610年

ムハンマドの前に大天使ジブリールが現れ、最初の神からの啓示を与える(伝承による日付)。

イスラム教の開祖ムハンマドが大天使ジブリールから最初の啓示を受けたとされる伝承の日です。
610年8月10日と伝えられるこの日は、預言者ムハンマドが神の使いである大天使ジブリール(ガブリエル)から最初の啓示を授かったとされます。 この出来事はイスラム教の教典『コーラン』の啓示が始まる契機となり、イスラム世界における宗教運動の黎明を告げました。 以降、ムハンマドはメッカやメディナで布教活動を展開し、イスラム共同体(ウンマ)が形成されていきます。 この伝承はイスラム暦の始まりにも深く関わり、世界中のムスリムにとって重要な歴史的・宗教的意義を持ちます。 ただし、正確な日付は諸説あり、後世の伝承によるものです。
610年 ムハンマド ジブリール 神からの啓示
843年

ヴェルダン条約の締結 :フランク王国がルートヴィヒ敬虔帝の3人の子に分割され、東フランク王国・西フランク王国・中部フランク王国が成立。

ヴェルダン条約により、フランク王国が三分割され東西中部の各王国が成立しました。
843年8月10日に締結されたヴェルダン条約は、ルートヴィヒ敬虔帝の後継争いを調停するものでした。 この条約によってフランク王国は東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国の3つに分割され、それぞれの君主が統治権を掌握しました。 分割統治の原則は西ヨーロッパの国境線の源流となり、現在のドイツとフランスの国土形成に大きな影響を与えました。 また、領土分割は「部分相続」の概念を広め、中世ヨーロッパの政治構造に変革をもたらしました。 この条約はカロリング朝の分裂を象徴し、ヨーロッパ史における転換点として評価されています。
843年 ヴェルダン条約 フランク王国 ルートヴィヒ敬虔帝 東フランク王国 西フランク王国 中部フランク王国
955年

レヒフェルトの戦い :神聖ローマ皇帝オットー1世率いるドイツ軍がハンガリー軍を撃退し、50年に及ぶハンガリーの西方侵略が終結する。

オットー1世率いる東フランク軍がハンガリー軍を打ち破り、西方侵略を終結させた戦いです。
955年8月10日、ドナウ川西岸のレヒフェルト近郊で神聖ローマ皇帝オットー1世がハンガリー(マジャール)軍を迎え撃ちました。 この戦いに勝利したオットー1世は、50年に及ぶマジャールの襲撃を終わらせ、西ヨーロッパの安定を確保しました。 オットー1世はこの功績により『聖皇帝』の称号を得て、962年に正式に神聖ローマ帝国を創始しました。 レヒフェルトの戦いは中世ヨーロッパの軍事戦術に影響を与え、封建制度下の統治基盤を強化する契機となりました。 また、この勝利はドイツ王権と教会が協力するモデルを示し、後の宗教的・政治的協調へとつながりました。
955年 レヒフェルトの戦い オットー1世
991年

モルドンの戦い :イングランドはモルドンの太守ビュルフトヌス、侵入してきたヴァイキングを迎え撃つも敗北。

イングランドの指導者ビュルフトヌス率いる軍がヴァイキングに敗北した戦いです。
991年8月10日、イングランド東部エセックスのモルドン近郊で、太守ビュルフトヌスがヴァイキングの襲撃を迎え撃ちました。 古英語叙事詩『モルドンの戦い』に記録されたこの戦闘では、指導者の勇敢さと戦術が語り継がれています。 しかし、イングランド軍はヴァイキングの機動力と戦闘技術に圧倒され、多くの戦士を失い敗北を喫しました。 この敗北は王権の弱体化を招き、以後のデーン人の侵攻を助長する一因となりました。 『モルドンの戦い』はイギリス文学史に残る叙事詩として、武勇伝を今に伝えています。
991年 モルドンの戦い イングランド モルドン 英語版 ビュルフトヌス 英語版 ヴァイキング
1270年

ザグウェ朝を滅ぼしたイクノ・アムラクが、1975年まで続くエチオピア帝国(ソロモン朝)の初代皇帝に即位。

ザグウェ朝を滅ぼし、ソロモン朝として知られるエチオピア帝国の初代皇帝に即位しました。
1270年8月10日、イクノ・アムラクがザグウェ朝を打倒し、エチオピアにソロモン朝を樹立しました。 彼はダヴィッド王とソロモン王の子孫と称され、エチオピア帝国の正統性を宗教的に裏付けました。 ソロモン朝は以後700年以上続き、1975年のハイレ・セラシエ1世まで同一王朝が支配を維持しました。 イクノ・アムラクの治世下でキリスト教が国教として確立し、ラリベラの岩窟教会など宗教建築が発展しました。 この王朝はアクスム王国以来のエチオピア文化を継承し、独自の文字と儀式を発展させました。
1270年 ザグウェ朝 イクノ・アムラク 1975年 エチオピア帝国 ソロモン朝
天正12年7月5日

