1492年
初のコンクラーヴェによりアレクサンデル6世がローマ教皇に選出。
初のコンクラーヴェでアレクサンデル6世がローマ教皇に選出された日です。ボルジア家出身の教皇が中世後期の教会改革に影響を与えました。
1492年8月11日、教皇選挙会議(コンクラーヴェ)でアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)が選出されました。
彼は教会の財政再建や教皇権の強化を図る一方、家族の私益を優先したとも批判されます。
ボルジア家の権勢を背景にイタリア半島での政治的立場を固め、後世に「ボルジア」の名を残しました。
この選出は教会政治が世俗権力と密接に絡む一例として知られています。
同年にはコロンブスの新大陸到達もあり、歴史的な転換期の象徴的出来事と言えるでしょう。
1492年
コンクラーヴェ
アレクサンデル6世
ローマ教皇
1584年
天正遣欧少年使節が、ポルトガルのリスボンに到着。
日本の天正遣欧少年使節がリスボンに到着した日です。キリスト教布教と西洋文化交流の先駆けとなりました。
1584年8月11日、伊東マンショら四人の少年使節団「天正遣欧少年使節」がリスボンに到着しました。
彼らはキリシタン大名の要請で派遣され、ローマ教皇に謁見するなど欧州各地を巡りました。
日本最初の公式外交使節として、西洋文化や宗教を将来の日本に持ち帰る役割を担いました。
訪欧中には大学で学び、帰国後の西洋技術導入にも寄与したとされています。
この使節は日葡交流史における重要なマイルストーンです。
1584年
1804年
神聖ローマ皇帝フランツ2世が初代オーストリア皇帝としても即位。
神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝に即位し、初代皇帝となった日です。欧州王朝の再編が進みました。
1804年8月11日、フランツ2世は神聖ローマ皇帝の称号を持ちながら新設されたオーストリア皇帝位に就きました。
これはナポレオン戦争下でフランス皇帝の台頭に対抗するための政治的措置とされています。
オーストリア帝国の成立により、神聖ローマ帝国の解体への道筋が強まります。
フランツ2世は翌1806年に神聖ローマ皇帝位を放棄し、欧州王領域図が大きく変動しました。
欧州近代史の転換点として重要視される出来事です。
1804年
フランツ2世
オーストリア皇帝
1919年
ドイツでヴァイマル憲法をフリードリヒ・エーベルト大統領が認証。8月14日公布。
ヴァイマル憲法がエーベルト大統領により認証され、ドイツ共和国の憲法が施行された日です。民主主義の礎となりました。
1919年8月11日、フリードリヒ・エーベルト大統領は新憲法(ヴァイマル憲法)を正式に認証しました。
第一次世界大戦後の混乱期に成立したドイツ初の民主憲法で、議会制民主主義と基本的人権を保障しています。
憲法は社会権や参政権の拡大を盛り込み、近代国家のモデルとされました。
8月14日の公布後、ヴァイマル共和国の政治体制が本格的に始動しました。
一方で経済危機や極右勢力の台頭により、その成果は後の歴史に翻弄されることになります。
1919年
ドイツ
ヴァイマル憲法
フリードリヒ・エーベルト
8月14日
1920年
リガでラトビアとソビエト連邦が平和条約を締結し、ラトビアが独立を宣言した。
リガ条約でラトビアがソ連と平和条約を締結し、独立を宣言した日です。バルト三国の自主権回復に向けた一歩でした。
1920年8月11日、ラトビアとロシア・ソビエト連邦政府はリガ条約を締結しました。
この平和条約により、ロシア側はラトビアの独立を承認し、領域保障を約束しました。
ラトビアは1918年の独立宣言後、独立戦争を経て国際的に承認を得るに至りました。
条約はバルト三国の国際的地位確立に大きく貢献し、欧州地図を再編しました。
独立国家としての主権回復が正式に確定した歴史的瞬間です。
1920年
リガ
ラトビア
と
ソビエト連邦
1952年
ヨルダンでタラール1世が軍部により廃されフセイン1世が即位。
ヨルダンでタラール1世が廃位され、フセイン1世が即位した政治的転換点です。
1952年8月11日、ヨルダンの国王タラール1世が軍部のクーデターにより廃位され、フセイン1世が新たに即位しました。
タラール1世は精神疾患を理由に退位を余儀なくされ、わずか一年の在位期間となりました。
一方、即位したフセイン1世は長期政権を築き、ヨルダンの安定と中東和平に向けた外交を展開しました。
彼の治世は46年にも及び、中東における重要な指導者として知られます。
この出来事はヨルダン王室の歴史的転換点となりました。
1952年
ヨルダン
タラール1世
フセイン1世
1952年
日米民間航空協定調印。
日米民間航空協定が調印され、両国間の定期航空便運航の基盤が築かれました。
1952年8月11日、日本政府とアメリカ政府は日米民間航空協定に調印しました。
