1099年
第1回十字軍: アスカロンの戦い。
第1回十字軍の終盤に行われたアスカロンの戦いで、十字軍がイスラーム勢力を破った歴史的戦闘。
1099年8月12日、エルサレム王国を立てた十字軍はファーティマ朝が支配するアスカロンに進軍しました。両軍は激しい攻防を展開し、最終的に十字軍が勝利を収めます。この勝利によりエルサレム王国の後背地が安定し、その後の中東情勢に大きな影響を与えました。戦いには厳しい戦術と宗教的熱意が混ざり合い、西欧とイスラーム世界の対立を象徴する出来事となりました。アスカロンの戦いは十字軍史上重要な転換点とされます。
1099年
第1回十字軍
アスカロンの戦い
建武2年7月23日
中先代の乱: 鎌倉に幽閉中の護良親王が足利直義の命により暗殺される。
中先代の乱のさなか、鎌倉に幽閉されていた護良親王が足利直義の命を受けて暗殺された事件。
1335年7月23日(建武2年)、後醍醐天皇の皇子であり鎌倉府討伐に参加した護良親王が、鎌倉に幽閉されていたところを足利直義の命令で暗殺されました。この暗殺は中先代の乱における内紛の激化を象徴するもので、足利尊氏と直義らの勢力が皇位継承問題に干渉するきっかけとなりました。護良親王の死後、後醍醐天皇はますます足利氏に対する不信を募らせ、南北朝時代へとつながる対立が深まります。後世の史料には、この暗殺が中先代の乱における権力抗争の典型例として記録されています。歴史的には武家と朝廷の対立構造を鮮明に示す事件とされています。
1335年
建武
7月23日
中先代の乱
護良親王
足利直義
1676年
インディアン戦争: ワンパノアグ族の酋長メタコメットが戦死し、フィリップ王戦争が白人側の勝利で終結。
ワンパノアグ族の酋長メタコメット(フィリップ王)が戦死し、フィリップ王戦争が白人植民地側の勝利で終結した戦争の終幕。
1676年8月12日、現在のアメリカ東部で先住民族ワンパノアグ族の指導者メタコメット(通称フィリップ王)が戦死し、フィリップ王戦争は終結しました。戦争はイギリス植民地と先住民の対立が激化したもので、両者合わせて数千人が犠牲となる大規模な衝突でした。メタコメットの戦死により先住民抵抗勢力は壊滅し、ニューイングランド植民地の支配が確固たるものとなります。植民地政府は以後、先住民との関係をさらに厳格に統制する政策を取るようになります。この戦争はアメリカ先住民族史における重要な転換点とされています。
1676年
インディアン戦争
ワンパノアグ族
メタコメット
フィリップ王戦争
1759年
七年戦争: クネルスドルフの戦いが行なわれる。
七年戦争中、プロイセン軍がロシア・オーストリア連合軍に大敗したクネルスドルフの戦い。
1759年8月12日、七年戦争においてフリードリヒ2世率いるプロイセン軍はクネルスドルフ(現在のポーランド領)でロシア・オーストリア連合軍と交戦しました。プロイセン軍は堅固な防御陣地を築いていましたが、数の不利と戦術的な失策により壊滅的な敗北を喫します。この敗北はプロイセン軍の戦力を大きく削ぎ、フリードリヒ2世の指揮力にも大きな打撃となりました。戦後、プロイセンは同盟関係の再構築を急ぎ、戦争の行方は一時的に不透明となります。歴史家はクネルスドルフの敗北を「プロイセンの危機」と呼び、七年戦争の転機の一つと位置づけています。
1759年
七年戦争
クネルスドルフの戦い
天保8年7月12日
モリソン号事件: 鹿児島湾で砲撃を受けたモリソン号が退去。
モリソン号が鹿児島湾で砲撃を受け退去した、江戸幕府の鎖国政策を象徴する事件。
