1057年
ランファナンの戦い。スコットランド王マクベスがマルカム(後のスコットランド王マルカム3世)に討たれる。
1057年、スコットランド北部で行われたランファナンの戦いで、マクベス王が討たれ、マルカムが王位を掌握しました。
ランファナンの戦いは、スコットランド王位を巡る内戦の決定的な戦闘でした。
長年続いたマクベスの治世に対して、王位継承権を主張するマルカムが反乱を起こし対峙しました。
戦闘の結果、マクベスは戦死し、マルカムが勝利を収めました。
勝利したマルカムはマルカム3世として即位し、新たな王朝を築きました。
この戦いはスコットランド王家の運命を大きく変える転機となりました。
1057年
ランファナンの戦い
スコットランド
マクベス
マルカム3世
1248年
同年4月に火災で焼失したケルン大聖堂について、マリアの昇天の祝日であるこの日、大司教の命令で3代目となる聖堂の建築が起工。1880年に完成。
1248年8月15日、ケルン大聖堂の3代目建設工事がマリア昇天祭に合わせて起工されました。
ケルン大聖堂は1248年4月の火災で焼失後、同年8月15日のマリア昇天の祝日に大司教の命令で再建が始まりました。
ゴシック建築の傑作として知られ、翌世紀から幾度も工事が中断と再開を繰り返しました。
最終的な完成は600年以上後の1880年に達し、その壮大な尖塔は今も街の象徴となっています。
この建築プロジェクトは中世から近代までの技術と芸術の変遷を一望できる史跡です。
1248年
ケルン大聖堂
1880年
1261年
東ローマ帝国・パレオロゴス王朝の初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスが戴冠。
1261年、ミカエル8世パレオロゴスが東ローマ帝国皇帝に戴冠し、パレオロゴス朝が始まりました。
ミカエル8世パレオロゴスは、ラテン帝国からのコンスタンティノープル奪還後に皇帝として戴冠しました。
これにより東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は約60年ぶりに自立を回復しました。
彼の治世は帝国の再編と修復を中心に進められ、繁栄の基礎を築きました。
パレオロゴス朝は1453年のコンスタンティノープル陥落まで約200年間続き、ビザンツ帝国最後の王朝となりました。
1261年
東ローマ帝国
パレオロゴス王朝
ミカエル8世パレオロゴス
1461年
ルイ11世がノートルダム大聖堂にて戴冠。
1461年、フランス王ルイ11世がパリのノートルダム大聖堂で正式に戴冠しました。
ルイ11世はシャルル7世の死去を受けて8月15日に戴冠し、フランス王位を継承しました。
彼は冷静な政治手腕と宮廷内の陰謀を巧みに操る策略家として知られます。
即位後は封建貴族の力を抑え、中央集権化を進めて王権強化を図りました。
その政策は後のフランス国家形成に大きな影響を与えました。
1461年
ルイ11世
ノートルダム大聖堂
1483年
システィーナ礼拝堂が開場。
1483年、ローマ教皇シクストゥス4世によってシスティーナ礼拝堂が正式に公開されました。
シクストゥス4世が建設を命じたシスティーナ礼拝堂は、バチカン宮殿内の礼拝堂として完成しました。
礼拝堂の内壁にはボッティチェリやペルジーノらルネサンス期の巨匠が手掛けたフレスコ画が描かれています。
後にミケランジェロによる天井画や『最後の審判』が加えられ、世界的な芸術遺産となりました。
教皇選挙コンクラーベの会場としても現在に至るまで使用されています。
1483年
システィーナ礼拝堂
1519年
ペドロ・アリアス・デ・アビラによってパナマシティ建都。
1519年、スペイン王室の命を受けたペドロ・アリアス・デ・アビラがパナマシティを建設しました。
パナマシティは当初、太平洋への玄関口として戦略的な要地に築かれました。
南米大陸横断の拠点として、金銀の輸送や探検隊の基地となりました。
都市の成立はスペインによる中米植民地支配の足掛かりとされ、その後の西インド諸島との貿易拠点に発展しました。
現在もパナマ運河近くの歴史的地区が世界遺産に登録されています。
