紀元前48年

ローマ内戦: ファルサルスの会戦。

紀元前48年にローマ内戦の転機となったファルサルスの会戦が行われ、ユリウス・カエサルがポンペイウスを打ち破った。
紀元前49年に始まったポンペイウス派とカエサル派の内戦の一戦。 テッサリア地方のファルサルス平原で行われた。 カエサル軍は兵力で劣勢ながらも巧妙な戦術で勝利。 ポンペイウスは敗走後エジプトへ逃亡することに。 この勝利でカエサルは権力基盤を確立し、ローマ共和政の終焉に大きく寄与。 後のローマ帝国成立への道筋を開いた重要な戦いである。
紀元前48年 ローマ内戦 ファルサルスの会戦
378年

ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。

378年にローマ帝国軍がゴート族に大敗し、西ローマ帝国の衰退を象徴するハドリアノポリスの戦いが起きた。
東ローマ皇帝ウァレンスが領内への侵入ゴート族を討つため出陣。 フィリピを経てハドリアノポリス(現在のエディルネ)近郊で激突。 ローマ軍は騎兵の不手際や情報不足により包囲される。 華々しい騎馬戦を展開したゴート族により皇帝ウァレンスが戦死。 この敗北はローマ軍制の脆弱性を露呈し、西ローマへの道を開いた。 ゲルマン系諸族の侵入を招き、帝国の分裂と衰退を加速させた。
378年 ゴート戦争 ハドリアノポリスの戦い
1134年

2人のノルウェー共同王 : マグヌス・シグルズソンとハーラル・ギッレが全ノルウェー支配権をめぐり、フィリスレイフで戦った。

1134年にノルウェーの共同王マグヌス・シグルズソンとハーラル・ギッレがフィリスレイフで衝突し、王権を巡る内乱が激化した。
マグヌスとハーラルは父系を巡る王位継承権を主張し共同統治を行っていた。 しかし、支配権をめぐる不和から1134年にフィリスレイフで大規模な戦闘が勃発。 両軍は激しい白兵戦を展開し、ノルウェー全土の貴族や傭兵が動員された。 戦いの結末や戦果には諸説あるが、王権争いはその後も長引くことに。 この内乱はノルウェー中世史における分裂と再統一の一端を示す重要事変である。
1134年 マグヌス・シグルズソン ハーラル・ギッレ
1814年

インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。

1814年にクリーク戦争の講和条約「ジャクソン砦条約」が締結され、クリーク族が広大な領土を強制的に割譲させられた。
アメリカ南東部で英米戦争と並行して起きたクリーク戦争の帰結。 アンドリュー・ジャクソン将軍率いる米軍が主要な戦闘で圧勝。 8月9日の調印でクリーク族は2,300万エーカー(約93万ヘクタール)の土地を放棄。 多くの先住民が生活基盤を失い、移住を余儀なくされる悲劇を招いた。 この条約はアメリカ南部の白人入植拡大と先住民排除政策を加速させた。
1814年 インディアン戦争 クリーク戦争 クリーク族 ジャクソン砦条約 英語版 エーカー アメリカ合衆国
1937年

大山事件。上海で偵察中の上海海軍特別陸戦隊・大山勇夫中尉が中国保安隊に殺害される。

1937年8月9日、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉が偵察中に中国保安隊に殺害される事件が発生しました。
上海租界周辺で偵察活動を行っていた大山勇夫中尉率いる日本海軍陸戦隊と中国保安隊の間で緊張が高まり、銃撃戦の末に大山中尉が命を落としました。日本側は中国側の行動を厳しく非難し、上海における治安維持を巡る対立は一層深刻化。この事件は日中間の衝突激化の契機となり、以後の軍事行動を推進する口実の一つとなりました。
1937年 大山事件 上海海軍特別陸戦隊
1944年

第二次世界大戦・継続戦争: ヴィボルグ ペトロザヴォーツク攻勢が終結。

1944年8月9日、継続戦争におけるヴィボルグ・ペトロザヴォーツク攻勢が終了しました。
フィンランドとソ連の間で続いていた継続戦争において、ソ連軍はヴィボルグとペトロザヴォーツクを目指す大規模攻勢を展開しました。熾烈な戦闘の末、8月9日に攻勢作戦は終結。作戦は一部地域でソ連軍の前進を認めつつも、計画目標の全面達成には至りませんでした。両軍とも多大な損害を被り、戦況および後の和平交渉に影響を与える重要な転換点となりました。
1944年 第二次世界大戦 継続戦争 ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢
1945年

第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。

1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄し満州・朝鮮・樺太へ侵攻を開始しました。
第二次世界大戦末期、ソ連は日ソ中立条約の有効期間中にもかかわらず参戦を決定。8月9日未明、満州境界を突破して侵攻を開始し、同時に朝鮮北部や樺太南部へも攻撃を拡大しました。短期間で広範囲の地域が占領され、日本の降伏決断を一層促進。戦後の北東アジア情勢に大きな影響を及ぼす軍事行動となりました。
1945年 ソ連対日参戦 ソビエト連邦 1946年 日ソ中立条約 満州 朝鮮 樺太
1945年

第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。

1945年8月9日、アメリカ軍が長崎市に原子爆弾を投下しました。
第二次世界大戦の最終盤、広島に続いて長崎に投下された原子爆弾は市街地を壊滅させ、約7万4千人の即死・重傷者を出しました。爆心地周辺では巨大な熱線と爆風が建物を破壊し、放射線被害も甚大でした。被爆者は急性放射線症や火傷に苦しみ、戦後の核兵器の恐怖を象徴する出来事となりました。
アメリカ軍 長崎市への原子爆弾投下
1945年

第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。

1945年8月9日、原爆投下とソ連参戦を受けて御前会議が開催され、終戦への道が開かれました。
8月6日の広島原爆投下に続き、9日に長崎でも原爆が投下され、同日未明にはソ連が対日参戦を宣言しました。これを受けて天皇や閣僚らが御前会議を開催し、ポツダム宣言受諾の是非を審議。翌8月10日に条件付きながら受諾を決定し、日本は降伏への第一歩を踏み出しました。この会議が戦争終結への大きな転換点となりました。
8月6日 広島 長崎への原爆投下 ソ連対日宣戦布告 御前会議 8月10日 ポツダム宣言
2018年

アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった。

アフガニスタンのガズニーで政府軍とターリバーンが激しい戦闘に突入しました。
2018年8月9日、アフガニスタン東部ガズニー市周辺で政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に入りました。 数日間にわたる市街戦では、民間人や兵士を含めて310人以上が死亡したと報告されました。 主要道路や建物が戦火で破壊され、住民は避難を強いられました。 国際的には治安状況悪化への懸念が高まり、和平交渉の行方にも影響を及ぼしました。 この戦闘はアフガニスタン情勢の不安定さを象徴する出来事となりました。
アフガニスタン ガズニー ターリバーン