1059年

メルフィ条約締結: ローマ教皇ニコラウス2世がノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドをアプリア・カラブリア伯並びにシチリア伯に任命した。

1059年、ローマ教皇ニコラウス2世がメルフィ条約を締結し、ロベルト・イル・グイスカルドを南イタリアの伯に任命しました。
1059年8月23日、ローマ教皇ニコラウス2世は南イタリアで勢力を拡大していたノルマン人傭兵ロベルト・イル・グイスカルドをアプリア・カラブリア伯およびシチリア伯に任命し、正式に封土を認めるメルフィ条約を締結しました。 この条約により、ノルマン人は教皇庁の承認を得て南イタリアでの地位を確立し、以後の南イタリア・シチリア征服の基礎を築きました。 教皇ニコラウス2世は、教皇権の強化とノルマン人による異端派からの防衛を目的として、この条約を利用しました。 一方、ロベルト・イル・グイスカルドはこの機会を利用して領地を拡大し、後のシチリア王国樹立への足掛かりを得ました。 ヨーロッパ中世史の中で、教皇と軍事勢力の結びつきを象徴する重要な出来事でした。
1059年 メルフィ条約 英語版 ローマ教皇 ニコラウス2世 ノルマン人 ロベルト・イル・グイスカルド アプリア・カラブリア伯 英語版 シチリア伯 英語版
1305年

イングランドによるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスが、ロンドンで処刑される。

イングランド支配に抵抗したスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスが処刑された歴史的事件です。
1305年8月23日、スコットランド独立戦争の指導者ウィリアム・ウォレスがロンドンのスミスフィールドで処刑されました。 ウォレスは1297年のスターリング橋の戦いで英軍を打ち破り、スコットランドの守護者として名を馳せました。 1305年に裏切りにより捕らえられ、有罪判決の後、極刑として絞首・内臓えぐり出し・四つ裂きの刑に処されました。 その壮絶な最期はスコットランドの抵抗の象徴となり、後の独立運動に大きな影響を与えました。 彼の勇敢さは後世に語り継がれ、映画「ブレイブハート」などを通じて国際的にも知られています。
1305年 イングランド スコットランド ウィリアム・ウォレス
1514年

チャルディラーンの戦い。124年間に及ぶオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの抗争が始まる。

1514年、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの長きにわたる抗争の火蓋を切るチャルディラーンの戦いが勃発しました。
1514年8月23日、アナトリア東部のチャルディラーン平原でオスマン帝国軍とサファヴィー朝軍が激突しました。 オスマン帝国側はスレイマン・シャー1世の指導下で近代的な火器部隊を活用し、対するサファヴィー朝は皇帝イスマーイール1世自ら先陣を切りました。 戦闘では銃火器を用いたオスマン軍が優位に立ち、サファヴィー軍は壊滅的被害を受けました。 この敗北によってサファヴィー朝はイラク南部やアゼルバイジャン方面への進出を制限され、両帝国の勢力均衡が形成されました。 また、宗教的背景を伴う衝突は今後の中東情勢にも大きな影響を及ぼしました。
1514年 チャルディラーンの戦い オスマン帝国 サファヴィー朝
1614年

フローニンゲン大学が創立。

1614年、オランダのフローニンゲンに高等教育機関が創立され、後の名門大学となりました。
1614年8月23日、オランダ北部の都市フローニンゲンでフローニンゲン大学が設立されました。 創設はネーデルランド連邦共和国の政治家ヤン・ファン・オデンバーネフェルトらの支援を受けて実現し、ラテン語名である「Academia Groningana」の称号が与えられました。 当初は神学と法学を中心に開講され、後に医学、哲学、理学などの学部が加わりました。 近代以降、同大学はオランダ有数の研究大学として発展し、多くの著名学者や卒業生を輩出しています。 現在に至るまで国際的な研究・教育活動を行い、グローバルな学術拠点となっています。
1614年 フローニンゲン大学
元和9年7月27日

徳川家光の将軍宣下が行われる。

徳川家光が正式に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府第3代将軍となりました。
1623年8月23日(元和9年7月27日)、徳川家光が正式に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府第3代将軍に就任しました。 家光は初代将軍徳川家康と2代将軍秀忠の孫にあたり、幼少期から幕政に関与しつつ育ちました。 将軍就任後、側用人制度の整備や武家諸法度の強化を推進し、幕府の統制力を一層高めました。 また参勤交代制度の確立により大名の統率を図り、幕藩体制の安定化を図りました。 彼の治世は「鎖国」政策の始まりとも結びつき、江戸時代中期の平和と繁栄の基礎を築きました。
1623年 元和 7月27日 徳川家光 将軍宣下
1793年

