天武天皇15年7月15日
政を皇后・皇太子に託す。
天武天皇が皇后と皇太子に政務を委任し、皇位継承や儀式運営の実権を移譲した。
686年7月15日(天武天皇15年7月15日)、天武天皇は政務を皇后持統天皇(後の持統天皇)と皇太子軽皇子に託した。
朝廷内の派閥調整や国家儀式執行の実権移行を目的としたとされる。
この措置により、持統天皇は後に即位へ向けた準備を進める。
軽皇子(後の文武天皇)も政治経験を蓄積し、次代皇位への布石となった。
飛鳥時代の皇権体制や律令制確立の過程で重要な転換点となった。
686年
天武天皇
7月15日
1842年
アメリカ合衆国とカナダがウェブスター=アッシュバートン条約に調印。両国の国境線を確定。
1842年にアメリカ合衆国とイギリス領カナダがウェブスター=アッシュバートン条約に調印し、国境線を確定した。
米英間の北東部境界を巡る対立を解決するため交渉が進行。
米国国務長官ダニエル・ウェブスターと英外相ロバート・アッシュバートンが主導。
条約によりメイン州とニューブランズウィック州の境界線が明確化。
グレートレイクス沿岸やセントローレンス川流域の領有権も確定。
安定した国境の確立は、米英の友好関係維持と北米の平和的発展に寄与した。
1842年
ウェブスター=アッシュバートン条約
1869年
ヴィルヘルム・リープクネヒトらがドイツ社会民主労働党を結成。
1869年にヴィルヘルム・リープクネヒトらがドイツ社会民主労働党を結成し、近代社会主義運動の基盤を築いた。
ドイツ帝国成立直後の政治的混乱期に労働者政党の結成が模索される。
8月9日にリープクネヒトやアウグスト・ベーベルらがベルリンで会合。
社会主義と民主主義を掲げる新党「ドイツ社会民主労働党」が発足。
初期は反政府的立場を貫き、労働者の権利保護や選挙権拡大を訴えた。
後に最大政党へ成長し、現代ドイツ政治に影響を与え続ける存在となった。
1869年
ヴィルヘルム・リープクネヒト
ドイツ社会民主労働党
英語版
1902年
イギリス国王エドワード7世と后のアレクサンドラ・オブ・デンマークが戴冠。
1902年8月9日、イギリスでエドワード7世とアレクサンドラ王妃の戴冠式が執り行われました。
ヴィクトリア女王の崩御を受けて、王位を継承したエドワード7世は8月9日に正式に戴冠されました。戴冠式には各国から王族や外交使節が参列し、伝統と格式を重んじる盛大な儀式が展開されました。国内では市民による祝賀パレードや祝砲が行われ、帝国の団結と繁栄が示されました。新しい王朝の門出として、英国およびその海外領土で広く祝福のムードが広がりました。
1902年
イギリス
エドワード7世
アレクサンドラ・オブ・デンマーク
1933年
第1回関東地方防空大演習実施。8月11日、信濃毎日新聞が桐生悠々の社説「関東防空大演習を嗤ふ」を掲載し問題となる。
1933年8月9日、関東地方で初めての大規模防空演習が行われ、世論を巻き込む論争が発生しました。
日本政府は空襲への備えを強化するため関東一帯で大規模な防空演習を実施し、警報発令や避難誘導など実践的な訓練を行いました。しかし演習後、信濃毎日新聞の桐生悠々は社説『関東防空大演習を嗤ふ』で政府の過剰反応や市民への影響を厳しく批判。これにより報道の自由と国家安全保障の境界を巡る論争が勃発し、後の防空政策にも影響を与えました。
1933年
8月11日
信濃毎日新聞
桐生悠々
1941年
大西洋会談開始。チャーチル英首相とルーズベルト米大統領が大西洋上の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ内で日独伊のファシズムへの対処について会談。
1941年8月9日、チャーチル首相とルーズベルト大統領が戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で会談を開始しました。
第二次世界大戦中、英国と米国の首脳が大西洋上の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ内で直接会談を行い、日独伊のファシズム勢力への対応策を協議しました。会談では戦後の国際秩序構想についても意見交換が行われ、連合国の協力体制強化が確認されました。会談後には共同声明が発表され、英米両国の緊密な連携姿勢が国際社会に示されました。戦後の国際連合設立議論にも影響を与えた重要な外交イベントです。
1941年
大西洋会談
チャーチル
ルーズベルト
プリンス・オブ・ウェールズ
1942年