1519年
ペドロ・アリアス・デ・アビラ
英語版
パナマシティ
1534年
イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。
1534年、イグナチオ・デ・ロヨラら7人がパリで誓願し、イエズス会の結成が始まりました。
イエズス会は最初の誓願をモンマルトルの丘で行い、共同体としての活動を開始しました。
1540年、教皇パウルス3世から正式に承認を受け、対抗宗教改革の先鋒となりました。
教育機関や宣教活動を通じて、世界中に影響を与える組織へと成長しました。
今日でも学校運営や社会福祉活動を続けるカトリックの主要な宗教会派です。
1534年
イグナチオ・デ・ロヨラ
イエズス会
1537年
アスンシオン建都。
1537年、スペインの探検家フアン・デ・サラサールらが現在のパラグアイ国境にアスンシオンを建都しました。
アスンシオンはパラグアイ川沿いの戦略的拠点として設立されました。
設立者のフアン・デ・サラサールは、南米内陸部探検の拠点を求めてこの地を選びました。
都市は植民地行政の中心となり、後にパラグアイの首都として発展しました。
現在も多くのコロニアル建築が残り、歴史的価値の高い都市です。
1537年
アスンシオン
天文18年7月22日
フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。
1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本初のキリスト教布教が始まりました。
ザビエルは鹿児島で大友宗麟の庇護を受けながら布教を開始しました。
日本人への初のミサやキリスト教用語の学習を通じ、宣教活動を根付かせようと努めました。
その後、京都や堺など西日本各地へと伝道範囲を広げ、日本の宗教文化に大きな影響を及ぼしました。
この出来事は日本史における異文化交流の始まりと位置づけられています。
1549年
天文
7月22日
フランシスコ・ザビエル
鹿児島
キリスト教
天正元年7月18日
槇島城の戦い: 宇治・槇島城に立て籠っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。
1573年、槇島城の戦いで足利義昭が織田信長に降伏し、室町幕府が滅亡しました。
宇治川河畔の槇島城に立て籠もった足利義昭は、織田信長の大軍に包囲されました。
義昭は抵抗を断念し降伏し、京都を追放されて室町幕府は事実上終焉を迎えました。
この出来事は日本の戦国時代における政権交代の象徴的な事件です。
信長の天下統一への道筋を固める重要な転機となりました。
1573年
天正
7月18日
槇島城の戦い
槇島城
足利義昭
織田信長
室町幕府
1760年
七年戦争: リーグニッツの戦い
七年戦争中の1760年8月15日にリーグニッツで行われた、プロイセン軍とオーストリア・神聖ローマ帝国連合軍の激突。
1760年8月15日、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍とオーストリア・神聖ローマ帝国連合軍がリーグニッツ(現ポーランド)で衝突。
戦力では劣っていたプロイセン軍が巧妙な戦術で側翼を突破し、連合軍を撃退。
戦闘は約5時間続き、結果的にプロイセン軍の勝利に終わった。
この勝利によりプロイセンは戦況を好転させ、フリードリヒ大王の名声を高めた。
七年戦争における転換点の一つとされる一戦。
1760年
七年戦争
リーグニッツの戦い
1843年
デンマーク・コペンハーゲンにチボリ公園が開園。
1843年8月15日にコペンハーゲンで開園した、世界で2番目に古い遊園地。
1843年8月15日、ゲオルク・カーステンセンの提案でチボリ公園が開園。
デンマーク語で“おとぎ話”を意味する名称が付けられた。
遊園地としては世界で2番目に古く、東洋風建築や夜間のイルミネーションが名物。
開園当初から市民に人気を博し、コペンハーゲンの観光名所となった。
その後も多くの芸術家や作家に愛され、文化的な影響を与え続けている。
1843年
デンマーク
コペンハーゲン
チボリ公園