建久3年7月12日

源頼朝が征夷大将軍に就任する。

源頼朝が鎌倉幕府初代征夷大将軍に任ぜられ、武家政治の始まりとなった出来事。
建久3年7月12日(西暦1192年8月21日)、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられた。 これにより鎌倉幕府が成立し、武士による本格的な政権が誕生した。 征夷大将軍は「蝦夷を征伐する大将軍」の意味を持ち、武家棟梁の最高官職に位置付けられた。 以後、数百年にわたり武家政権が日本の中世を支配する基盤が築かれた。 朝廷と武家の権力構造が大きく転換し、日本史における中世の幕開けを象徴する出来事である。
1192年 建久 7月12日 源頼朝 征夷大将軍
1770年

ジェームズ・クックがオーストラリア東部に対するイギリス領有権を正式に主張。ニューサウスウェールズと命名。

ジェームズ・クックがオーストラリア東岸をイギリス領として主張し、『ニューサウスウェールズ』と命名した。
1770年8月21日、キャプテン・クック率いるエンデバー号がオーストラリア東岸に到着した。 クックはブラフポイントで領有権を宣言し、この地を『ニューサウスウェールズ』と名付けた。 この宣言により当該地域はイギリス帝国の植民地となり、後の植民地開拓の端緒を開いた。 先住民との接触や自然観察を記録し、その後のオーストラリアの歴史や学術研究に大きく影響を与えた。 植民地化の過程は先住民社会に深刻な影響を及ぼし、歴史的にも論争と学術的考察の対象となっている。
1770年 ジェームズ・クック オーストラリア イギリス ニューサウスウェールズ
1772年

クーデターを起こし貴族らから権限を奪還したスウェーデン王グスタフ3世が新憲法を制定。スウェーデンを弱体化させた自由の時代が終結。

スウェーデン王グスタフ3世がクーデターを起こし、貴族政治を終結させ新憲法を制定した。
1772年8月21日、グスタフ3世は武力を用いた無血クーデターを実行し議会を一時解散した。 彼は貴族の特権を制限する新憲法を公布し、「自由の時代」と呼ばれる貴族主導体制を終焉させた。 新憲法は行政・司法・立法の権力分立を一定程度定めつつ、王権優位の体制を確立した。 このクーデターはスウェーデンの君主権を強化し、近代国家形成の道を開く重要な転機となった。 以後の政治構造に大きな影響を与え、ヨーロッパの立憲君主制論議にも一石を投じた。
1772年 スウェーデン グスタフ3世 自由の時代
1810年

スウェーデン議会がフランスの軍人ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットをスウェーデン王太子に選出。

スウェーデン議会がナポレオン戦争の英雄ベルナドットを王太子に選出し、後の王位継承を決定した。
1810年8月21日、スウェーデン議会は王位継承の解決策としてジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット元帥を王太子に指名した。 ベルナドットはのちにカール14世ヨハンとして即位し、スウェーデン王室の一門を築いた。 彼の選出はフランスの影響力を背景にした政治判断であり、国内の安定を図る狙いがあった。 ベルナドット家の成立はスウェーデン王室史において異例の経緯を持ち、現在も君主家として続いている。 この出来事はスウェーデンの近代的王政と国際政治のダイナミクスに大きな転機をもたらした。
1810年 ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット
1831年

米バージニア州サウサンプトン郡で、ナット・ターナー率いる奴隷の反乱が勃発。50人以上の白人が殺害される(ナット・ターナーの反乱)。

ナット・ターナー率いる黒人奴隷の反乱がバージニア州で発生し、多数の白人農場主らが殺害された。
1831年8月21日、バージニア州サウサンプトン郡で奴隷ナット・ターナーが指導する反乱が勃発した。 反乱軍はプランテーションを襲撃し、50人以上の白人を殺害して一時的に地域を制圧した。 この事件は南部社会に衝撃を与え、奴隷制維持派による取り締まり強化を招いた。 ナット・ターナーは後に逮捕・処刑されたが、彼の行動は奴隷制反対運動の象徴として語り継がれている。 反乱後、法整備が進み南部の黒人監視体制が一層厳格化された。
1831年 バージニア州 サウサンプトン郡 ナット・ターナー ナット・ターナーの反乱 英語版
安政3年7月21日

アメリカ合衆国初代駐日領事タウンゼント・ハリスが下田港に到着。

米国初代駐日領事タウンゼント・ハリスが下田港に到着し、日米外交が本格化した。
安政3年7月21日(1856年8月21日)、タウンゼント・ハリスが米国初の公使級領事として下田港に着任した。 彼は通商や領事裁判権などを含む条約交渉を日本側と行い、日米和親条約の履行を監督した。 ハリスの活動は幕末の開国外交に大きく寄与し、翌年の修好通商条約締結へ繋がった。 来航は国内で尊王攘夷運動を激化させ、攘夷派と開国派の対立を深刻化させる契機となった。 タウンゼント・ハリスは日本の近代化と国際関係構築に重要な役割を果たした。
1856年 安政 7月21日 アメリカ合衆国 領事 タウンゼント・ハリス 下田港
1862年

