1057年

ランファナンの戦い。スコットランド王マクベスがマルカム(後のスコットランド王マルカム3世)に討たれる。

1057年、スコットランド北部で行われたランファナンの戦いで、マクベス王が討たれ、マルカムが王位を掌握しました。
ランファナンの戦いは、スコットランド王位を巡る内戦の決定的な戦闘でした。 長年続いたマクベスの治世に対して、王位継承権を主張するマルカムが反乱を起こし対峙しました。 戦闘の結果、マクベスは戦死し、マルカムが勝利を収めました。 勝利したマルカムはマルカム3世として即位し、新たな王朝を築きました。 この戦いはスコットランド王家の運命を大きく変える転機となりました。
1057年 ランファナンの戦い スコットランド マクベス マルカム3世
天正元年7月18日

槇島城の戦い: 宇治・槇島城に立て籠っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。

1573年、槇島城の戦いで足利義昭が織田信長に降伏し、室町幕府が滅亡しました。
宇治川河畔の槇島城に立て籠もった足利義昭は、織田信長の大軍に包囲されました。 義昭は抵抗を断念し降伏し、京都を追放されて室町幕府は事実上終焉を迎えました。 この出来事は日本の戦国時代における政権交代の象徴的な事件です。 信長の天下統一への道筋を固める重要な転機となりました。
1573年 天正 7月18日 槇島城の戦い 槇島城 足利義昭 織田信長 室町幕府
1760年

七年戦争: リーグニッツの戦い

七年戦争中の1760年8月15日にリーグニッツで行われた、プロイセン軍とオーストリア・神聖ローマ帝国連合軍の激突。
1760年8月15日、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍とオーストリア・神聖ローマ帝国連合軍がリーグニッツ(現ポーランド)で衝突。 戦力では劣っていたプロイセン軍が巧妙な戦術で側翼を突破し、連合軍を撃退。 戦闘は約5時間続き、結果的にプロイセン軍の勝利に終わった。 この勝利によりプロイセンは戦況を好転させ、フリードリヒ大王の名声を高めた。 七年戦争における転換点の一つとされる一戦。
1760年 七年戦争 リーグニッツの戦い
文久3年7月2日

イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、薩英戦争が開戦。

1863年8月15日、イギリス艦隊が鹿児島湾を砲撃し、薩英戦争が始まった。
薩摩藩士とイギリス人の摩擦を背景に、1863年8月15日、イギリス艦隊が鹿児島湾を砲撃。 これにより薩英戦争が開戦し、両国は短期間で交戦状態に陥った。 薩摩藩は沿岸砲台で抵抗したが、艦砲射撃の前に大きな被害を受けた。 翌年には講和条約が結ばれ、薩摩藩は多額の賠償金を支払うことに。 この戦いを通じて日本は近代海軍技術の重要性を痛感し、維新政府の海軍整備が加速した。
1863年 文久 7月2日 薩英戦争
1886年

長崎事件。清国(中国)の水兵が長崎市内で暴動を起こし、日清両国に死傷者が出る。

1886年8月15日、長崎港で清国の水兵が暴動を起こし、死傷者が出る長崎事件が発生した。
1886年8月15日、清国軍艦の水兵数十名が長崎港を訪れ、市内で酔ったまま暴動を起こした。 暴動は通行人への攻撃や店舗の破壊に及び、日本側にも多数の死傷者が出た。 長崎警察や旧長崎鎮台が出動して鎮圧し、一部の水兵が逮捕された。 この事件は日清両国の緊張を高め、賠償や謝罪を求める外交問題に発展。 最終的に清国からの賠償金支払いで決着し、両国関係の課題が露呈した。
1886年 長崎事件 清国
1929年

嘆きの壁事件。嘆きの壁においてシオニストとアラブ人が衝突、多数の死傷者を出す。

エルサレムの聖地・嘆きの壁を巡り、シオニストとアラブ人の衝突が発生。多数の死傷者を伴う暴動に発展しました。
1929年8月15日、パレスチナでイスラエル建国を目指すシオニスト(ユダヤ人入植者)とアラブ人住民がエルサレム旧市街の嘆きの壁前で衝突しました。 この衝突は宗教的・民族的緊張が高まる中で勃発し、集団示威から激しい暴力行為へと発展しました。 英国委任統治下の治安部隊も介入を余儀なくされ、多数の市民が犠牲に。 パレスチナ問題の複雑化を象徴する事件となり、後の中東紛争の遠因ともいわれます。 事件後、英国は治安維持のため両者への弾圧と隔離政策を強化しました。
1929年 嘆きの壁事件 嘆きの壁 シオニスト アラブ人
1942年

第二次世界大戦: ペデスタル作戦が終結。

地中海の制海権を巡るペデスタル作戦が終了し、マルタ島への補給線確保をめぐる激戦に終止符が打たれました。
1942年8月15日、連合軍によるマルタ島への補給作戦「ペデスタル作戦」が正式に終結しました。 この作戦はイギリス艦隊と護送船団がジブラルタルを出港し、地中海を横断して飢餓状態のマルタへ物資を届ける大規模任務。 行路にはドイツ・イタリア空軍および潜水艦の攻撃が激しく、多数の船舶が損傷または沈没しました。 最終的に必要物資の一部は到着し、マルタ守備隊の抵抗能力をかろうじて維持。 地中海戦線の帰趨を左右する重要作戦として、連合軍の戦略的価値が改めて示されました。
1942年 第二次世界大戦 ペデスタル作戦
1944年

