康保4年7月9日

延喜式施行。

平安時代中期の法典『延喜式』が施行され、律令制度の最終形態を示しました。
延喜式は桓武朝以来の律令制度を補完するため、醍醐天皇の勅命で編纂されました。 完成には数十年を要し、内外官の職務や儀式、民政・税制など約五百条目を規定。 967年7月9日に正式施行され、国家運営の基盤を整備。 その後の治安・税制の安定に寄与し、律令体制の最盛期を支えました。 中世以降も注釈書が数多く編まれ、律令研究の基礎資料として重宝されました。
967年 康保 7月9日 延喜式
1153年

中世フランス・ブロワ家の貴族ギヨームがギヨーム1世としてブローニュ伯に就任した。

フランスの名門ブロワ家のギヨームが1153年にブローニュ伯を継承し、中世フランスの政治地図に影響を与えました。
ブロワ家はカペー朝フランス王室と姻戚関係を結び、王権と密接な関係にありました。 1153年、ギヨームは伯爵位を正式に継承し、自領の統治を開始。 彼の治世下で領地は拡大し、経済的にも繁栄を遂げました。 封建制度下の伯爵として王権とのバランスを維持しつつ地域を支配。 この就任はフランス北部の封建勢力図を再編し、後の百年戦争期にも影響を残しました。
1153年 ブロワ家 ギヨーム ブローニュ伯 英語版
治承7年/寿永2年7月28日

後白河法皇が平家追討の院宣を下す。

後白河法皇が平家追討の院宣を発し、源平合戦の本格化を促しました。
1183年7月28日、後白河法皇は平家討伐の院宣を発し、全国の武士に挙兵を呼びかけ。 これにより源氏側の結束が強まり、源頼朝や義経らが軍勢を編成しました。 院宣は法皇の権威を背景とし、戦局に大きな影響を与える。 平家はこれ以前にも勢力を拡大していたが、この追討指令が転機に。 源平合戦は院宣を契機に激化し、1185年の壇ノ浦合戦へと繋がりました。
1183年 治承 寿永 7月28日 後白河法皇
1945年

インドネシア独立宣言: インドネシアがオランダからの独立を宣言。インドネシア独立戦争を経て1949年に独立を達成。

インドネシアがオランダからの独立を正式に宣言し、独立戦争へと発展しました。
1945年8月17日、ジャワ島ジャカルタでスカルノとハッタによってインドネシア独立宣言が発表された。 第二次世界大戦終結後の混乱期に、国民は独立達成を目指して立ち上がった。 宣言直後、オランダは植民地支配の復活を試み、インドネシア独立戦争が勃発した。 数年間にわたる戦闘と外交交渉の末、1949年にオランダは主権を承認し、正式に独立を達成した。 この日はインドネシアの建国記念日として毎年祝われている。
1945年 インドネシア独立宣言 インドネシア オランダ インドネシア独立戦争 1949年
1945年

鈴木貫太郎が内閣総理大臣を辞任。

鈴木貫太郎首相が戦後の混乱期に総理大臣を辞任しました。
1945年8月17日、鈴木貫太郎は連合国軍の占領下にある日本政府の内閣総理大臣の職を辞任した。 終戦直後の政治混乱の中、鈴木内閣は国体護持問題や憲法改正の是非などで対立が深まっていた。 後任には東久邇宮稔彦王が指名され、短期間のうちに新内閣が発足した。 鈴木首相の辞任は戦後政局再編の重要な契機となり、占領政策との調整が課題となった。
1945年 鈴木貫太郎 内閣総理大臣
1945年

ベトナム八月革命。ベトナム全土で武装蜂起開始。

1945年8月17日、ベトナムで八月革命が勃発し、全国で武装蜂起が始まりました。
ベトナム八月革命は第二次世界大戦後の混乱期に起きた大規模な蜂起です。1945年8月17日にホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟会(ベトミン)が中心となり日本占領下で武装行動を開始しました。蜂起は北部を中心に都市や村落を制圧し独立宣言に向けた政治的基盤を固めました。短期間で大規模な支持を集めフランス植民地支配からの脱却を目指す闘争の第一歩となりました。革命は後のベトナム民主共和国樹立へとつながり長期にわたるインドシナ戦争への序章ともなりました。
ベトナム八月革命 ベトナム
1945年

