1261年
東ローマ帝国・パレオロゴス王朝の初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスが戴冠。
1261年、ミカエル8世パレオロゴスが東ローマ帝国皇帝に戴冠し、パレオロゴス朝が始まりました。
ミカエル8世パレオロゴスは、ラテン帝国からのコンスタンティノープル奪還後に皇帝として戴冠しました。
これにより東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は約60年ぶりに自立を回復しました。
彼の治世は帝国の再編と修復を中心に進められ、繁栄の基礎を築きました。
パレオロゴス朝は1453年のコンスタンティノープル陥落まで約200年間続き、ビザンツ帝国最後の王朝となりました。
1261年
東ローマ帝国
パレオロゴス王朝
ミカエル8世パレオロゴス
1461年
ルイ11世がノートルダム大聖堂にて戴冠。
1461年、フランス王ルイ11世がパリのノートルダム大聖堂で正式に戴冠しました。
ルイ11世はシャルル7世の死去を受けて8月15日に戴冠し、フランス王位を継承しました。
彼は冷静な政治手腕と宮廷内の陰謀を巧みに操る策略家として知られます。
即位後は封建貴族の力を抑え、中央集権化を進めて王権強化を図りました。
その政策は後のフランス国家形成に大きな影響を与えました。
1461年
ルイ11世
ノートルダム大聖堂
1519年
ペドロ・アリアス・デ・アビラによってパナマシティ建都。
1519年、スペイン王室の命を受けたペドロ・アリアス・デ・アビラがパナマシティを建設しました。
パナマシティは当初、太平洋への玄関口として戦略的な要地に築かれました。
南米大陸横断の拠点として、金銀の輸送や探検隊の基地となりました。
都市の成立はスペインによる中米植民地支配の足掛かりとされ、その後の西インド諸島との貿易拠点に発展しました。
現在もパナマ運河近くの歴史的地区が世界遺産に登録されています。
1519年
ペドロ・アリアス・デ・アビラ
英語版
パナマシティ
1537年
アスンシオン建都。
1537年、スペインの探検家フアン・デ・サラサールらが現在のパラグアイ国境にアスンシオンを建都しました。
アスンシオンはパラグアイ川沿いの戦略的拠点として設立されました。
設立者のフアン・デ・サラサールは、南米内陸部探検の拠点を求めてこの地を選びました。
都市は植民地行政の中心となり、後にパラグアイの首都として発展しました。
現在も多くのコロニアル建築が残り、歴史的価値の高い都市です。
1537年
アスンシオン
明治2年7月8日
明治政府が太政官・神祇官、および太政官の管轄下に民部省以下6省を設置。同時に、百官・受領の廃止を布告。
1869年8月15日、明治政府が中央行政機構として太政官・神祇官と6省を設置した。
1869年8月15日、太政官・神祇官を頂点に据え、太政官の管轄下に民部省、大蔵省、工部省、兵部省、刑部省、宮内省の6省が設置された。
同時に、百官や受領といった旧来の官職は廃止され、官僚制度の整備が本格化。
中央集権化による統治の安定化と近代国家体制の確立を目指した一大改革であった。
欧米の行政制度を参考としたこの組織改編は、その後の日本の官僚機構の原型となった。
明治政府はこの基盤の上に、さらなる制度整備を進めていった。
1869年
明治
7月8日
明治政府
太政官
神祇官
民部省
百官
受領
明治2年7月8日
明治政府が蝦夷地に開拓使を設置。
1869年8月15日、蝦夷地に開拓使が設置され、北海道の開発が本格化した。
1869年8月15日、版籍奉還後の蝦夷地開発を担う機関として開拓使が設置された。
官費による入植奨励や土地調査、道路網の整備など、北海道開発の司令塔となる。
長官には旧幕臣の島義勇が就任し、農業の定着や鉱山開発など多岐にわたる事業を展開。
これにより本格的な和人入植が進み、北海道の人口増加と経済発展が加速。
一方で、アイヌ民族との摩擦や土地権利の問題も生じたが、日本の近代化に重要な役割を果たした。
蝦夷地
開拓使
1940年
立憲民政党が解党して大政翼賛会に合流し、日本の全政党が解散。
立憲民政党が解党し、大政翼賛会に合流。これにより日本の全政党が姿を消し、戦時下の一党独裁体制が確立しました。
1940年8月15日、政府の一元化方針の下、立憲民政党は正式に解党し、大政翼賛会に参加しました。
これにより結社の自由を特徴とした政党政治は終焉を迎え、日本国内は事実上の一党体制へ移行。
大政翼賛会は戦時総動員体制を支えるための政治組織として位置づけられ、労働・生産・言論の統制を進めました。
