636年

ヤルムークの戦い。ハーリド・イブン=アル=ワリードに率いられたアラブ軍が東ローマ帝国を破る。

7世紀、イスラム軍が東ローマ帝国を大敗させた決定的な戦い。ハーリドの指揮下でアラブ軍が勝利を収めた。
ヤルムークの戦いは636年8月20日にシリア南部のヤルムーク川付近で行われた。東ローマ帝国軍は皇帝ヘラクレイオスの命を受けた将軍ベリアとローマクスらが率いていた。一方、イスラム軍はハーリド・イブン=アル=ワリードの卓越した機動戦術と騎兵隊によって組織されていた。戦闘は6日間続き、最後は色あせを見せたローマ軍が総崩れとなった。この勝利によりイスラム帝国はシリアを手中に収め、東ローマ帝国の中東支配は大きく揺らいだ。ムスリム勢力の地中海沿岸への進出が加速し、東ローマ帝国の勢力は縮小していった。
636年 ヤルムークの戦い ハーリド・イブン=アル=ワリード アラブ 東ローマ帝国
弘文天皇元年/天武天皇元年7月22日

壬申の乱: 瀬田川の戦い。大海人皇子軍と大友皇子の近江朝廷軍が瀬田川で戦闘。

壬申の乱の決定的戦闘の一つ。大海人皇子軍と大友皇子軍が瀬田川で激突した。
壬申の乱は672年に起こった皇位継承を巡る内乱である。7月22日の瀬田川の戦いでは京から西国に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子の近江朝廷軍と激突した。大津あたりの瀬田川で行われたこの戦いは両軍の主力がぶつかり合う激戦となった。大海人皇子軍は弓矢や白兵戦を駆使して優勢を保ち、河川を活かした待ち伏せ戦術を採用した。戦闘の結果、大友皇子軍は敗北し、壬申の乱は大海人皇子側の勝利へ傾いた。これにより大海人皇子は天武天皇として即位し、日本の政治体制は大きく変革した。
672年 7月22日 壬申の乱 大海人皇子 大友皇子
917年

アケロオスの戦い、ブルガリア皇帝シメオン1世が東ローマ帝国を破る。

917年、ブルガリア皇帝シメオン1世が東ローマ軍を撃破した歴史的会戦。バルカン半島の勢力図を一変させた。
アケロオスの戦いは917年8月20日にバルカン半島で起こり、ブルガリアのシメオン1世が東ローマ帝国軍を大破した。シメオン1世は騎馬隊を中心とした機動戦術で帝国軍を圧倒し、皇帝コンスタンティノス7世の軍勢に大打撃を与えた。その結果、ブルガリアはバルカン全域での覇権を確立し、東ローマ帝国は数十年にわたる衰退期に入った。この勝利はシメオン1世を「大公」としての地位を確立させ、バルカン地域の勢力図を大きく書き換えた。
917年 アケロオスの戦い シメオン1世 東ローマ帝国
1794年

北西インディアン戦争: フォールン・ティンバーズの戦い。

北西インディアン戦争の転機となった決定的な戦闘。アメリカ建国期のインディアン戦争。
フォールン・ティンバーズの戦いは1794年8月20日にオハイオ準州で行われ、アメリカ合衆国軍がインディアン連合軍を破った。将軍アンソニー・ウェインの指揮する米軍は組織的な訓練と補給線の確保により優位に立った。戦場は倒木が散在する森であったため、戦闘は激しい肉弾戦となった。敗北したインディアン連合はイロコイ連邦などの支援を失い、英軍拠点からの支援も断たれた。結果、米国西部への入植がさらに推進され、先住民族の勢力圏は縮小した。
1794年 北西インディアン戦争 フォールン・ティンバーズの戦い
元治元年7月19日

禁門の変が起こる。

尊皇攘夷派と幕府軍が京都で衝突した武力衝突事件。
禁門の変は1864年8月20日(元治元年7月19日)に京都で起こった尊皇攘夷派の長州藩士と幕府・会津藩連合軍の衝突である。朝敵とされた長州藩は京都御所の蛤御門を抜け出し、反幕府勢力の拠点を攻撃した。幕府側は砲撃や鉄砲隊を展開し、長州軍を京都市内から追い落とした。激戦の末、長州藩は大きな損害を被り、攘夷運動は一時的に後退した。結果として坂本龍馬らの仲介が進み、後に薩長同盟への流れを生む一因となった。
1864年 元治 7月19日 禁門の変
1866年

アメリカ大統領アンドリュー・ジョンソンが南北戦争の終結を正式に宣言。

南北戦争終結を公式宣言したアンドリュー・ジョンソン大統領の政令。
1866年8月20日、アメリカ大統領アンドリュー・ジョンソンは南北戦争の正式な終結を宣言した。1861年から続いた国を二分する大規模内戦は実質的に1865年に終結していたが、公式な終戦宣言は遅れて発せられた。ジョンソンの宣言は南部諸州の復興や元兵士への恩赦政策にも影響を与えた。これによりレコンストラクション(復興時代)が本格化し、元奴隷の社会的地位向上や南部再建が進められることとなった。また、連邦政府の権限強化と州権論争の火種も残す結果となった。
1866年 アメリカ大統領 アンドリュー・ジョンソン 南北戦争
1914年