東久邇宮稔彦王が第43代内閣総理大臣に就任し、東久邇宮内閣が成立。初の皇族首班内閣。

1945年8月17日、第43代内閣総理大臣に東久邇宮稔彦王が就任し、初の皇族首班内閣が発足しました。
東久邇宮稔彦王は1945年8月17日、第43代内閣総理大臣に任命され東久邇宮内閣が発足しました。これは日本史上初めて皇族が首班を務めた内閣であり敗戦直後の国政復興を担う臨時的な政権と位置づけられました。内閣は戦後復興や食糧問題、軍需工場の解散など急務の課題に直面しGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との協議を重ねながら政策を実施しました。しかし戦犯追及や財閥解体などの民主化改革をめぐりその手腕には限界が指摘されました。わずか54日で総辞職し後に幣原喜重郎内閣へと政権が移行しました。皇族内閣という異例の体制は戦後日本の政治史に特異な一幕として記憶されています。
東久邇宮稔彦王 内閣総理大臣 東久邇宮内閣 皇族
1960年

ガボンがフランスから独立。

1960年8月17日、中央アフリカのガボンがフランスから独立を果たしました。
ガボンは長らくフランスの植民地支配下にありましたが、第二次世界大戦後の脱植民地化運動の高まりを受けて独立運動が活発化しました。1960年8月17日にフランス共同体を離脱しガボン共和国として主権を獲得しました。初代大統領にはレオン・ムバが就任し政治的安定と国家建設を推進しました。独立後もフランスとの協力関係が維持され、経済援助や技術支援が続けられました。後に石油資源の開発が進展しガボンは中央アフリカ諸国の中で比較的高い生活水準を実現しています。
1960年 ガボン フランス
1962年

ベルリンの壁を越えようとした18歳のペーター・フェヒターを東ドイツ側の警備兵が銃殺。

1962年8月17日、東ドイツから西ベルリンへの脱出を試みた18歳のペーター・フェヒターが、警備兵に射殺された事件です。
ベルリンの壁の建設から1年余り後の1962年8月17日、18歳のペーター・フェヒターは西ベルリンへの脱出を試みました。 彼は壁に登る際、東ドイツ側の警備兵に発見され銃撃を受け、いわゆる「死の地帯」に倒れ込みました。 西側住民や兵士がフェヒターを助けようと手を差し伸べたものの、越境を巡る政治的緊張から救助は叶わず、彼は約1時間後に息を引き取りました。 この悲惨な光景は写真や映像で世界に報じられ、東西冷戦下の分断と人権抑圧の象徴となりました。 彼の死はその後の抗議運動や人権問題への関心を喚起し、ベルリンの壁崩壊への歩みに影響を与えました。
1962年 ベルリンの壁 ペーター・フェヒター
1971年

第2次コザ事件発生。

1971年8月17日、沖縄県コザ市(現沖縄市)で米軍基地に反発した大規模な抗議騒動「第2次コザ事件」が発生しました。
1971年8月17日、沖縄県コザ市(現沖縄市)で第2次コザ事件と呼ばれる大規模な騒動が発生しました。 米軍基地周辺での抗議活動が警察との衝突に発展し、投石や機動隊による鎮圧が行われました。 参加者と機動隊双方に負傷者が出て、現地は一時緊迫した状況に陥りました。 この事件は在沖米軍基地問題と地元住民の不満が背景にあり、沖縄返還交渉にも影響を与えました。 騒動は沖縄返還運動への関心を一層高める契機となりました。
1971年 第2次コザ事件
1988年

パキスタン大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハクらが乗った飛行機が離陸直後に墜落し、大統領を含む37人全員が死亡。

1988年8月17日、パキスタン大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハクらを乗せた飛行機が離陸直後に墜落し、37人が死亡した事件です。
1988年8月17日、パキスタン大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハクらが搭乗したC-130軍用機が離陸直後に墜落しました。 大統領をはじめとする37人全員が即死し、国内外に衝撃を与えました。 事故原因には機体トラブルや爆破説などさまざまな説が飛び交い、真相は現在も議論が続いています。 この墜落事故はパキスタン政治に大きな空白をもたらし、その後の政局に深刻な影響を及ぼしました。 歴史的指導者の突然の死は国民の悲嘆を呼び、国家の行方を左右する転機となりました。
1988年 パキスタン ムハンマド・ジア=ウル=ハク
1989年

韓国で列車事故、朴正煕元大統領の娘朴槿恵ら避難し、政府関係者36人全員が死亡。

1989年8月17日、韓国で列車事故が発生し、朴正煕元大統領の娘朴槿恵らが避難する中、政府関係者36人が犠牲となりました。
1989年8月17日、韓国で政府関係者を乗せた列車が事故を起こしました。 乗客には朴正煕元大統領の娘で後の大統領となる朴槿恵も含まれており、一部は無事に避難したものの多数が犠牲となりました。 最終的に政府関係者36人全員が死亡し、国家的な悲劇として報じられました。 事故原因は線路の異常や過速度などが指摘され、鉄道安全対策の見直しが求められました。 この事件は韓国の公共交通機関の安全性に対する意識を高める契機となりました。
1989年 韓国 朴正煕 朴槿恵