870年

メルセン条約締結。中部フランク王国が東フランク王国・西フランク王国・イタリア王国に割譲。

870年8月8日、メルセン条約が締結され、中部フランク王国が東フランク王国、 西フランク王国およびイタリア王国に分割された。
メルセン条約は870年8月8日に東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世の間で結ばれた。 両王はロタール2世の死去後に残された中部フランク王国(ロタリンギー)を東西に分割して相互に割譲した。 一部の領域はイタリア王国にも編入され、ヨーロッパの勢力地図を大きく塗り替えた。 この条約は843年のヴェルダン条約に次ぐカロリング朝の領土再編を示し、その後の中世ヨーロッパの国境形成に影響を与えた。
870年 メルセン条約 中部フランク王国 東フランク王国 西フランク王国 イタリア王国
1220年

リフラの戦い : スウェーデン王国が北方十字軍遠征の際に獲得したエストニア・レーネ地方の守備を任されていたスウェーデン貴族カール・ドーヴが、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。

1220年8月8日、リフラの戦いでスウェーデン軍が現地部族連合軍に敗北し、エストニア進出を断念した。
リフラの戦いは1220年8月8日に現在のエストニア南西部レーネ地方で起きた。 北方十字軍の一環として、スウェーデン王国から派遣されたカール・ドーヴ率いる守備隊が現地部族連合軍と激突した。 部族連合軍は地形を生かした奇襲や包囲戦術を用いて優勢に立ち、スウェーデン軍は大きな損害を受けた。 敗北後、スウェーデン王国はエストニア地方への領土拡大を断念し、北東欧における勢力バランスが変化した。 この出来事は北方十字軍の東方拡大の限界を示す重要な転機となった。
1220年 リフラの戦い スウェーデン王国 北方十字軍 エストニア レーネ地方 カール・ドーヴ
1503年

スコットランド王ジェームズ4世が、イングランド王ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと結婚。

1503年8月8日、スコットランド王ジェームズ4世がイングランド王ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと結婚し、両国関係の和解を図った。
1503年8月8日、スコットランド王ジェームズ4世はエジンバラでイングランド王ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと結婚式を挙げた。 この政略結婚は、長年対立してきた両国の関係改善を狙った王室同盟であった。 マーガレットは和睦の象徴として『平和の花嫁』と称えられ、両国間の文化的・外交的交流を促進した。 夫妻の間には後にジェームズ5世となる子が誕生し、チューダー朝とスチュアート朝の血統が結びついた。 この結婚は後のイングランド王位継承問題やスコットランド王室の運命にも深く影響を与えた。
1503年 スコットランド ジェームズ4世 イングランド ヘンリー7世 マーガレット・テューダー
1588年

スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。

1588年8月8日、アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊がイングランド艦隊に敗れ、スペインの海上覇権が揺らいだ。
アルマダの海戦は1588年7月末から8月初旬にかけて行われ、8月8日に北フランス沖グラヴリーヌ付近で決定的な衝突が起きた。 フェリペ2世が率いるスペイン無敵艦隊はイングランド艦隊の機動力と火力に晒され、次々に損害を受けた。 イングランド艦隊は素早い攻撃と艦隊分散戦術を用いて優位に立ち、スペイン艦隊を撃退した。 帰路の荒天や補給不足も重なり、無敵艦隊は壊滅的被害を受けてスペインの海上支配は終焉を迎えた。 この敗北はイギリス海軍の台頭を象徴し、ヨーロッパの勢力図を塗り替える契機となった。
1588年 スペイン アルマダの海戦 イングランド
1786年

ジャック・バルマとミッシェル・ガブリエル・バッカールがモンブラン初登頂に成功。

1786年8月8日、ジャック・バルマと医師ミッシェル・ガブリエル・パッカールがモンブランの初登頂を成し遂げた。
モンブランはアルプス山脈最高峰(標高4,808m)として山岳家の憧れの的だった。 1786年8月8日、石工のジャック・バルマと医師ミッシェル・ガブリエル・パッカールが共同で山頂に到達した。 限られた装備と遭難の危険を抱えながら、氷雪の急斜面を克服して約10時間の登攀を成功させた。 この業績は近代アルパインクライミングの幕開けとされ、その後の登山技術や山岳探検に多大な影響を与えた。 やがてモンブランは世界的な登山・観光名所として知られるようになった。
1786年 モンブラン
元治元年7月7日

天狗党の乱: 江戸幕府・諸藩の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。

1864年8月8日、天狗党の乱で幕府軍と諸藩連合軍が尊王攘夷派『天狗党』と衝突した。
天狗党の乱は幕末の1864年(元治元年)に発生した尊王攘夷運動の過激派と幕府・諸藩軍との武力衝突である。 水戸藩出身の志士たちから成る天狗党は、攘夷の実現と尊王の確立を掲げて各地で活動していた。 8月8日、幕府と協調する諸藩兵が彼らの拠点を包囲・攻撃し、激しい市街戦やゲリラ戦が繰り広げられた。 天狗党は抵抗を試みたものの、組織力と武装の差から次第に劣勢となり、多くが戦死または捕縛された。 この乱は幕府の治安維持の強硬姿勢を示し、尊王攘夷運動の行き詰まりを象徴する事件となった。
1864年 元治 7月7日 天狗党の乱 江戸幕府 諸藩
1892年

