローマ教皇
ニコラウス2世
ノルマン人
ロベルト・イル・グイスカルド
アプリア・カラブリア伯
英語版
シチリア伯
英語版
元和9年7月27日
徳川家光の将軍宣下が行われる。
徳川家光が正式に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府第3代将軍となりました。
1623年8月23日(元和9年7月27日)、徳川家光が正式に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府第3代将軍に就任しました。
家光は初代将軍徳川家康と2代将軍秀忠の孫にあたり、幼少期から幕政に関与しつつ育ちました。
将軍就任後、側用人制度の整備や武家諸法度の強化を推進し、幕府の統制力を一層高めました。
また参勤交代制度の確立により大名の統率を図り、幕藩体制の安定化を図りました。
彼の治世は「鎖国」政策の始まりとも結びつき、江戸時代中期の平和と繁栄の基礎を築きました。
1623年
元和
7月27日
徳川家光
将軍宣下
1793年
フランス革命:国民公会が国民皆兵制度を導入。
フランス革命期に国民皆兵制度が導入され、革命軍の人員動員力が飛躍的に高まりました。
1793年8月23日、フランス革命の国民公会は「国民皆兵(levée en masse)」を法制化し、18歳から25歳までの独身男性を軍役に徴集しました。
この制度により、国家が国民を直接動員し、従来の傭兵中心の編成から市民軍への転換が進みました。
多数の志願兵と徴用兵を得た革命政府は対オーストリア・プロイセン連合に対抗し、軍事力を飛躍的に強化しました。
国民皆兵は近代国家における国民意識の形成や国家総力戦の先駆けとも言われ、その後のヨーロッパ戦争に大きな影響を与えました。
この制度はナポレオン戦争期にも維持され、フランス軍の勝利に寄与しました。
1793年
フランス革命
国民公会
国民皆兵
1878年
竹橋事件: 東京・竹橋で近衛兵が反乱。
東京・竹橋の演習地で近衛兵が反乱を起こし鎮圧された事件です。
1878年8月23日、東京・竹橋御苑内の演習地で近衛歩兵連隊の一部が反乱を起こしました。
近衛兵は給与や待遇の改善を求めて蜂起し、皇居周辺で不穏な動きを見せました。
しかし鎮台や警視庁の部隊が動員され、反乱は早期に鎮圧されました。
多数の兵士が逮捕され、主導者には懲罰や除隊処分が科されました。
この事件は近代日本の軍隊制度や官民関係に影響を与えた一件とされています。
1878年
竹橋事件
竹橋
近衛兵
1914年
第一次世界大戦:日本(大日本帝国)がドイツ帝国に宣戦布告。
第一次世界大戦において大日本帝国がドイツ帝国に宣戦布告し、参戦しました。
1914年8月23日、日本は日英同盟に基づく支援を行うため、ドイツ帝国に対して正式に宣戦布告しました。
これにより日本は第一次世界大戦に参戦し、山東省・青島のドイツ海軍基地攻略などに関与しました。
参戦は国際的地位の向上をもたらす一方で、戦費の増大や国内産業への影響も招きました。
1914年
第一次世界大戦
日本
大日本帝国
ドイツ帝国
宣戦布告
1921年
イラク王国が創設され、ファイサル1世が初代イラク国王として即位。
イギリスの委任統治下にイラク王国が設立され、ファイサル1世が初代国王に即位しました。
第一次世界大戦後の中東再編の一環として、1921年8月23日にロンドン会議で創設が決定されたイラク王国が正式に発足しました。
イギリスの支援を受けたファイサル1世がバグダードで戴冠し、バアス党台頭前夜の比較的安定した統治を開始しました。
国境は旧オスマン帝国領を基に設定され、その後の中東政治に大きな影響を与えました。
1921年
イラク王国
ファイサル1世
1927年
サッコ・ヴァンゼッティ事件:アメリカで、強盗殺人の罪でイタリア移民のニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの死刑を執行。