前日のインド国民会議派の大会でイギリスの即時退去(「インドを去れ」運動)が決議されたことを受け、インド政庁が国民会議派を弾圧。指導者のガンディー、ネルーらが逮捕。
1942年8月9日、インド国民会議派の「インドを去れ」決議を受け、英国当局がガンディーやネルーらを逮捕しました。
第二次世界大戦中、インド国民会議派は8月8日にイギリスの即時撤退を求める「インドを去れ」運動を決議し、広範な支持を集めました。これに危機感を抱いた英印政庁は8月9日、ガンディーやネルーら主要指導者を逮捕し大規模弾圧を開始。指導者の拘束は一時的に運動を混乱させたものの、市民の抵抗意志をさらに高める結果となりました。弾圧後も運動は地下に潜行し、最終的な独立達成への道筋を深く刻みました。
1942年
インド国民会議派
「インドを去れ」運動
英語版
ガンディー
ネルー
1945年
第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。
1945年8月9日、原爆投下とソ連参戦を受けて御前会議が開催され、終戦への道が開かれました。
8月6日の広島原爆投下に続き、9日に長崎でも原爆が投下され、同日未明にはソ連が対日参戦を宣言しました。これを受けて天皇や閣僚らが御前会議を開催し、ポツダム宣言受諾の是非を審議。翌8月10日に条件付きながら受諾を決定し、日本は降伏への第一歩を踏み出しました。この会議が戦争終結への大きな転換点となりました。
8月6日
広島
長崎への原爆投下
ソ連対日宣戦布告
御前会議
8月10日
ポツダム宣言
1949年
長崎平和記念都市建設法公布。
長崎の復興と平和を願い、長崎平和記念都市建設法が公布された日です。
1949年8月9日に『長崎平和記念都市建設法』が公布されました。
この法律は、原爆投下で壊滅的な被害を受けた長崎の復興と平和記念施設の整備を目的としています。
被爆の実相を後世に伝え、核兵器廃絶と世界平和を訴える拠点として計画されました。
原爆死没者慰霊碑や平和祈念像などが整備され、現在も平和教育の中心地として機能しています。
毎年8月9日には平和祈念式典が開催され、国内外から多くの参列者が訪れます。
1949年
1954年
右翼・民族派が新橋で「滅共反ソ国民大会」を行なった後、駐日ソ連代表部へ押しかけ乱入。以後右翼にとっては「反ソ連デー」となる。
右翼・民族派が新橋で反ソ活動を行い、駐日ソ連代表部に乱入した事件です。
1954年8月9日、右翼団体と民族派が東京・新橋で「滅共反ソ国民大会」を開催しました。
大会参加者はその後、駐日ソ連代表部に押しかけ乱入し、建物内で衝突が発生しました。
以降、この日は右翼勢力の間で「反ソ連デー」と呼ばれるようになりました。
当時の冷戦下、日本国内でソ連への反発が強まり、政治的緊張が高まっていた背景があります。
この事件は、戦後日本における政治運動と外交関係の複雑さを象徴する出来事とされています。
1954年
駐日ソ連代表部
反ソ連デー
1965年
シンガポールがマレーシアから分離・独立。
シンガポールがマレーシアから分離独立し、国としての歩みを始めた日です。
1965年8月9日、シンガポールはマレーシア連邦から独立し、主権国家となりました。
リー・クアンユー首相の指導の下、独立宣言が行われ、国旗が掲揚されました。
シンガポールは経済自由化や教育改革を推進し、小国ながら急速な経済発展を遂げる礎を築きました。
独立当初は資源の乏しさや国土の狭さに悩まされましたが、国際貿易港としての地理的優位性を活かしました。
現在、シンガポールは世界的な金融・物流ハブとして知られています。
1965年
シンガポール
マレーシア
1974年
ウォーターゲート事件の責任を取ってアメリカ大統領リチャード・ニクソンが辞任したのを受け、副大統領のジェラルド・フォードが大統領に就任。
ウォーターゲート事件の責任を取り、リチャード・ニクソン米大統領が辞任した日です。
1974年8月9日、アメリカ史上初めて現職大統領リチャード・ニクソンが辞任を表明しました。
背景にはウォーターゲート事件に関する隠蔽工作の発覚と上院による弾劾手続きの開始がありました。
副大統領ジェラルド・フォードが直ちに大統領に昇格し、国政の空白を埋めました。
フォードは恩赦を含む政治的判断で混乱収拾を図り、アメリカ政治の一つの転機となりました。
この出来事はアメリカ民主主義と大統領権限の限界を考える上で重要な教訓となりました。
1974年
ウォーターゲート事件
リチャード・ニクソン
ジェラルド・フォード