延暦17年7月2日

坂上田村麻呂が清水寺を建立。

坂上田村麻呂が延暦17年7月2日に京都東山の地に清水寺を建立。その壮麗な伽藍は今も世界的に知られる観光名所です。
平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が桓武天皇の命により、京都・東山に清水寺の建立を始めました。 寺名は「清い水」を意味し、本尊は千手観音。 険しい断崖に架かる舞台造りの建築が特色で、その後多くの参詣者を集めました。 鎌倉時代や室町時代にも度重なる修復が行われ、現在の本堂は江戸時代の再建。 清水の舞台から望む京都市街の風景は江戸期から多くの文化人に愛されています。 1994年には世界遺産に登録され、今日まで日本文化を象徴する寺院として知られています。
798年 延暦 7月2日 坂上田村麻呂 清水寺
康保4年7月9日

延喜式施行。

平安時代中期の法典『延喜式』が施行され、律令制度の最終形態を示しました。
延喜式は桓武朝以来の律令制度を補完するため、醍醐天皇の勅命で編纂されました。 完成には数十年を要し、内外官の職務や儀式、民政・税制など約五百条目を規定。 967年7月9日に正式施行され、国家運営の基盤を整備。 その後の治安・税制の安定に寄与し、律令体制の最盛期を支えました。 中世以降も注釈書が数多く編まれ、律令研究の基礎資料として重宝されました。
967年 康保 7月9日 延喜式
986年

トラヤヌスの門の戦い。東ローマ帝国軍がトラヤヌスの門でブルガリア軍に敗れる。

東ローマ帝国軍がトラヤヌスの門でブルガリア軍に敗れ、バルカン支配権の均衡に影響を与えた戦いです。
トラヤヌスの門は首都コンスタンティノープル北方の要衝でした。 986年に両軍が衝突し、東ローマ側は大敗を喫しました。 ブルガリア帝国はこの勝利でバルカン北部への影響力を強化。 敗北した東ローマは防衛体制の見直しを迫られ、軍事改革を進める契機に。 この戦いは後の東ローマとバルカン地域の勢力均衡に大きく影響しました。
986年 トラヤヌスの門の戦い 東ローマ帝国 トラヤヌスの門 英語版 ブルガリア
1153年

中世フランス・ブロワ家の貴族ギヨームがギヨーム1世としてブローニュ伯に就任した。

フランスの名門ブロワ家のギヨームが1153年にブローニュ伯を継承し、中世フランスの政治地図に影響を与えました。
ブロワ家はカペー朝フランス王室と姻戚関係を結び、王権と密接な関係にありました。 1153年、ギヨームは伯爵位を正式に継承し、自領の統治を開始。 彼の治世下で領地は拡大し、経済的にも繁栄を遂げました。 封建制度下の伯爵として王権とのバランスを維持しつつ地域を支配。 この就任はフランス北部の封建勢力図を再編し、後の百年戦争期にも影響を残しました。
1153年 ブロワ家 ギヨーム ブローニュ伯 英語版
治承7年/寿永2年7月28日

後白河法皇が平家追討の院宣を下す。

後白河法皇が平家追討の院宣を発し、源平合戦の本格化を促しました。
1183年7月28日、後白河法皇は平家討伐の院宣を発し、全国の武士に挙兵を呼びかけ。 これにより源氏側の結束が強まり、源頼朝や義経らが軍勢を編成しました。 院宣は法皇の権威を背景とし、戦局に大きな影響を与える。 平家はこれ以前にも勢力を拡大していたが、この追討指令が転機に。 源平合戦は院宣を契機に激化し、1185年の壇ノ浦合戦へと繋がりました。
1183年 治承 寿永 7月28日 後白河法皇
承応3年7月5日

明の禅僧・隠元隆琦が長崎に到着。

中国明朝の禅僧・隠元隆琦が承応3年に長崎に到着し、日本の禅宗文化に新風を吹き込みました。
隠元隆琦(いんげんりゅうき)は黄檗宗の僧侶として名高い人物です。 1654年7月5日、福建省から長崎に渡来し、万福寺を創建しました。 日本における黄檗宗の基礎を築き、中国文化や禅の教えを伝来。 また隠元豆(インゲンマメ)の名は彼に由来し、食文化にも影響を与えました。 江戸時代の国際交流史や宗教史において重要な位置を占める存在です。
1654年 承応 7月5日 隠元隆琦
1807年