アメリカでイタリア移民ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの死刑が執行されました。
イタリア出身の移民、サッコとヴァンゼッティは1920年にマサチューセッツ州で発生した強盗殺人事件の容疑で逮捕されました。
人種差別や政治的偏見の影響下での不当判決との批判が国内外で高まり、世界的な抗議運動が展開されました。
しかし1927年8月23日に死刑が執行され、不正義の象徴として後世に語り継がれています。
1927年
サッコ・ヴァンゼッティ事件
1939年
第二次世界大戦:独ソ不可侵条約締結。
ナチス・ドイツとソ連の間で不可侵条約が締結されました。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)が署名されました。
ドイツ外相リッベントロップとソ連外相モロトフがモスクワで調印し、公には軍事衝突回避を謳いながら、秘密議定書で東ヨーロッパの勢力圏を画定しました。
この条約は第二次世界大戦の勃発を加速させる要因となりました。
1939年
第二次世界大戦
独ソ不可侵条約
1944年
第二次世界大戦:ルーマニア革命。ルーマニア王ミハイ1世が同国の指導者イオン・アントネスクを解任、ルーマニアが枢軸国から離脱。
ルーマニア王ミハイ1世がイオン・アントネスク政権を解任し、枢軸国から離脱しました。
1944年8月23日、ルーマニア王ミハイ1世は首相イオン・アントネスクを解任し、ドイツ軍支配下の同国が連合国側に寝返る決断を下しました。
このルーマニア革命により、ルーマニアは枢軸国から離脱し、ソ連軍の進攻を許容する形で戦局に大きな転換点をもたらしました。
ミハイ1世の英断は東欧における戦後体制の構築にも影響を及ぼしました。
1944年
ルーマニア革命
ルーマニア
ミハイ1世
イオン・アントネスク
枢軸国
1944年
第二次世界大戦:日本で、学徒勤労令・女子挺身勤労令が公布・施行。
日本で学徒勤労令と女子挺身勤労令が公布・施行され、戦時動員が拡大しました。
1944年8月23日、日本政府は学生や女性を労働力として動員する学徒勤労令と女子挺身勤労令を公布・施行しました。
学徒勤労令では大学生や高校生、専門学校生らが工場や農村に動員され、女子挺身勤労令では若年女性が軍需工場などでの就労を義務付けられました。
戦況激化に伴い国内労働力不足を補うための政策であり、国民生活に大きな影響を与えました。
学徒勤労令
女子挺身勤労令
1945年
第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令。(シベリア抑留)
スターリンが日本軍捕虜のソ連国内移送(シベリア抑留)を指令しました。
1945年8月23日、ソ連は日本降伏後の捕虜処遇を巡り、ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜をシベリア各地の収容所へ移送するよう命じました。
過酷な労働条件と厳しい気候下で、多くの捕虜が強制労働に従事し、シベリア抑留と呼ばれる長期抑留が始まりました。
この措置は戦後の国際人道法や日ソ関係にも深い影響を残しています。
1945年
ソ連対日参戦
ソビエト連邦
ヨシフ・スターリン
日本軍
捕虜
シベリア抑留
1945年
内務省が「進駐軍を迎える国民の心得」を諭告。女性に対し外国軍に隙を見せてはならぬ等の指示。
1945年8月23日、内務省が進駐軍を迎える際の国民心得を発表し、特に女性に注意を促した。
第二次世界大戦終結後の日本では、連合国軍進駐への準備が進められていた。
1945年8月23日、内務省は「進駐軍を迎える国民の心得」を諭告。
指南には、特に女性が外国軍に対し警戒心を持ち、不用意に近づかないよう記されている。
この諭告は日本国内の治安維持と女性の安全確保を目的としていた。
地方の警察や役所を通じて各地に伝えられ、国民生活への影響は大きかった。
進駐軍との接触に対する政府の方針を示す典型的な文書といえる。
内務省