第一次世界大戦: ドイツ軍がブリュッセルを占領。

第一次世界大戦でドイツ軍がベルギーの首都ブリュッセルを占領した。
1914年8月20日、第一次世界大戦中の西部戦線でドイツ軍がベルギーの首都ブリュッセルを制圧しました。 この占領により、ベルギーはドイツの軍政下に置かれ、市民生活は厳しい統制を受けました。 ドイツ軍は主要な行政機関を掌握し、経済資源を戦争遂行に動員しました。 占領は戦況に大きな影響を与え、西部戦線の情勢を反映する重要な出来事となりました。 さらに、占領政策は国際的にもベルギーの中立侵害として非難を浴び、戦争序盤の国際世論に影響を与えました。
1914年 第一次世界大戦 ドイツ軍 ブリュッセル
1944年

第二次世界大戦: ヤッシー=キシナウ攻勢が始まる。

ソ連軍が大規模な反攻を展開し、バルカン半島方面の戦局を大きく動かした作戦です。
1944年8月20日、ソ連軍はヤッシー=キシナウ攻勢を開始しました。 ソ連軍は約30万人の兵力を投入してルーマニア方面への突破を試みました。 ドイツ・ルーマニア連合軍は激しい抵抗を見せましたが、最終的に退却を余儀なくされました。 この攻勢によってソ連はバルカン半島への橋頭堡を確保し、東部戦線の戦局を有利にしました。 戦後、この作戦は機甲戦の典型例として軍事史上も重要視されています。
1944年 第二次世界大戦 ヤッシー=キシナウ攻勢
1945年

第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 真岡郵便電信局事件。ソ連軍が侵攻した樺太・真岡で女性電話交換手9名が自決。

ソ連軍の侵攻を受けた樺太真岡で、通信局に勤務していた女性電話交換手9名が自決した悲劇的事件です。
1945年8月20日、ソ連軍が樺太南部の真岡地区に侵攻しました。 真岡郵便電信局で勤務していた女性電話交換手9名は、戦闘下の混乱の中で身の安全を守るため自決しました。 彼女たちは通信維持の任務を遂行していましたが、過酷な状況の中で苦渋の選択を迫られました。 この事件は終戦間近の悲劇として国内外に衝撃を与えました。 戦後、当時の資料調査や証言収集が進められ、詳細が徐々に明らかになっています。
1945年 ソ連対日参戦 真岡郵便電信局事件 樺太 真岡
1968年

プラハの春: チェコ事件。ワルシャワ条約機構軍の兵士200,000名と5,000輛の戦車がチェコスロバキアに侵攻。

ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻し、プラハの春を武力で鎮圧しました。
1968年8月20日、ワルシャワ条約機構軍は約20万人の兵力と5000輛の戦車でチェコスロバキアに侵攻しました。 この軍事介入は自由化を求めたプラハの春運動を武力で鎮圧するものでした。 ソ連を中心とする連合軍は主要都市を迅速に制圧し、改革派政府を転覆させました。 侵攻により市民に多くの犠牲が出て国際的な非難が高まりました。 事件は冷戦時代の東西対立を象徴する出来事として語り継がれています。
1968年 プラハの春 チェコ事件 ワルシャワ条約機構 チェコスロバキア
1988年

イラン・イラク戦争の停戦が発効。

8年に及ぶイラン・イラク戦争が停戦し、双方の衝突が終結した日。
・1980年9月に勃発したイラン・イラク戦争は8年間続いた。 ・1988年7月に国連安全保障理事会決議598号にもとづく停戦交渉が進展。 ・同年8月20日に正式に停戦が発効し、戦闘行為が停止した。 ・停戦後も両国間の緊張は残り、正式な和平合意は成立していない。 ・戦争では数十万人の死傷者と甚大な経済被害が両国にもたらされた。
1988年 イラン・イラク戦争
1998年

同年8月7日のケニアとタンザニアの米大使館爆破事件への報復として、米海軍(ビル・クリントン大統領)が巡航ミサイルでスーダンとアフガニスタンのアルカーイダ関連施設を爆撃する。スーダンは薬品工場の誤認。

アフリカとアフガンのアルカーイダ関連施設に米海軍が巡航ミサイル攻撃を行った日。
・1998年8月7日のケニアとタンザニアの米大使館爆破テロへの報復として実施。 ・ビル・クリントン大統領の命令でトマホーク巡航ミサイルを発射した。 ・スーダンでは化学薬品工場が大量破壊兵器施設と誤認されて攻撃された。 ・アフガニスタンでは複数のアルカーイダ関連キャンプが標的となった。 ・この攻撃はグローバル・テロ対策の一環とされ、国際的な議論を呼んだ。
1998年 8月7日 ケニア タンザニア 米大使館爆破事件 米海軍 ビル・クリントン 大統領 巡航ミサイル スーダン アフガニスタン アルカーイダ