1928年
5月17日から開催されていた第9回夏季オリンピック・アムステルダム大会が閉幕。
アムステルダムで開催された第9回夏季オリンピックが閉会式を迎え、選手たちの熱戦に幕が下りました。
1928年8月12日、第9回夏季オリンピック・アムステルダム大会は正式に閉幕しました。大会は5月17日から開催され、約46カ国から約2800名の選手が出場し、24競技でメダルを争いました。新種目として近代五種が追加されるなど、オリンピックの歴史における発展を示した大会でした。女性選手の参加数も増加し、女性スポーツの発展に寄与しました。大会の成功はオランダ国内のスポーツ振興にもつながりました。
1928年
5月17日
第9回夏季オリンピック・アムステルダム大会
1957年
大阪テレビ放送が民間放送初の全国高等学校野球選手権大会テレビ実況放送を開始。
1957年8月12日、大阪テレビ放送が全国高等学校野球選手権大会を民放初のテレビ実況中継で放送し、スポーツ中継の新時代を開きました。
この日、大阪テレビ放送(現・毎日放送)は日本の民間放送局として初めて高校野球全国大会の全試合テレビ実況中継を開始しました。それまでラジオ中心だった高校野球中継に映像が加わったことで、全国の視聴者が試合の興奮を映像で体験できるようになりました。中継の成功はテレビ普及とスポーツコンテンツの価値を高め、後のスポーツ中継文化の発展に大きく寄与しました。
大阪テレビ放送
全国高等学校野球選手権大会
1962年
堀江謙一が日本人初の小型ヨットによる単独無寄港太平洋横断航海に成功。「マーメイド号」(全長5.83m)で5月12日、兵庫県西宮を出航し、サンフランシスコに到着。
1962年8月12日、堀江謙一が全長5.83mの小型ヨット「マーメイド号」で単独無寄港の太平洋横断に成功しました。
堀江謙一は5月12日に兵庫県西宮を出航し、約94日後にサンフランシスコに到着しました。総航行距離は約5,716海里(約10,589km)に及び、当時の小型ヨットとしては極めて難易度が高い挑戦でした。航海中は激しい嵐や機材の破損、食料不足など多くの困難に直面しましたが、見事に成し遂げました。この偉業は日本の冒険精神を象徴し、世界中から注目を集めるとともに、海洋冒険への関心を高めるきっかけとなりました。
1962年
堀江謙一
太平洋
航海
マーメイド
5月12日
兵庫県
西宮
サンフランシスコ
1964年
IOCが同国の人種隔離政策のため南アフリカ共和国をオリンピックから追放。
IOCは南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策を理由に、1964年の東京オリンピックから同国を追放しました。
IOCは1964年に東京オリンピック開催を目前に控え、南アフリカ共和国の人種隔離政策(アパルトヘイト)を理由に追放を決定しました。
同国は1910年以来のアパルトヘイト制度を維持しており、国際的な批判が高まっていました。
IOCの決定はオリンピック憲章が掲げる人種差別撤廃の原則を遵守するものでした。
南アフリカはこの結果、1964年から1992年までオリンピック参加を禁止されました。
1990年代初頭の政治改革を経て、1992年のバルセロナ大会で再び五輪に復帰しました。
人種隔離政策
南アフリカ共和国
1984年
7月28日から開催されていた第23回夏季オリンピック・ロサンゼルス大会が閉幕。
1984年8月12日、ロサンゼルス五輪(第23回夏季大会)が盛大に閉幕しました。
1984年8月12日、第23回夏季オリンピック・ロサンゼルス大会の競技がすべて終了し、盛大に閉幕しました。
この大会は東欧諸国のボイコットという政治的背景の中で開催されました。
商業スポンサーシップの積極的導入により、大規模な収益を生み出した最初の五輪と称されます。
アメリカ合衆国は金メダルを中心に全体で174個のメダルを獲得し、圧倒的な強さを示しました。
ロサンゼルス大会の成功は、その後のオリンピック運営モデルに大きな影響を与えました。
1984年
7月28日
第23回夏季オリンピック・ロサンゼルス大会
1994年
メジャーリーグベースボールの選手会がサラリーキャップの導入に反発し、以後232日間に及ぶプロスポーツ史上最大のストライキに突入(→1994年から1995年のMLBストライキ)。
1994年8月12日、MLB選手会がサラリーキャップ導入に反対してストライキに突入し、232日間に及ぶプロスポーツ史上最大の労働争議となりました。
メジャーリーグベースボール(MLB)では選手会とオーナー側が収入分配をめぐり対立していました。
オーナー側がサラリーキャップの導入を要求したのに対し、選手会は反発し8月12日に公式戦のストライキを開始。
232日間にわたる試合中断はワールドシリーズの中止を招き、ファンに大きな失望を与えました。
1995年3月に臨時協定が結ばれ試合は再開されましたが、この争議はプロスポーツにおける労使関係の難しさを浮き彫りにしました。
1994年
メジャーリーグベースボール
選手会
サラリーキャップ
ストライキ
1994年から1995年のMLBストライキ
2011年
Jリーグの横浜F・マリノスが前年まで同クラブに所属し、同年8月4日に急逝した松田直樹が着けていた背番号3番を永久欠番にすると発表。J1クラブが選手個人の背番号を永久欠番としたのはこれが初。
2011年8月12日、横浜F・マリノスが松田直樹の背番号3番を永久欠番とすることを発表し、J1史上初の措置となりました。
2011年8月4日に急逝した元日本代表DF・松田直樹選手は、長年横浜F・マリノスで活躍しました。
同年8月12日にクラブは彼の功績を称え、着用していた背番号3番を永久欠番とすることを発表。
Jリーグのクラブが個人の背番号を正式に欠番としたのはこれが初で、松田選手への敬意を示す象徴的な決定となりました。
ファンや関係者からは惜しみない賛辞が寄せられ、Jリーグにおける背番号の意味を見直す契機ともなりました。
2011年
Jリーグ
横浜F・マリノス
8月4日
松田直樹