フランス革命:国民公会が国民皆兵制度を導入。

フランス革命期に国民皆兵制度が導入され、革命軍の人員動員力が飛躍的に高まりました。
1793年8月23日、フランス革命の国民公会は「国民皆兵(levée en masse)」を法制化し、18歳から25歳までの独身男性を軍役に徴集しました。 この制度により、国家が国民を直接動員し、従来の傭兵中心の編成から市民軍への転換が進みました。 多数の志願兵と徴用兵を得た革命政府は対オーストリア・プロイセン連合に対抗し、軍事力を飛躍的に強化しました。 国民皆兵は近代国家における国民意識の形成や国家総力戦の先駆けとも言われ、その後のヨーロッパ戦争に大きな影響を与えました。 この制度はナポレオン戦争期にも維持され、フランス軍の勝利に寄与しました。
1793年 フランス革命 国民公会 国民皆兵
1856年

安政八戸沖地震発生。

青森県沖を震源とする大規模地震が発生し、沿岸地域に被害が出ました。
1856年8月23日(安政3年7月27日)未明、現在の青森県八戸沖を震源とする地震が発生しました。 沿岸部では家屋の倒壊や地割れが報告され、漁村を中心に人的・物的被害が出ました。 津波の発生については資料が限られているものの、全般的に沿岸への影響が懸念されました。 当時の記録は少ないものの、北東北の地震活動史を考えるうえで重要な出来事とされています。 この地震は、後の地震観測や防災対策の研究においても参照される歴史的資料となっています。
1856年 安政八戸沖地震
1866年

普墺戦争:プラハ条約締結により普墺戦争が終結。

普墺戦争がプラハ条約の締結により終結し、ドイツ統一への道筋が変わりました。
1866年8月23日、普墺戦争はプラハ条約の調印により正式に終結しました。 同戦争はプロイセン王国とオーストリア帝国がドイツ連邦の主導権を争ったもので、7月3日のケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが決定的勝利を収めていました。 条約によりオーストリアは北ドイツ連邦への干渉権を放棄し、イタリア王国へのベネチア割譲を承認しました。 これによりドイツ統一はプロイセン主導で進むこととなり、後のドイツ帝国成立への布石となりました。 プラハ条約はヨーロッパの勢力均衡を大きく変えた重要な国際条約です。
1866年 普墺戦争 プラハ条約
1878年

竹橋事件: 東京・竹橋で近衛兵が反乱。

東京・竹橋の演習地で近衛兵が反乱を起こし鎮圧された事件です。
1878年8月23日、東京・竹橋御苑内の演習地で近衛歩兵連隊の一部が反乱を起こしました。 近衛兵は給与や待遇の改善を求めて蜂起し、皇居周辺で不穏な動きを見せました。 しかし鎮台や警視庁の部隊が動員され、反乱は早期に鎮圧されました。 多数の兵士が逮捕され、主導者には懲罰や除隊処分が科されました。 この事件は近代日本の軍隊制度や官民関係に影響を与えた一件とされています。
1878年 竹橋事件 竹橋 近衛兵
1898年

日本鉄道磐城線・田端 岩沼間(現:JR常磐線)が全通。

日本鉄道の常磐線前身となる路線が全通し、東京~東北間の鉄道ネットワークが拡充しました。
1898年8月23日、日本鉄道が経営する磐城線の田端駅から岩沼駅間が開通し、現在のJR常磐線の一部として全線が貫通しました。 この全通により東京から東北地方南部への鉄道連絡が飛躍的に改善され、旅客輸送や物資輸送が円滑化しました。 当時は蒸気機関車による運行で、通勤・通学路線としてだけでなく、産業輸送路としても重要視されました。 地域経済は鉄道網の整備により活性化し、沿線各地の発展を後押ししました。 磐城線は後に常磐線と改称され、現在に至るまで東京湾沿いを結ぶ主要路線として利用されています。
1898年 日本鉄道 田端 岩沼 常磐線
1913年

コペンハーゲンで人魚姫の像が初公開。

コペンハーゲン港に設置された『人魚姫の像』が初めて公開されました。
デンマークの首都コペンハーゲン港に置かれた『人魚姫の像』は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話を題材に、彫刻家エドヴァルド・エリクセンが制作したブロンズ像です。 依頼主は実業家カール・ヤコブセンで、高さ約1.25メートルの小ぶりな像ですが、港を訪れる観光客に親しまれる名所となっています。 1913年8月23日の初公開以降、デンマークを代表する観光スポットとして世界中に知られるようになりました。
1913年 コペンハーゲン 人魚姫の像
1914年

第一次世界大戦:日本(大日本帝国)がドイツ帝国に宣戦布告。

第一次世界大戦において大日本帝国がドイツ帝国に宣戦布告し、参戦しました。
1914年8月23日、日本は日英同盟に基づく支援を行うため、ドイツ帝国に対して正式に宣戦布告しました。 これにより日本は第一次世界大戦に参戦し、山東省・青島のドイツ海軍基地攻略などに関与しました。 参戦は国際的地位の向上をもたらす一方で、戦費の増大や国内産業への影響も招きました。
1914年 第一次世界大戦 日本 大日本帝国 ドイツ帝国 宣戦布告