1837年7月12日(天保8年)、アメリカ商船モリソン号が漂流民の救助と宣教を目的に鹿児島湾に接近しましたが、幕府の異国船打払令により砲撃を受け退去を余儀なくされました。この砲撃は薩摩藩士によって行われ、日本の鎖国政策の厳しさを象徴する出来事となりました。国内外でこの事件が報じられたことで、江戸幕府の対外政策に対する批判も高まりました。モリソン号事件は後の安政の開国交渉への伏線ともされ、幕末動乱のプロローグ的意味合いを帯びています。
1837年
天保
7月12日
モリソン号事件
鹿児島湾
1898年
米西戦争: アメリカ・スペイン両軍の戦闘が完全に終結。
米西戦争の戦闘が公式に終結し、両国間の敵対行為に幕が下りました。
1898年8月12日、米西戦争におけるアメリカ合衆国とスペイン王国の軍事衝突は事実上終結しました。戦争は4月に始まり、カリブ海と太平洋地域を舞台に両海軍が激突しました。戦闘終結後、両国は和平交渉を進め、同年12月にパリ条約が締結され、スペインはフィリピンやプエルトリコをアメリカに割譲しました。戦闘終結は米国の海軍力優位を示す一方、スペインの海外帝国支配の終焉を象徴しました。この戦争はアメリカの国際的影響力を拡大し、世界の勢力図に大きな変化をもたらしました。
1898年
米西戦争
アメリカ
スペイン
1914年
第一次世界大戦: イギリスがオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告。
イギリス帝国がオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告し、第一次世界大戦がさらに拡大しました。
1914年8月12日、第一次世界大戦においてイギリス帝国はオーストリア・ハンガリー帝国に対して宣戦布告しました。これにより連合国側は大陸戦線だけでなく、植民地戦線でも戦いを進めることになりました。ドイツ帝国との同盟関係を背景に、イギリスは広範な海軍力を駆使して海上封鎖を強化しました。イギリスの宣戦布告は連合国の戦争指導を本格化させ、世界規模の総力戦へと戦況を拡大させました。また、戦時動員体制の整備も加速しました。
1914年
第一次世界大戦
イギリス
オーストリア・ハンガリー帝国
宣戦布告
1944年
第二次世界大戦・ノルマンディー上陸作戦: ファレーズ・ポケットがはじまる。
1944年8月12日、ノルマンディー上陸作戦の一環として連合軍がフランス北西部ファレーズ地域を包囲し、ドイツ軍殲滅を狙ったファレーズ・ポケット包囲戦が始まりました。
ファレーズ・ポケットは、ノルマンディー上陸作戦(オペレーション・オーバーロード)後の連合軍による大規模な包囲・殲滅作戦です。1944年6月の上陸から続く戦線を押し上げた連合軍は、8月中旬にかけてドイツ第7軍・第5装甲軍を狭い範囲に閉じ込めました。包囲した地域はファレーズとシャルトル間の谷間で、「ポケット」と呼ばれました。連合軍の空爆と砲撃、地上部隊の連携でドイツ軍は壊滅的被害を受け、多くの捕虜を出しました。この戦いは西部戦線の決定的勝利の一つとされ、パリ解放への足がかりとなりました。
1944年
第二次世界大戦
ノルマンディー上陸作戦
ファレーズ・ポケット
1945年
第二次世界大戦・現在の北朝鮮国内にあたる羅津、清津にソ連軍が上陸。
1945年8月12日、ソ連軍が対日参戦の一環として朝鮮半島北東部の羅津と清津に上陸し、北朝鮮地域の占領を開始しました。
ソ連は1945年8月8日に日本への宣戦布告を行い、満州方面で侵攻を開始しました。続いて8月12日、朝鮮半島北東部の港湾都市である羅津(ラジン)と清津(チョンジン)に上陸し、さらに内陸へ進出しました。これにより朝鮮半島は38度線を境にソ連と米国の占領地域に分割され、後の南北分断の要因となりました。冷戦初期の重要な出来事であり、現在の朝鮮半島情勢にも影響を与えています。
1945年
北朝鮮
羅津
清津