ニューヨークとニューヨーク州の州都オールバニーの間でロバート・フルトンの蒸気船(外輪船)クラーモント号が試験運行を行う。本格的な蒸気船による初の航行でした。

ロバート・フルトンの外輪蒸気船『クラーモント号』が初の本格的な蒸気船航行を成功させました。
1807年8月17日、ニューヨークとオールバニー間でクラーモント号が試験航行を実施。 外輪式蒸気機関を搭載し、従来の帆船を凌ぐ安定性と速度を実現。 この航行は蒸気船時代の幕開けとされ、商業航路への応用が期待されました。 産業革命の一翼を担う技術革新として高く評価。 その後、アメリカ各地で蒸気船が普及し、輸送革命が進行しました。
1807年 ロバート・フルトン 蒸気船
1862年

インディアン戦争: ダコタ戦争が勃発。

アメリカ合衆国とダコタ族との戦いであるダコタ戦争が、インディアン戦争の一環として勃発しました。
1862年8月17日、ミネソタ州でダコタ族とアメリカ軍の衝突が発生。 背景には土地侵占や食料供給問題など複合的要因がありました。 ダコタ族は抗議として武装蜂起し、周辺開拓民を襲撃。 アメリカ政府は直ちに軍を派遣し、戦闘は数ヶ月にわたり激化。 多くの死傷者が出た後、ダコタ族は降伏し、土地剥奪と強制移住が進行しました。
1862年 インディアン戦争 ダコタ戦争
1864年

南北戦争: ゲインズビルの戦い。

アメリカ南北戦争中、フロリダ州ゲインズビル付近で北軍と南軍が衝突した戦闘です。
1864年8月17日、フロリダ州ゲインズビル付近で北軍が南軍の補給線を遮断。 南軍は守備隊を組織して反撃しましたが、北軍の数的優勢に押されました。 この戦いにより南軍の資源不足は一層深刻化。 ゲインズビルは南部連邦の重要な補給拠点であり、戦略的価値が高かった。 北軍の勝利により南部の物流網に大きな打撃を与えました。
1864年 南北戦争 ゲインズビルの戦い 英語版
明治元年6月29日

明治政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興。

明治政府が江戸幕府の昌平坂学問所を改組し、昌平学校として再興。近代教育制度の基盤を築きました。
明治元年6月29日、政府は旧・昌平坂学問所を再編し、昌平学校として正式に発足。 儒学を中心とした伝統学問を継承しつつ、洋学や新制度の導入を図りました。 幕末から明治への学問所の転換点となり、政府要員の養成機関として機能。 多くの官吏や学者が輩出され、新政府の人材育成基盤となりました。 この改革は日本の近代教育制度確立への端緒とも称されます。
1868年 明治 6月29日 明治政府 江戸幕府 昌平坂学問所
1883年

ドミニカ共和国の国歌「Quisqueyanos valientes」が初めて公の場で歌われる。

ドミニカ共和国の国歌『Quisqueyanos valientes』が初めて公の場で披露された。独立と国家的団結の象徴としての役割を担う曲です。
1883年8月17日、首都サントドミンゴの国家行事で国歌『Quisqueyanos valientes』が初めて公に歌われた。 歌詞は詩人エミリオ・プルドム、作曲はホセ・ルフィーノ・レジェスが手がけた。 この演奏は独立運動の高まりを象徴し、国民の結束を深める契機となった。 後に正式に国歌として採用され、独立記念日などの祝典で必ず演奏される存在となった。 現在も国民的な誇りとして歌い継がれている。
1883年 ドミニカ共和国 国歌 Quisqueyanos valientes
1914年

第一次世界大戦: シュタルペーネンの戦い。

第一次世界大戦初期、東部戦線で行われたドイツ軍とロシア軍の小規模戦闘。序盤の攻防を象徴します。
1914年8月17日、東プロイセンのシュタルペーネン近郊でドイツ第1軍とロシア第10軍が激突した。 ドイツ軍は巧妙な陣地戦術でロシア軍の進撃を食い止め、小規模ながら勝利を収めた。 この戦いは東部戦線の開幕を告げ、両軍の戦略的重要性を示すものとなった。 以降、大規模な機動戦と塹壕戦が続き、戦線は膠着状態へと移行した。 東部戦線の苛烈さを象徴する序章ともいえる出来事です。
1914年 第一次世界大戦 シュタルペーネンの戦い