天正遣欧少年使節がリスボンに到着。

天正遣欧少年使節がリスボンに到着し、日本とヨーロッパの交流が深まりました。
1584年8月10日(天正12年7月5日)、伊東マンショ、千々石ミゲルら4人の少年使節がリスボンに到着しました。 この使節団はローマ教皇とスペイン王への謁見を目的に、キリスト教布教を後押しするために派遣されました。 彼らはヨーロッパ各地を訪問し、日本の文化・技術を紹介するとともに、キリスト教文明に触れました。 帰国後も日本のキリスト教勢力や南蛮貿易に影響を与え、異文化交流の先駆けとされています。 この訪欧によって当時の日本国内で西洋技術や思想への関心が高まりました。
1584年 天正 7月5日 天正遣欧少年使節 リスボン
1628年

スウェーデン海軍の戦列艦「ヴァーサ」が処女航海の出航直後に突然沈没する。

スウェーデンの誇る戦列艦『ヴァーサ』が処女航海で沈没した海難事故です。
1628年8月10日、ストックホルム沖で処女航海中のスウェーデン海軍戦列艦ヴァーサ号が転覆して沈没しました。 主砲を過剰に搭載した設計が原因で、風を受けて傾いた際に復元力を失ったとされます。 船体には多くの乗組員や見学者が乗船しており、約30秒で転覆し多くの犠牲者が出ました。 ヴァーサ号は1961年に引き揚げられ、現在は船体がほぼ完全な形で保存されストックホルムのヴァーサ博物館で展示されています。 この事故は海軍建造技術の限界を示し、その後の船体設計に教訓を残しました。
1628年 スウェーデン海軍 ヴァーサ
1675年

イギリス、ロンドンでグリニッジ天文台が着工される。

グリニッジ天文台の工事がロンドンで開始され、近代天文学の拠点が誕生しました。
1675年8月10日、イングランド王チャールズ2世の命によりロンドンのグリニッジ丘でグリニッジ天文台の建設が始まりました。 この天文台はジョン・フラムスティードを初代王立天文学者に迎え、正確な星表作成と航海用経度測定の研究を行いました。 後にグリニッジ子午線が設定され、世界測地系の基準線として採用されました。 天文台の観測データは海洋航行の安全を高め、地図作製や天文学の発展に大きく寄与しました。 グリニッジ天文台は現在も研究と観光の拠点として世界中から訪問者を集めています。
1675年 イギリス ロンドン グリニッジ天文台
1680年

プエブロの反乱が始まる。

プエブロ族がスペイン植民地当局に対して反乱を起こした出来事です。
1680年8月10日、北米南西部のプエブロ族がスペイン支配に対する反乱を開始しました。 スペイン人による宗教強制や部族間関係の悪化を背景に、指導者ポペが蜂起を呼びかけました。 反乱軍はサンタフェを含む多くの入植地を制圧し、一時的にスペイン勢力を追放しました。 このプエブロの反乱は先住民族が組織的に欧州勢力に対抗した重要な事例と言われています。 1692年にスペインは再征服しましたが、後の植民政策に影響を与えました。
1680年 プエブロの反乱
1776年

アメリカ独立宣言書がイギリスのロンドンに届く :アメリカ独立戦争の一局面。

アメリカ独立宣言書がロンドンに届き、イギリス議会に衝撃を与えました。
1776年8月10日、アメリカ独立宣言の正式な写しがロンドンのイギリス議会に届けられました。 この文書の到着はイギリス本国に独立の決意が伝わった象徴的な出来事とされています。 独立宣言はトーマス・ジェファーソンらによって起草され、自由と人権の理念を強く打ち出しました。 イギリス政府はこれを重大な挑戦と受け止め、本格的な戦争遂行の姿勢を強化しました。 独立戦争は以後も激化し、1783年のパリ条約締結まで続くことになります。
1776年 アメリカ独立宣言 イギリス アメリカ独立戦争
1788年

モーツァルトが、自身最後の交響曲となる交響曲第41番を完成させる。

モーツァルトが『ジュピター』の愛称で知られる交響曲第41番を完成した日。彼の音楽的到達点を示す傑作です。
1788年8月10日、モーツァルトは交響曲第41番を完成させました。 この作品は『ジュピター』と呼ばれ、古典派音楽の頂点と評されます。 4楽章構成で複雑な対位法を駆使し、最晩年の傑作として後世に大きな影響を与えました。
1788年 モーツァルト 交響曲第41番
1792年

8月10日事件 :フランス革命の一局面。市民と義勇軍がテュイルリー宮殿を襲撃して国王ルイ16世を逮捕。王権を停止する。

1792年のフランス革命で、テュイルリー宮殿が襲撃され、ルイ16世の王権停止が宣言された歴史的事件。
1792年8月10日、パリのテュイルリー宮殿で市民と義勇兵が蜂起し、国王ルイ16世を捕らえました。 この出来事は立憲君主制から共和制への転換を加速させ、第一共和政樹立の契機となりました。 暴動は国王権威の終焉を象徴し、革命の過激化を示す重要な転機となりました。 市民の政治参加意識が高まり、フランス社会の大変革期を代表する事件です。
1792年 8月10日事件 フランス革命 テュイルリー宮殿 ルイ16世