ウィーン市営公園が開園。

ウィーン市営の公園が開園し、都市住民に憩いの場を提供した。
1862年8月21日、オーストリア・ウィーンにて市営公園が正式に開園した。 園内には散策路や樹木、装飾的な建築物が配され、市民の憩いと文化活動の場として設計された。 急速な都市化に対応し、自然と触れ合える公共空間を提供する欧州における先駆的取り組みだった。 開園後は音楽演奏会や野外イベントの会場としても利用され、都市文化の発展に寄与した。 その後、他都市への公園整備のモデルケースとなり、都市計画に影響を与えた。
1862年 ウィーン市営公園 英語版
1876年

第2次府県統合。山形県・宮城県・福島県・群馬県・栃木県・埼玉県・長野県・岐阜県・静岡県・京都府・兵庫県・福岡県・大分県がほぼ現在の形になる。

明治政府による第2次府県統合が実施され、現在に近い行政区画が確立した。
1876年8月21日、明治政府は第2次府県統合を実施し、13の県を再編・統合した。 山形・宮城・福島・群馬・栃木・埼玉・長野・岐阜・静岡・京都・兵庫・福岡・大分の行政区画が整備された。 混在する地方行政区分の整理により、効率的な統治と財政運営を目指した施策であった。 統合後の境界はその後の県境の基盤となり、現行の都道府県制度の形成に大きく寄与した。 この再編は近代日本における地方行政の近代化を象徴する出来事である。
1876年 山形県 宮城県 福島県 群馬県 栃木県 埼玉県 長野県 岐阜県 静岡県 京都府 兵庫県 福岡県 大分県
1877年

上野公園で第1回内国勧業博覧会開催。

上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催され、産業近代化の契機となった。
1877年8月21日、上野公園にて第1回内国勧業博覧会が開幕した。 明治政府は国内産業の振興を目的に、織物・工芸・農産品などを多数展示した。 西洋の博覧会技術を取り入れた展示施設や演出が来場者の注目を集めた。 この博覧会は日本の産業近代化を促進し、技術導入と生産力向上に寄与した。 以後の国際博覧会開催の先駆けとなり、日本の技術水準を世界に示す場となった。
1877年 上野公園 第1回内国勧業博覧会
1878年

アメリカ法曹協会設立。

アメリカ法曹協会が設立され、米国法曹界の統一的組織が誕生した。
1878年8月21日、ワシントンD.C.にてアメリカ法曹協会(ABA: American Bar Association)が設立された。 ABAは弁護士の職業倫理や資格基準の統一、法制度の改善を目的に設立された全国組織である。 数多くの州弁護士会を傘下に持ち、米国内外で法曹専門職の基準とリーダーシップを示す役割を担った。 法律教育や司法制度改革、司法の独立性擁護など多岐にわたる活動を展開した。 設立以降、ABAは法曹界における主要な影響力団体として現在に至るまで存在感を維持している。
1878年 アメリカ法曹協会
1879年

アイルランド・クノックで聖母マリアが人々の前に現れる。

アイルランド西部のクノック村で、聖母マリアの出現が報告された宗教的現象。巡礼地として発展する契機となった。
1879年8月21日、アイルランド西部のクノック村で聖母マリアをはじめとする幻影が教会の壁に現れたと多数の村民が証言しました。現地教会は目撃証言を基に調査を実施し、奇跡的現象として認定しました。その後、現場には礼拝堂が建立され、Knock Shrineと呼ばれる巡礼地が形成されました。20世紀を通じて世界中から多くの信者が訪れ、カトリック信仰の重要な聖地の一つとなりました。現在でも毎年数万人が訪れる宗教的・文化的名所として知られています。
1879年 アイルランド クノック 聖母マリア
1898年

共和演説事件。尾崎行雄文相が帝国教育会で行なった演説の一節、「日本に共和政治があると仮定すれば、おそらく三井、三菱は大統領候補者となるだろう」が不敬として問題になる。

帝国教育会での尾崎行雄文相の演説が問題視され、言論統制のあり方が問われた事件。
1898年8月21日、文部大臣の尾崎行雄が帝国教育会で行った演説の中で「日本に共和政治があると仮定すれば、おそらく三井、三菱は大統領候補者となるだろう」と発言したことが不敬とされ、新聞や議会で問題となりました。この発言は天皇制を揶揄したものと受け止められ、政府は直ちに尾崎を批判し、言論統制の強化につながりました。自由主義陣営からは表現の自由をめぐる議論が巻き起こり、政治家や知識人の間で国民主権や言論のあり方が改めて問われる契機となりました。事件後、尾崎は自身の立場を守りつつも、立憲政治の重要性を訴え続けました。この一件は明治時代の言論弾圧を象徴する出来事として歴史に刻まれています。
1898年 共和演説事件 尾崎行雄 文相 共和政治 三井 三菱 大統領