紀元前43年
オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)がローマに入城。元老院に自らを執政官に選出するよう強要する。
紀元前43年8月19日、オクタウィアヌスがローマに入城し、元老院に自らを執政官に選出させた歴史的な一幕。
オクタウィアヌスは第二次三頭政治の混乱を収束させるために紀元前43年にローマに帰還しました。彼は軍の支持を背景に市街を進軍し、元老院を強硬に制圧しました。入城当日、元老院に対して自らを執政官に選出するよう命じ、政治的優位を確立します。この行動は共和政ローマの伝統を覆す前兆ともなり、彼の権力掌握を加速させました。後の初代皇帝アウグストゥスとしての礎を築いた重要なターニングポイントと言えます。彼の手腕はローマの政治構造を大きく変革し、帝政移行への布石となりました。
紀元前43年
アウグストゥス
元老院
執政官
天宝4載7月18日
唐の楊太真が玄宗皇帝の貴妃(楊貴妃)になる。
745年8月19日、楊太真が唐の玄宗皇帝に寵愛され貴妃・楊貴妃として宮廷に入った日です。
楊太真はもとより美貌と才知を兼ね備えた女性であり、玄宗皇帝の寵愛を一身に集めました。天宝4載7月18日に彼女は正式に貴妃に冊立され、宮廷文化や詩歌にも多大な影響を与えました。楊貴妃の華やかな存在感は唐代の宮廷芸術の象徴ともされ、その後の詩人たちによって数多く詠まれました。彼女の存在は玄宗皇帝の政治判断にも影響を及ぼし、大唐繁栄期の華やかさとともに物語られます。なお楊貴妃の悲劇的な最期は後世の伝説として語り継がれています。
745年
天宝
7月18日
唐
楊貴妃
天平勝宝元年7月2日
皇太子・阿倍内親王が即位し第46代天皇・孝謙天皇となる。
749年8月19日、皇太子阿倍内親王が第46代天皇・孝謙天皇として即位しました。
天平勝宝元年7月2日に即位した孝謙天皇は、日本史上数少ない女性天皇の一人です。彼女は政治的混乱期にあって皇族勢力と仏教界との調停を試みました。在位中には聖武天皇の遺志を継ぎ、国分寺建立や律令の整備を推進しました。また、後に称徳天皇として再び即位し、道鏡との関係も注目を集めました。孝謙天皇の治世は奈良時代の文化的発展と仏教隆盛を象徴する重要な時期となりました。
749年
天平勝宝
7月2日
孝謙天皇
嘉禄3年7月6日
延暦寺の訴えで、浄土宗などの専修念仏を禁止。
1227年8月19日、延暦寺の訴えにより浄土宗など専修念仏が禁止されました。
鎌倉時代の大寺院である延暦寺は、専修念仏を唱える浄土宗や浄土真宗の勢力拡大を危険視しました。嘉禄3年7月6日に朝廷は延暦寺の請願を受け入れ、専修念仏の修行を一時的に禁止します。この処置は宗教政策と寺院間の権力闘争を象徴する出来事です。禁止令は全国の僧侶や信徒に衝撃を与え、宗派間の摩擦を一層深めました。後に遵法制限は緩和されますが、当時の宗教勢力図に大きな影響を与えました。
1227年
嘉禄
7月6日
延暦寺
浄土宗
弘安7年7月7日
北条時宗の死去に伴い、長子の北条貞時が鎌倉幕府第9代執権に就任。
1284年8月19日、北条時宗の死去を受け長子の北条貞時が鎌倉幕府第9代執権に就任しました。
弘安7年7月7日に第8代執権北条時宗が死去し、鎌倉幕府に大きな政治的空白が生じました。その後を継いだ長子の北条貞時は、若年にもかかわらず執権として幕府の実務を遂行します。貞時政権は財政再建や御家人統制の強化を図り、幕府運営の安定化を目指しました。彼の統治は時宗の対外強硬策から内政重視への転換点とも言われます。また、貞時は後の執権政治において長期政権を築く基盤を確立しました。
1284年
弘安
7月7日
北条時宗
北条貞時
安政5年7月11日
日露修好通商条約締結。
1858年8月19日、日露修好通商条約が締結され、両国の外交関係が本格化しました。
安政5年7月11日に締結された日露修好通商条約は、日本とロシア帝国の初めての本格的な通商条約です。両国は領事裁判権の相互承認や関税自主権の制限などを取り決め、列強の中での日本の立場に影響を与えました。条約により長崎と函館にロシア領事館が設置され、貿易港としての機能が拡大します。これに伴い日本は欧米諸国との通商体系を構築し始め、近代化への道を歩み出しました。条約の成立は維新前夜の日本にとって国際社会への扉を開く歴史的転機となりました。
1858年
安政
7月11日
日露修好通商条約
1919年
アフガニスタンがイギリスから独立。
アフガニスタンがイギリスからの完全な独立を回復した日です。
第三次アフガン戦争の結果、アフガニスタン王国は国外での外交権を回復しました。
アマーンッラー・ハーン国王は独立後、近代化改革を推進し教育や法制度の整備に着手しました。
イギリスとの英阿条約締結により、アフガニスタンの主権が正式に承認されました。
この独立は南アジアにおける英国の影響力縮小の一端を示し、地域情勢に大きな影響を与えました。
その後の国内改革は一時的に混乱を招いたものの、アフガニスタンの国家形成に重要な足がかりとなりました。
