弘安4年7月27日

元寇: 弘安の役における鷹島沖海戦。 平戸島から太宰府目指して進軍する元軍と日本軍による海戦。

1281年8月19日、元寇・弘安の役の鷹島沖海戦で日本軍と元軍が海戦を繰り広げました。
弘安4年、二度目の元寇「弘安の役」で元軍は大軍を派遣して九州沿岸に迫りました。鷹島沖海戦では日本軍の御家人たちが急造の船団で迎撃し、元軍と激しい海戦を展開しました。両軍は白兵戦を交えながら長時間にわたり攻防を繰り広げ、一進一退の攻防となりました。この戦いは弘安の役における重要な前哨戦であり、日本の武士団結と沿岸防衛体制の強化につながりました。
1281年 弘安 7月27日 元寇 平戸島 太宰府
天正2年8月3日

越前一向一揆: 越前と近江の国境、木目峠を守護していた樋口直房が一揆勢力と独断で講和し退陣。越前国全域が一揆衆の勢力下になる。

1574年8月19日、越前一向一揆で樋口直房が一揆勢力と和議し退陣しました。
天正2年、越前国一帯で浄土真宗門徒が結集し一向一揆を形成しました。木目峠の守備を任された武将樋口直房は、一揆勢と直接対峙する中で講和交渉を独断で成立させました。これにより直房は守備を放棄し退陣し、越前全域が一揆衆の支配下に置かれます。一向一揆の権力掌握は地域支配の新たな形を示し、戦国時代の社会構造に影響を与えました。この出来事は武士と宗教集団の対立と妥協の象徴ともなっています。
1574年 天正 8月3日 越前一向一揆 越前 近江 木目峠 樋口直房
1792年

アメリカ独立戦争: ブルーリックスの戦い。

1792年 アメリカ独立戦争 ブルーリックスの戦い
1917年

第一次世界大戦: 第十一次イゾンツォの戦いが始まる。

第一次世界大戦中、イゾンツォ川沿いで第11次イゾンツォの戦いが開始された日です。
第11次イゾンツォの戦いは1917年8月19日に始まり、同年9月12日まで続きました。 イタリア軍はオーストリア=ハンガリー帝国軍に対し繰り返し攻勢を仕掛け、険しい山岳地帯で激しい戦闘が展開されました。 この戦いでイタリア軍は一部の有利な高地を占領することに成功し、戦線をわずかに前進させました。 しかし両軍ともに大きな損耗を被り、戦況は膠着状態に陥りました。 降雨による泥濘や補給線の伸びなど、過酷な戦場環境も両軍の戦闘能力に影響を与えました。 この戦いはイゾンツォ戦線一連の消耗戦の象徴的な一幕とされています。
1917年 第一次世界大戦 第十一次イゾンツォの戦い
1942年

第二次世界大戦: ディエップの戦い。

第二次世界大戦中、連合軍によるディエップの戦い(ディエップ・レイド)が行われた日です。
1942年8月19日、主にカナダ軍を中心とした連合国軍がフランス北西部のディエップに上陸作戦を敢行しました。 短期決戦を想定していたものの、ドイツ軍の強固な防御と準備不足により計画は失敗に終わりました。 連合軍は多数の戦死・負傷者を出し、多くの捕虜を発生させる大惨劇となりました。 この失敗は後のノルマンディー上陸作戦における教訓となり、対上陸防御の実態把握に寄与しました。 作戦の振り返りと改善は連合軍の戦略的成熟に重要な役割を果たしました。 カナダ軍の損失は突出しており、当時の連合軍史上最大規模の犠牲を伴いました。
1942年 第二次世界大戦 ディエップの戦い
1944年

