紀元前3114年

長期暦(マヤ暦)の始まりの日。

マヤ文明で用いられた長期暦が始まった日です。時間を大きな周期で捉える独自の暦システムが形成されました。
マヤ文明の長期暦(ロングカウント)は紀元前3114年8月11日を起点としています。 この暦は約5,125年で一つの大周期(バクトゥン)を完結させる壮大な時間観を特徴とします。 神話や天文学と深く結びつき、宗教儀式や建築にも反映されました。 欧米の暦とは異なる複雑な位取りを持ち、現代の歴史学や考古学研究でも重要な手がかりとなっています。 近年の「マヤ暦終焉」説などで再び注目を集めました。
紀元前3114年 長期暦
1492年

初のコンクラーヴェによりアレクサンデル6世がローマ教皇に選出。

初のコンクラーヴェでアレクサンデル6世がローマ教皇に選出された日です。ボルジア家出身の教皇が中世後期の教会改革に影響を与えました。
1492年8月11日、教皇選挙会議(コンクラーヴェ)でアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)が選出されました。 彼は教会の財政再建や教皇権の強化を図る一方、家族の私益を優先したとも批判されます。 ボルジア家の権勢を背景にイタリア半島での政治的立場を固め、後世に「ボルジア」の名を残しました。 この選出は教会政治が世俗権力と密接に絡む一例として知られています。 同年にはコロンブスの新大陸到達もあり、歴史的な転換期の象徴的出来事と言えるでしょう。
1492年 コンクラーヴェ アレクサンデル6世 ローマ教皇
1584年

天正遣欧少年使節が、ポルトガルのリスボンに到着。

日本の天正遣欧少年使節がリスボンに到着した日です。キリスト教布教と西洋文化交流の先駆けとなりました。
1584年8月11日、伊東マンショら四人の少年使節団「天正遣欧少年使節」がリスボンに到着しました。 彼らはキリシタン大名の要請で派遣され、ローマ教皇に謁見するなど欧州各地を巡りました。 日本最初の公式外交使節として、西洋文化や宗教を将来の日本に持ち帰る役割を担いました。 訪欧中には大学で学び、帰国後の西洋技術導入にも寄与したとされています。 この使節は日葡交流史における重要なマイルストーンです。
1584年
1711年

イギリスのアスコット競馬場で初のレースが行なわれる。

イギリスのアスコット競馬場で最初のレースが行われた日です。王室が後援し競馬文化の発展に寄与しました。
1711年8月11日、イギリス・バークシャー州にあるアスコット競馬場で最初の競馬大会が開催されました。 創設はアン女王の発案と伝えられ、貴族や王族が観覧する社交の場としても発展しました。 当初は数レースのみの小規模な催しでしたが、後にロイヤルアスコットとして名声を得ます。 今日では英国を代表する競馬イベントの一つとなり、多くの観光客や馬主を集めています。 長い歴史を持つスポーツ文化の象徴的存在です。
1711年 イギリス アスコット競馬場
1711年

スペイン継承戦争: サン・ホアキンの拿捕

スペイン継承戦争中にサン・ホアキン号が拿捕された海戦の一幕です。大陸間の海上航路を巡る攻防の一端を示します。
1711年8月11日、スペイン継承戦争下の海戦でスペインの商船サン・ホアキン号が拿捕されました。 この戦争はスペイン王位継承問題を巡り、ヨーロッパ列強が複数の戦場で衝突した大規模紛争です。 拿捕は商船の物資補給線を断つ戦略の一環で、戦況に影響を与えました。 海上での私掠船や艦隊行動が活発化し、貿易ルートの安全確保が課題となりました。 海戦の詳細は限られるものの、戦争史研究で注目される一事件です。
スペイン継承戦争 サン・ホアキンの拿捕
1804年

神聖ローマ皇帝フランツ2世が初代オーストリア皇帝としても即位。

神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝に即位し、初代皇帝となった日です。欧州王朝の再編が進みました。
1804年8月11日、フランツ2世は神聖ローマ皇帝の称号を持ちながら新設されたオーストリア皇帝位に就きました。 これはナポレオン戦争下でフランス皇帝の台頭に対抗するための政治的措置とされています。 オーストリア帝国の成立により、神聖ローマ帝国の解体への道筋が強まります。 フランツ2世は翌1806年に神聖ローマ皇帝位を放棄し、欧州王領域図が大きく変動しました。 欧州近代史の転換点として重要視される出来事です。
1804年 フランツ2世 オーストリア皇帝
1858年

