1473年

リチャード・オブ・シュルーズベリー

(1473 - 1483)

初代ヨーク公

初代ヨーク公
イングランド王エドワード4世の次男。初代ヨーク公として知られるが,1483年に行方をくらました「タワーの子供たち」の一人。
1473年、ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーとしてイングランド王室に生まれた。 幼くしてヨーク公の称号を継承し、王位継承順位にも名を連ねた。 1483年、兄エドワード5世とともにロンドン塔に幽閉され、その後行方不明となった。 公式には行方不明扱いだが、暗殺されたとの説が根強く、歴史的な謎となっている。 生涯はわずか10年ほどだったが、後世の文学や史研究で繰り返し取り上げられている。 「タワーの子供たち」の一人として今なお関心を呼び続ける人物である。
1473年 リチャード・オブ・シュルーズベリー ヨーク公 1483年
元亀元年7日16日

佐竹義宣

(1570 - 1633)

武将・大名

武将・大名
戦国から江戸初期に活躍した秋田佐竹氏の大名。関ヶ原では西軍に属したが、後に徳川幕府に仕え常陸久慈郡に移封された。
1570年、常陸国小田郡に生まれ、佐竹氏当主として家督を継承した。 関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗北したが、後に徳川家康に許され常陸久慈郡へ移封された。 初代秋田久保田藩主として藩政改革を推進し、治水や農業振興に尽力した。 学問と文化にも造詣が深く、藩校の開設や学者招聘を行った。 晩年は隠居しつつも藩政の基盤固めを続け、1633年に没した。 その統治は後の秋田藩の発展に大きく寄与した。
1570年 元亀 7日16日 佐竹義宣 武将 大名 1633年
1603年

レンナート・トルステンソン

(1603 - 1651)

軍人

軍人
三十年戦争で活躍したスウェーデンの軍人。名将グスタフ2世アドルフの下で活躍し、砲兵戦術の革新で知られる。
1603年、スウェーデン貴族の家系に生まれ、若くして軍に身を投じた。 三十年戦争でグスタフ2世アドルフ王に仕え、輝かしい戦績を重ねた。 卓越した砲兵運用術と機動戦術で知られ、戦局を左右する存在となった。 1641年に元帥に昇進し、国家的英雄として称えられた。 晩年はスウェーデン本国で軍政に携わり、1651年に没した。 戦略家としての評価は後世にも影響を与えている。
1603年 レンナート・トルステンソン 軍人 1651年
寛永2年7月15日

井伊直澄

(1625 - 1676)

江戸幕府の大老、第3代彦根藩主

江戸幕府の大老 第3代彦根藩主
彦根藩第3代藩主として藩政に改革を行い、江戸幕府の大老として幕政を支えた。
1625年、彦根藩主井伊直孝の嫡男として誕生した。 藩主として財政再建や学問奨励に力を注ぎ、藩の基盤を整備した。 江戸幕府の大老に就任し、幕政の重要案件を取りまとめた。 幕府内では誠実かつ有能な政治家として評価され、諸大名との調整役を担った。 1676年に没するまで幕府と彦根藩の発展に貢献した。 知行地の改革と教育振興で知られる大名兼幕臣である。
1625年 寛永 7月15日 井伊直澄 江戸幕府 大老 彦根藩 1676年
1629年

ヤン3世

(1629 - 1696)

ポーランド王

ポーランド王
17世紀のポーランド王。ウィーン包囲からの救援でオスマン帝国を破り、「キリスト教世界の守護者」と称された。
1629年、ポーランド貴族ソビエスキ家に生まれた。 1674年に王位に就き、オスマン帝国との戦いに積極的に臨んだ。 特に1683年のウィーン包囲戦では大軍を率いてオーストリア側を救援し、包囲を打破した。 その勝利により「キリスト教世界の守護者」と讃えられた。 治世中は国内の軍制改革や教育振興にも努めた。 1696年に没し、その軍事的英雄譚は後世に語り継がれている。
1629年 ヤン3世 ポーランド 1696年
1686年

ニコラ・ポルポラ

(1686 - 1768)

作曲家、音楽教師

作曲家 音楽教師
イタリアの作曲家・声楽教師。オペラ作曲家として成功し、名歌手ファリネッリらを育てた。
1686年、イタリア南部ナポリに生まれ、バロック音楽の洗礼を受けた。 オペラ作曲家として各地の劇場で成功を収め、数々の作品を残した。 優れた声楽教師としても名高く、ファリネッリやカステラート歌手を養成した。 1733年からはロンドン王立音楽大学の教授となり、英国でも活躍した。 晩年はウィーンやドレスデンでも教鞭をとり、1768年に没した。 彼の教えは後世の声楽技術に大きな影響を与えた。
1686年 ニコラ・ポルポラ 作曲家 音楽 1768年
1753年