この協定により、両国間の定期航空便の運航枠や運賃、運航条件が正式に定められました。
戦後の占領下から独立国家への復帰を果たした日本にとって、国際航空網への復帰は重要なステップでした。
協定は日本の観光・貿易の拡大を後押しし、航空産業の発展に寄与しました。
また日米の経済・文化交流が促進される契機ともなりました。
日米民間航空協定
1960年
チャドがフランスからの独立を宣言。
チャドがフランスからの独立を宣言し、アフリカで新たな主権国家が誕生しました。
1960年8月11日、チャドはフランスからの独立を宣言し、同国の主権を確立しました。
チャドは植民地時代を経て、アフリカのみならず国際社会における新興独立国家の一つとなりました。
独立後は政治的混乱や内戦など困難な時期を迎えましたが、現在もアフリカ大陸の一員として活動を続けています。
独立宣言は当時のアフリカ独立運動の波の一部であり、他の植民地にも影響を与えました。
チャドの独立は「1960年のアフリカの年」を象徴する出来事の一つです。
1960年
チャド
フランス
1965年
「同和対策審議会」が内閣総理大臣に対し答申を提出した。
1965年8月11日、同和対策審議会が内閣総理大臣に答申を提出し、部落差別解消に向けた施策を提起した。
同和対策審議会は、部落差別の実態を調査し、解消に向けた政策を審議するために設置された政府の審議機関です。
1965年8月11日、同審議会は初となる答申を内閣総理大臣に提出し、教育支援や雇用促進、住宅改善など具体的な施策を提言しました。
この答申は政府による同和対策を本格化させる契機となり、後の法整備や予算編成に大きな影響を与えました。
部落解放運動や人権擁護の機運が高まる中で、行政と地域住民の協力体制を構築する一歩となったことが評価されています。
今日の人権政策の先駆けとして、同和対策審議会の活動は歴史的に重要な意義を持ちます。
1979年
中国の『人民日報』が、陳慕華の「今世紀末の人口増加率のゼロ目標」と「計画生育法(一人っ子政策)」の準備を掲載。政策は、2015年10月29日に廃止された。
1979年8月11日、『人民日報』が一人っ子政策の準備を報じ、21世紀末までの人口増加率ゼロ目標を掲げた。
1979年8月11日、中国共産党中央政府の機関紙『人民日報』が陳慕華のインタビューを掲載しました。
そこでは『今世紀末の人口増加率をゼロとする』目標が示され、計画生育法(一人っ子政策)の準備が報じられました。
この報道は後に一人っ子政策として正式に立法化され、1980年代初頭から全国的に実施されました。
政策は都市部を中心に家族構成や社会習慣に大きな変化をもたらし、出生率の抑制に効果を与えました。
一人っ子政策は2015年10月29日に廃止され、その長期的な社会的影響は現在も議論が続いています。
1979年
中国
人民日報
陳慕華
一人っ子政策
2015年
10月29日
1984年
冷戦: ロナルド・レーガン米大統領がラジオ演説前のマイクテストで「我々は5分で(ロシアへの)爆撃を開始する」とジョーク発言する。のちに音源をリークされ、波紋を呼ぶ。
1984年8月11日、レーガン米大統領がラジオ演説前のマイクテストで核攻撃を示唆するジョークを発言し、波紋を呼んだ。
冷戦下の1984年8月11日、ロナルド・レーガン大統領は公開演説のマイクテスト中に『我々は5分で(ロシアへの)爆撃を開始する』と冗談を述べました。
この発言は当初公にはされませんでしたが、後に音声がリークされて大きな注目を浴びました。
ソビエト連邦側では不安が広がり、冷戦期における核抑止の脆弱性が議論される契機となりました。
ホワイトハウスはこれを軽口として説明しましたが、政治的波紋は収まりませんでした。
この一幕は、指導者の言葉の影響力と核時代における発言管理の重要性を示す象徴的な出来事として語り継がれています。
1984年
冷戦
ロナルド・レーガン
米大統領
我々は5分で(ロシアへの)爆撃を開始する
ジョーク
リーク
1987年
アラン・グリーンスパンが連邦準備制度理事会議長に就任。
1987年、アラン・グリーンスパンが米連邦準備制度理事会議長に就任し、その後約19年間にわたり米国の金融政策を主導しました。
アラン・グリーンスパンは経済学者として知られ、ロナルド・レーガン大統領によって連邦準備制度理事会(Fed)議長に任命されました。就任当初はインフレ抑制を重視するスタンスが市場から高く評価されました。彼は在任中に低金利政策や量的緩和を通じてアメリカ経済の安定化と成長を図りました。金融市場から「経済の預言者」と称されるほどの信頼を集めましたが、ITバブル崩壊や2008年の世界金融危機への対応については賛否が分かれています。2006年に退任するまで約19年間にわたり米国の金融政策を担い、その影響力は世界経済にも及びました。
1987年
アラン・グリーンスパン
連邦準備制度