第二次世界大戦・西部戦線: パリの解放が始まる。

第二次世界大戦・西部戦線でパリ解放作戦が開始された日です。
1944年8月19日、フランス国内のレジスタンス蜂起と連合軍の接近により、パリの解放ムーブメントが始まりました。 ドイツ軍は退却を開始したものの、市内では激しい市街戦が発生し、レジスタンスと討伐部隊が衝突しました。 数日後、ドゴール将軍率いるフランス軍は戦勝パレードとともに凱旋し、名所凱旋門前で盛大な解放を祝いました。 パリ解放は占領下のフランス国民にとって希望の象徴となり、戦後フランス第四共和制への歩みを促す契機となりました。 この出来事は第二次世界大戦勝利への流れを加速させる重要な一幕として歴史に刻まれています。
1944年 西部戦線 パリの解放
1945年

日本の降伏: 陸軍参謀次長河邊虎四郎中将ら日本国政府全権が木更津飛行場より伊江島を経由してフィリピンマニラ市庁に到着し、連合国軍南西太平洋方面軍総参謀長サザランド陸軍中将と降伏交渉を行う(翌日帰国)。

日本政府全権がフィリピン・マニラに到着し、連合国軍と降伏交渉を行った日です。
1945年8月19日、河辺虎四郎陸軍中将ら日本政府全権団は木更津飛行場を出発し、伊江島を経由してマニラに到着しました。 同日、フィリピン駐留連合国軍南西太平洋方面軍総参謀長サザランド中将との降伏交渉が開始されました。 この交渉は翌日の正式な降伏文書調印へ向けた重要な準備段階とされ、日本の戦後処理に大きな影響を与えました。 交渉では武装解除や占領計画、捕虜の扱いなど具体的な実務事項が協議されました。 マニラでの協議成功後、全権団は翌20日に日本へ帰国し、正式降伏受諾の手続きを進めました。
1945年 日本の降伏 参謀次長 河邊虎四郎 木更津飛行場 伊江島 フィリピン マニラ サザランド
1960年

冷戦・U 2撃墜事件: アメリカの偵察機U 2を操縦していたパイロットフランシス・ゲーリー・パワーズがソ連に対する諜報活動の廉により懲役3年、強制労働7年の判決を受ける。

米偵察機U-2を操縦していたパワーズが撃墜・捕虜となり、ソ連で懲役刑の判決を受けました。
1960年5月1日に撃墜されたアメリカのU-2偵察機をめぐる裁判が、8月19日にモスクワで結審しました。 パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズは諜報活動の容疑で告発され、懲役3年、強制労働7年の判決を受けました。 事件は冷戦期の米ソ対立を象徴し、国際政治の緊張を一段と高めました。 パワーズは後に保釈され、1962年に米ソ間で捕虜交換が行われました。 この出来事は軍事偵察と領空侵犯の問題を浮き彫りにし、同時に宇宙開発競争にも影響を与えました。
1960年 冷戦 U-2撃墜事件 偵察機 U-2 フランシス・ゲーリー・パワーズ ソ連 諜報
2003年

イラクの国連バグダード本部で爆破テロが発生。セルジオ・デメロ国連事務総長特別代表を含む24名が死亡、108名が負傷。

2003年8月19日、バグダードの国連本部で爆破テロが発生し、多数の死傷者が出ました。
イラク戦争後の混乱期にあたる2003年8月19日、バグダードの国連本部で爆破テロが発生し、24名が死亡、108名が負傷しました。 犠牲者にはセルジオ・デメロ国連事務総長特別代表らが含まれ、国連職員や関係者が重点的に標的となりました。 この攻撃は国連のイラク支援活動に大きな衝撃を与え、現地での運営体制や安全対策の見直しを迫りました。 背後の犯行グループや動機の全容は未解明のままですが、反政府勢力による組織的なテロの可能性が指摘されています。 事件後、国連は一時的に本部機能をバグダードから撤退させ、周辺国への拠点移転を実施しました。 以降、国際機関の現地派遣要員に対する警備強化が進められる契機ともなりました。
2003年 イラク 国連 バグダード 国連事務総長特別代表