現在もアフガニスタン独立記念日は国民の誇りとなっています。
1919年
アフガニスタン
イギリス
1934年
ナチス・ドイツ: アドルフ・ヒトラーをドイツの「Führer(指導者)」とすることが、国民投票の圧倒的多数(89.93%)で承認される。
ナチス・ドイツでヒトラーを独裁的指導者「Führer」とする国民投票が行われ、圧倒的多数で承認された日です。
1934年8月19日に実施された国民投票では、有権者の89.93%がヒトラーをドイツ国家の最高指導者「Führer」として統合することを承認しました。
これは大統領と首相の権限を一元化し、ヒンデンブルク大統領の死後に実質的に適用されていた政策を法的に裏付けるものでした。
この投票結果により、ヒトラーは全権を掌握し、ナチ党による独裁体制が確立されました。
選挙前には大量のプロパガンダと反対派弾圧が行われ、投票の公正性には疑問の声も上がりました。
この出来事は全体主義政治の危険性を象徴する歴史的教訓として、今日まで語り継がれています。
ナチス政権の更なる拡張と第二次世界大戦勃発への道を決定づける重要な節目となりました。
1934年
ナチス・ドイツ
アドルフ・ヒトラー
ドイツ
Führer(指導者)
1945年
日本の降伏: 陸軍参謀次長河邊虎四郎中将ら日本国政府全権が木更津飛行場より伊江島を経由してフィリピンマニラ市庁に到着し、連合国軍南西太平洋方面軍総参謀長サザランド陸軍中将と降伏交渉を行う(翌日帰国)。
日本政府全権がフィリピン・マニラに到着し、連合国軍と降伏交渉を行った日です。
1945年8月19日、河辺虎四郎陸軍中将ら日本政府全権団は木更津飛行場を出発し、伊江島を経由してマニラに到着しました。
同日、フィリピン駐留連合国軍南西太平洋方面軍総参謀長サザランド中将との降伏交渉が開始されました。
この交渉は翌日の正式な降伏文書調印へ向けた重要な準備段階とされ、日本の戦後処理に大きな影響を与えました。
交渉では武装解除や占領計画、捕虜の扱いなど具体的な実務事項が協議されました。
マニラでの協議成功後、全権団は翌20日に日本へ帰国し、正式降伏受諾の手続きを進めました。
1945年
日本の降伏
参謀次長
河邊虎四郎
木更津飛行場
伊江島
フィリピン
マニラ
サザランド
1953年
アジャックス作戦。CIAの工作によって、イランの油田国有化を主導していた首相モサッデグが辞任、亡命していたモハンマド・レザー・パフラヴィーがシャーの座に復帰。
CIA主導のクーデター「アジャックス作戦」により、モサッデグ首相が失脚し、パフラヴィーがシャーとして復帰しました。
1953年8月19日、CIAと英情報部が協力してイラン政府を転覆させる「アジャックス作戦」を実行しました。
石油国有化を進めていたモハンマド・モサッデグ首相は辞任に追い込まれ、その後逮捕・軟禁されました。
廃位されていたモハンマド・レザー・パフラヴィーがシャーの座に復帰し、専制的な統治を再開しました。
このクーデターは冷戦期の英米の内政干渉を象徴し、中東の政治地図を大きく塗り替えました。
以後、アメリカとイランの関係は緊張をはらむものとなりました。
1953年
CIA
イラン
油田
モサッデグ
モハンマド・レザー・パフラヴィー
シャー
1965年
佐藤栄作が、日本の首相として戦後はじめて沖縄を訪問。
1965年、佐藤栄作首相が戦後初めて沖縄を訪問し、復帰交渉を現地で進めました。
1965年8月19日、佐藤栄作首相(第61代)が県内各地を視察し、米軍基地や現地行政機関を訪問しました。
訪問は戦後の日本国首相として初の沖縄入りであり、地元住民や米軍関係者との対話を重視するものでした。
この訪問は、日本による沖縄復帰交渉を加速させる意義深い一歩とされ、結果的に1972年の本土復帰につながりました。
佐藤首相は基地問題や経済振興策について現地の声を聞き、政府方針に反映させる姿勢を示しました。
沖縄の歴史的状況を国内外に発信する契機ともなり、以降の統治権移譲の道筋を作りました。
1965年
佐藤栄作
沖縄
1989年
ハンガリーで大量の東ドイツ市民がオーストリアに越境する汎ヨーロッパ・ピクニックが起こる。
汎ヨーロッパ・ピクニックで多数の東ドイツ市民が国境を越え、西側へ脱出しました。
1989年8月19日、ハンガリー西部で開催された汎ヨーロッパ・ピクニックがきっかけで、多くの東ドイツ市民がオーストリアへ越境しました。
この恒久的な国境開放デモンストレーションでは、東西冷戦下の制限された移動に風穴が開けられました。
参加者はハンガリー当局の協力のもと、警備の目をかいくぐって自由を求めて西へ向かい、その後の難民誘致や亡命を促進しました。
ピクニックの成功は東欧諸国の民主化運動に勢いを与え、数ヶ月後のベルリンの壁崩壊につながる一要因となりました。
冷戦終結の序章とも言える歴史的イベントとして記憶されています。
1989年
ハンガリー
オーストリア
汎ヨーロッパ・ピクニック