野党の消滅は戦時経済の効率化を狙った面もありましたが、国民の多様な意見が封殺される結果にも。
この流れは太平洋戦争末期まで続き、日本の政治文化に深い影響を与えました。
1940年
立憲民政党
大政翼賛会
1945年
第二次世界大戦: 未明、宮城事件が鎮圧される。
終戦直前、皇居内で起きた将校らのクーデター未遂「宮城事件」が未明に鎮圧され、日本の降伏受諾が無事に進展しました。
1945年8月15日未明、終戦の玉音放送を阻止しようとする一部の青年将校らによる皇居占拠事件、通称「宮城事件」が発生しました。
彼らは無条件降伏に反対し、放送の中止を目指して行動を起こしましたが、宮内庁・警察部隊の迅速な介入で鎮圧されました。
計画に関与した将校らは逮捕・処分され、皇居の警備体制強化が図られる契機となります。
クーデター未遂の鎮圧により、昭和天皇による終戦詔書の朗読が予定通り実施可能となり、国民への降伏告知が守られました。
この事件は戦後の日本を揺るがす大きな波乱を招く一歩寸前で阻止された出来事です。
1945年
宮城事件
1945年
第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送により、ポツダム宣言(正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。7月26日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席蔣介石の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・連合国への降伏がラジオと新聞で日本国民に伝えられる(日本の終戦の日)。
昭和天皇が玉音放送を通じて大東亜戦争終結を宣言し、ポツダム宣言受諾と無条件降伏を国民に伝えました。日本の終戦を象徴する歴史的瞬間です。
1945年8月15日正午、昭和天皇は「大東亜戦争終結の詔書」を朗読し、ラジオ放送を通じて全国の日本国民に降伏受諾を告知しました。
放送は「玉音放送」と呼ばれ、日本の君主が国民に直接語りかける初めての出来事となりました。
これによりポツダム宣言を正式に受諾し、全日本軍の無条件降伏が確定。
新聞各紙も号外を発行し、戦後日本の始まりを報じました。
国民は驚きと安堵、混乱の入り混じった感情を抱きつつ、戦後復興への道を歩み始めました。
昭和天皇
大東亜戦争
玉音放送
ポツダム宣言
7月26日
アメリカ合衆国
ハリー・S・トルーマン
イギリス
ウィンストン・チャーチル
中華民国
蔣介石
大日本帝国
日本
全日本軍
無条件降伏
連合国
降伏
ラジオ
新聞
終戦の日
1945年
鈴木貫太郎内閣(鈴木貫太郎首相)が総辞職。
終戦を迎えた日本で、鈴木貫太郎内閣が総辞職した出来事です。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えました。
鈴木貫太郎内閣は戦時下の政府を率いていましたが、敗戦を機に総辞職を決定しました。
これにより占領下での新たな行政体制への移行が本格化しました。
鈴木首相は海軍大将としても知られ、政界における最後の軍人出身の首相でした。
日本の戦後政治の始まりを象徴する重要な節目となりました。
鈴木貫太郎内閣
鈴木貫太郎
総辞職
1945年
京城で朝鮮建国準備委員会が発足。
解放直後の朝鮮で、独立に向けた準備組織が京城で発足しました。
第二次世界大戦の終結に伴い、1945年8月15日、京城(現ソウル)で朝鮮建国準備委員会が発足しました。
この委員会は独立運動家らが中心となって設立され、建国後の政府組織や憲法策定の基本方針を検討しました。
しかし米ソ両軍政下での立場の違いから対立が深まり、統一的な政権樹立には至りませんでした。
その後の大韓民国成立へとつながる複数の組織が並行して活動を展開しました。
朝鮮半島の近代国家建設の重要な端緒となった出来事です。
京城
朝鮮建国準備委員会
1947年
前日のパキスタンに続いてインドがイギリスから独立。
長年の独立運動を経て、インドがイギリスから自主的に独立しました。
1947年8月15日、インドは英領インド帝国から独立を果たし、イギリス連邦内の自治領として発足しました。
初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任し、非宗教的で統一国家建設を目指しました。
同時にパキスタンとの分割独立が行われ、大規模な民族移動と暴力衝突が発生しました。
独立はガンディーら非暴力主義の影響を受けつつも、混乱と再編の複雑な時代を迎えました。
この日は「独立記念日」として、毎年盛大に祝われています。
1947年
パキスタン
インド
イギリス
独立