ヨゼフ・ドブロフスキー

(1753 - 1829)

文献学者、歴史学者

文献学者 歴史学者
チェコ出身の文献学者・歴史学者。スラヴ研究の父と称され、辞典編纂などで業績を残した。
1753年にチェコのプルゼニ地方で生まれ、プラハ大学で学問を修めた。 ヨーロッパ各地を旅し、その成果をまとめた文献学的研究で知られる。 スラヴ語統一辞典の編纂やグラマティックの出版を手掛け、「スラヴ学の父」と呼ばれた。 フランス革命期にはパリでも研究活動を展開し、国際的な学術ネットワークを築いた。 晩年はウィーンに戻り、教育者としても後進の育成に努めた。 1829年に没するまで、スラヴ文化の発展に多大な貢献をした。
1753年 ヨゼフ・ドブロフスキー 文献学者 歴史学者 1829年
1754年

ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン

(1754 - 1802)

政治家

政治家
フランス革命期の政治家・ジャーナリスト。ロベスピエールと行動を共にし、革命政府で活躍した。
1754年、パリに生まれ、法学を学んだ後ジャーナリストとなった。 『フランス人民の友』紙を創刊し、急進派として革命を支持した。 国民公会議員や治安委員に選出され、ヴァンデの反乱鎮圧などで政治的手腕を発揮した。 恐怖政治の時期にはロベスピエールと対立し、次第に中道派へ転じた。 後に国民公会を脱退し、外交官や行政官としても活動した。 1802年に没し、革命期の激動の中で論争を繰り広げた政治家である。
1754年 ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン 政治家 1802年
1768年

ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー

(1768 - 1800)

軍人

軍人
フランス革命戦争・ナポレオン戦争期の将軍。マレンゴの戦いで果敢に戦い、戦死した。
1768年、フランス南部ヴォクリューズで生まれた。 フランス革命戦争に従軍し、その勇猛さから将官に抜擢された。 1798年のエジプト遠征やアウステルリッツの戦いで活躍した。 1800年のマレンゴの戦いで反撃を試みるも戦死し、英雄として称えられた。 ナポレオンからも深い信頼を寄せられ、その死は大きな衝撃をもたらした。 わずか32歳で生涯を閉じたが、軍事的才能は後世に語り継がれている。
1768年 ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー 1800年
1786年

ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド

(1786 - 1861)

イギリス女王ヴィクトリアの母

イギリス女王ヴィクトリアの母
イギリス女王ヴィクトリアの母。ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公女として生まれ、イギリス王室に嫁いだ。
1786年、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト1世の娘として生まれた。 1809年にイギリス王子エドワード公(ケント公)と結婚し、翌1819年にヴィクトリア王女を出産した。 夫の早逝により一人で娘を養育し、王室内で信頼される母后としての地位を確立した。 1837年に娘が即位すると、母親として公務を支援し、アドバイザーとしても影響を与えた。 イギリスとドイツ両国の文化を結ぶ存在として知られ、宮廷文化の発展に寄与した。 1861年にロンドンで没し、ヴィクトリア女王に深い愛情を注いだ母として記憶される。
1786年 ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド イギリス ヴィクトリア 1861年
1786年

デイヴィッド・クロケット

(1786 - 1836)

軍人、政治家

軍人 政治家
アメリカの開拓者で、テネシー州選出の下院議員も務めた。ワイルド・フロンティアの象徴的な人物。
1786年、テネシー州グリーン郡の農家に生まれる。 「ワイルド・フロンティアの王」と称され、開拓地での活動で名声を得た。 1830年代にテネシー州議会および連邦下院議員に選出される。 1836年、テキサス独立戦争のアルモ砦の戦いで戦死。 冒険心あふれる生涯は、後世の伝記や映画で取り上げられている。
デイヴィッド・クロケット 1836年
1799年

ローベルト・フォン・モール

(1799 - 1875)

法学者

法学者
ドイツの法学者で、行政法学の先駆者として『法の支配』概念を提唱した。
1799年、ヴュルテンベルク王国に生まれる。 ハイデルベルク大学やチュービンゲン大学で教鞭を執り、行政法の研究を推進。 国家による法的統制や『法の支配』の理論を体系的にまとめた。 数多くの著作を発表し、ドイツ法学界に大きな影響を与えた。 1875年に死去し、その理論は現代の行政法研究にも引き継がれている。
1799年 ローベルト・フォン・モール 法学者 1875年