第2次伊藤博文内閣成立。1896年8月31日まで。

1892年8月8日、第2次伊藤博文内閣が成立し、1896年8月31日まで政権を務めた。
第2次伊藤博文内閣は1892年8月8日に発足し、伊藤博文が再び内閣総理大臣に就任した。 内閣は立憲政治の安定化を図り、統一的な財政運営と議会との協調を進めた。 在任中の1894年には日清戦争が勃発し、下関条約締結までを政府一丸となって指導した。 また、教育拡充や鉄道整備など社会基盤の強化に努め、日本の近代化を促進した。 この内閣は1896年8月31日まで続き、明治政府の国際的地位向上と制度成熟に寄与した。
1892年 第2次伊藤博文内閣 1896年 8月31日
1900年

第1回国際ローンテニス・チャレンジ(デビスカップ)開幕。

1900年8月8日、第1回国際ローンテニス・チャレンジ(後のデビスカップ)がアメリカで開幕した。
国際ローンテニス・チャレンジは1900年8月8日にアメリカ・ロングウッドクリケットクラブで始まった。 創始者ドワイト・デイビスの提案で、前年優勝国に挑戦する方式が採用され、世界最古の男子国別対抗戦となった。 大会初戦はアメリカ代表対イギリス(ブリティッシュ・アイルズ)代表で行われ、ダブルスとシングルスで熱戦が繰り広げられた。 後にデイビスの名を冠して『デビスカップ』と呼ばれ、各国のナショナルチームが栄冠を目指す伝統競技となった。
1900年 第1回国際ローンテニス・チャレンジ デビスカップ
1904年

大韓帝国で政治結社「維新会」(ほどなく一進会に改称)設立。

1904年8月8日、大韓帝国で政治結社「維新会」が設立され、後に「一進会」と改称された。
維新会は1904年8月8日に大韓帝国で結成された政治結社で、改革派の知識人や官吏が中心となった。 当初は憲政導入や行政改革、教育制度の近代化を掲げて活動を始めた。 結成後まもなく『一進会』と改称し、大衆参加型の政治運動を展開した。 一進会は日本の影響下で進む統治体制に対し批判的立場を取りつつ、自主的改革を模索した。 この組織の設立は大韓帝国末期の政治的緊張と改革志向を象徴する出来事である。
1904年 大韓帝国 一進会
1908年

ウィルバー・ライトがフランス・ル・マンの競馬場で初の公開飛行を行う。

1908年8月8日、ウィルバー・ライトがフランス・ル・マン競馬場で初の公開飛行を成功させ、航空技術を実演した。
1908年8月8日、ライト兄弟のウィルバー・ライトはフランス・ル・マンの競馬場で公開飛行を行った。 飛行機『ライトフライヤー』を用いて複数回の飛行デモンストレーションを実施し、最長飛行時間は数分に及んだ。 この実演はフランス政府や観衆の大きな注目を集め、航空機の商業化・実用化への期待を高めた。 その後もライト兄弟は欧州各地で公開飛行を続け、20世紀の航空産業発展に不可欠な基盤を築いた。
1908年 ウィルバー・ライト フランス ル・マン
1911年

稗田山崩れ。長野県小谷村の稗田山が大崩壊。日本三大崩れに挙げられる20世紀最大級の土砂災害になった。

1911年8月8日、長野県小谷村の稗田山が大規模に崩壊し、日本三大崩れの一つに数えられる壮絶な土砂災害が発生しました。
稗田山は長野県小谷村に位置する山で、1911年8月8日に山体の大規模崩壊が発生しました。崩れた土砂は集落や農地をのみ込み、長野県内でも最大級の被害をもたらしました。この災害は「日本三大崩れ」の一つに挙げられ、20世紀最大級の土砂崩壊と称されます。崩落範囲は数百メートルに及び、住民の避難や復旧作業には長い時間が必要でした。被害状況の詳細な記録は限られるものの、地形変動への警戒を高めるきっかけとなりました。以降、山体崩壊対策や地滑り防止技術の研究が進展しました。
1911年 稗田山崩れ 長野県 小谷村 土砂災害
1918年

第一次世界大戦・「ドイツ陸軍暗黒の日」。この日に開始されたアミアンの戦いにおけて、ドイツ軍が大敗。

1918年8月8日、第一次世界大戦中のアミアンの戦いで連合国軍が大攻勢を開始し、ドイツ軍が「暗黒の日」と呼ばれる大敗を喫しました。
1918年8月8日、連合国軍によるアミアンの戦いが始まりました。イギリス・フランス・アメリカ軍が総力を結集し、夜明けと共にドイツ軍前線に攻撃を仕掛けました。連合軍の迅速な機甲部隊と砲兵支援によりドイツ軍前線は崩壊し、多数が捕虜となる大損害を出しました。この敗北によりドイツ軍の士気は著しく低下し、「ドイツ陸軍暗黒の日」と呼ばれました。ハンドレッドデイズ攻勢の突破口となり、戦局の転換点として歴史に刻まれています。
1918年 第一次世界大戦 ドイツ陸軍暗黒の日 ドイツ語版 アミアンの戦い 英語版