チャールズ・バリントンらがアイガーに初登頂。

チャールズ・バリントンが難峰アイガーの初登頂に成功した日です。アルプス登山史における快挙として知られています。
1858年8月11日、イギリスの登山家チャールズ・バリントンと同行者がアルプス山脈のアイガー山頂に初めて立ちました。 アイガーは険しい北壁で有名で、登山家たちに恐れられてきた山です。 バリントンは地元ガイドの協力を得ながら未踏ルートを切り開き、歴史的な快挙を成し遂げました。 この成功はアルプス登山ブームの火付け役となり、後の多くの挑戦を促しました。 登山史における象徴的な一歩として高く評価されています。
1858年 チャールズ・バリントン 英語版 アイガー
1909年

クライド・ラインのアラパホ号がハッテラス岬沖で世界初の遭難信号「SOS」を発信し、救助される。

アラパホ号が世界初のSOS遭難信号を発信し、無事に救助された日です。航海無線の歴史的瞬間となりました。
1909年8月11日、クライド・ラインの貨客船アラパホ号がハッテラス岬沖で難破し、世界初のSOS信号を発信しました。 それまで主流だった遭難信号「CQD」を超える新たな国際符号として採用されました。 信号は無線通信士ヘンリー・スター・キーにより送信され、沿岸警備隊が迅速に救助に向かいました。 乗組員は全員無事に救出され、SOSの有効性が証明されました。 以後、SOSは国際海事局で正式な遭難信号として定着しました。
1909年 クライド・ライン ハッテラス岬 遭難信号 SOS
1919年

ドイツでヴァイマル憲法をフリードリヒ・エーベルト大統領が認証。8月14日公布。

ヴァイマル憲法がエーベルト大統領により認証され、ドイツ共和国の憲法が施行された日です。民主主義の礎となりました。
1919年8月11日、フリードリヒ・エーベルト大統領は新憲法(ヴァイマル憲法)を正式に認証しました。 第一次世界大戦後の混乱期に成立したドイツ初の民主憲法で、議会制民主主義と基本的人権を保障しています。 憲法は社会権や参政権の拡大を盛り込み、近代国家のモデルとされました。 8月14日の公布後、ヴァイマル共和国の政治体制が本格的に始動しました。 一方で経済危機や極右勢力の台頭により、その成果は後の歴史に翻弄されることになります。
1919年 ドイツ ヴァイマル憲法 フリードリヒ・エーベルト 8月14日
1920年

リガでラトビアとソビエト連邦が平和条約を締結し、ラトビアが独立を宣言した。

リガ条約でラトビアがソ連と平和条約を締結し、独立を宣言した日です。バルト三国の自主権回復に向けた一歩でした。
1920年8月11日、ラトビアとロシア・ソビエト連邦政府はリガ条約を締結しました。 この平和条約により、ロシア側はラトビアの独立を承認し、領域保障を約束しました。 ラトビアは1918年の独立宣言後、独立戦争を経て国際的に承認を得るに至りました。 条約はバルト三国の国際的地位確立に大きく貢献し、欧州地図を再編しました。 独立国家としての主権回復が正式に確定した歴史的瞬間です。
1920年 リガ ラトビア ソビエト連邦
1929年

ベイブ・ルースが史上初の生涯通算500ホームランを記録。

ベーブ・ルースが通算500本塁打を達成した、野球史に刻まれた偉大な瞬間です。
1929年8月11日、ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースは、クリーブランド・インディアンス戦で史上初の通算500本塁打を記録しました。 この記録はこれまで積み重ねられた数々の名場面と、その長打力を象徴する大偉業とされ、当時の野球界に衝撃を与えました。 ベーブ・ルースはその豪快なスイングとカリスマ性で、野球人気を一気に高めた立役者でもあります。 500本塁打到達の瞬間はラジオ実況や新聞で大きく取り上げられ、国民的ヒーローとしての地位を不動のものとしました。 この偉業は後世の選手たちの目標となり、メジャーリーグの歴史に燦然と輝いています。
1929年 ベイブ・ルース ホームラン
1933年

ソビエト連邦でT 35重戦車が制式化。

ソビエト連邦でT-35重戦車が制式化され、多砲塔戦車の代表例となりました。
1933年8月11日、ソビエト連邦はT-35重戦車を正式に採用しました。 T-35は複数の砲塔を備えたマルチタレット方式を特徴とし、大戦車としての威圧感を重視した設計でした。 総重量は約45トンに達し、歩兵支援や要塞攻撃を目的として配備されました。 しかし高コストと整備の難しさから生産台数は限られ、実戦での運用にも課題が残りました。 その後の戦車開発史において、多砲塔戦車のコンセプトは見直されるきっかけとなりました。
1933年 ソビエト連邦 T-35重戦車