第二次世界大戦: ドラグーン作戦が始まる。

連合軍による南フランス上陸作戦、ドラグーン作戦が開始され、西ヨーロッパ解放に新たな突破口が開かれました。
1944年8月15日、米第7軍とフランス軍を主体とする連合軍がフランス南部コート・ダジュール沖合に上陸し、ドラグーン作戦が開始されました。 ノルマンディー上陸作戦との連携を図り、ナチス・ドイツ軍を南から挟撃・分断する戦略的狙いがあります。 上陸後、連合軍は迅速に内陸部へ進撃し、多数の都市や港湾を解放。 地元レジスタンスとも協力して占領軍の後方をかく乱し、戦線の前進を助けました。 パリ解放への道を南北両面から広げる上で、重要な役割を果たした作戦です。
1944年 ドラグーン作戦
1945年

第二次世界大戦: 未明、宮城事件が鎮圧される。

終戦直前、皇居内で起きた将校らのクーデター未遂「宮城事件」が未明に鎮圧され、日本の降伏受諾が無事に進展しました。
1945年8月15日未明、終戦の玉音放送を阻止しようとする一部の青年将校らによる皇居占拠事件、通称「宮城事件」が発生しました。 彼らは無条件降伏に反対し、放送の中止を目指して行動を起こしましたが、宮内庁・警察部隊の迅速な介入で鎮圧されました。 計画に関与した将校らは逮捕・処分され、皇居の警備体制強化が図られる契機となります。 クーデター未遂の鎮圧により、昭和天皇による終戦詔書の朗読が予定通り実施可能となり、国民への降伏告知が守られました。 この事件は戦後の日本を揺るがす大きな波乱を招く一歩寸前で阻止された出来事です。
1945年 宮城事件
1945年

第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送により、ポツダム宣言(正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。7月26日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席蔣介石の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・連合国への降伏がラジオと新聞で日本国民に伝えられる(日本の終戦の日)。

昭和天皇が玉音放送を通じて大東亜戦争終結を宣言し、ポツダム宣言受諾と無条件降伏を国民に伝えました。日本の終戦を象徴する歴史的瞬間です。
1945年8月15日正午、昭和天皇は「大東亜戦争終結の詔書」を朗読し、ラジオ放送を通じて全国の日本国民に降伏受諾を告知しました。 放送は「玉音放送」と呼ばれ、日本の君主が国民に直接語りかける初めての出来事となりました。 これによりポツダム宣言を正式に受諾し、全日本軍の無条件降伏が確定。 新聞各紙も号外を発行し、戦後日本の始まりを報じました。 国民は驚きと安堵、混乱の入り混じった感情を抱きつつ、戦後復興への道を歩み始めました。
昭和天皇 大東亜戦争 玉音放送 ポツダム宣言 7月26日 アメリカ合衆国 ハリー・S・トルーマン イギリス ウィンストン・チャーチル 中華民国 蔣介石 大日本帝国 日本 全日本軍 無条件降伏 連合国 降伏 ラジオ 新聞 終戦の日
1975年

バングラデシュで軍事クーデター。初代大統領ムジブル・ラフマンとその家族が陸軍部隊により暗殺。

1975年8月15日、バングラデシュで軍事クーデターが発生し、初代大統領ムジブル・ラフマンらが暗殺された。
1975年8月15日、バングラデシュで軍事クーデターが発生し、初代大統領ムジブル・ラフマンとその家族が軍部隊により暗殺された。 独立後の混乱期にあった同国は政情不安と軍事介入に揺れた。 ムジブルは「バングラデシュの父」と呼ばれる建国の指導者であった。 暗殺後は権力の空白状態が生じ、以降の政治体制に大きな影響を及ぼした。 事件はバングラデシュの民主化運動と軍事政権のはざまで混迷を深める契機となった。
1975年 バングラデシュ ムジブル・ラフマン
1998年

北アイルランド問題: オマー爆弾テロ事件。北アイルランド・ティロン県・オマーで、IRA暫定派の分派(真のIRA)により、ベルファスト合意を否定する自動車爆弾テロ。29人死亡、約220人負傷の惨事。

北アイルランドのオマーでIRA分派による自動車爆弾テロが発生し、多数の死傷者を出しました。
1998年8月15日、北アイルランドのティロン県オマーで「真のIRA」による車爆弾テロが起きました。 この攻撃はベルファスト合意に反対する過激派組織によるもので、29人が死亡、約220人が負傷しました。 爆発は商店街付近で発生し、周辺の建物も大きな被害を受けました。 被害者には一般市民や観光客も含まれ、地域社会に深い衝撃を与えました。 今回の事件は和平プロセスに大きな痛手を与え、国際社会から非難が集中しました。 その後、和解と平和構築の取り組みが再検討され、治安対策も強化されました。
1998年 北アイルランド問題 オマー爆弾テロ事件 英語版 北アイルランド ティロン県 オマー IRA暫定派 真のIRA ベルファスト合意