461年

マヨリアヌス

(420 - 461)

西ローマ帝国の皇帝

西ローマ帝国の皇帝
西ローマ帝国の皇帝として短期間ながらも帝国復興を目指し、軍事・行政改革を推進した人物。
マヨリアヌスは420年に生まれ、457年に西ローマ帝国の皇帝に即位した。 在位中は帝国の再建を目指し、税制改革や軍制の整備など多岐にわたる行政改革を実施した。 また、ガリアやヒスパニアへの遠征を行い、領土回復に一定の成果を上げた。 しかし、実質的な権力を握る将軍リキメルとの対立を深め、461年に失脚・処刑された。 その短い治世ながら、ローマ帝国末期の改革者として評価される。
461年 マヨリアヌス 420年
1028年

アルフォンソ5世 (レオン王)

(994 - 1028)

レオン王

レオン王
レオン王国を治め、領土拡大や教会建設など宗教政策にも力を入れた中世スペインの王。
アルフォンソ5世は994年に生まれ、999年にレオン王に即位した。 彼はキリスト教国との同盟を強化し、ムーア人勢力との国境地帯を再征服するなど領土拡大を進めた。 また、教会施設の建設や修復を支援し、宗教的権威の確立にも努めた。 外交面ではイベリア半島の他王国との和平や同盟を模索した。 1028年に死去するまで約29年間の長期政権を維持し、レオン王国の発展に貢献した。
1028年 アルフォンソ5世 (レオン王) 994年
1106年

ハインリヒ4世

(1050 - 1106)

神聖ローマ皇帝

神聖ローマ皇帝
神聖ローマ皇帝として教皇との叙任権闘争を繰り広げ、「カノッサの屈辱」で知られる君主。
ハインリヒ4世は1050年に生まれ、1056年にドイツ王として即位、1084年に皇帝に戴冠された。 1075年から教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争を繰り広げ、1077年のカノッサの屈辱で一時的に破門を解かれた。 その後も諸侯との抗争を続け、息子ハインリヒ5世との対立により1105年には退位を余儀なくされた。 1106年に没し、君主と教会の関係を巡る中世ヨーロッパの政治史に大きな影響を与えた。 彼の時代の叙任権闘争は、教皇権と皇帝権の境界を定める重要な契機となった。
1106年 ハインリヒ4世 神聖ローマ皇帝 1050年
弘安7年6月25日

足利家時

(1260 - 1284)

御家人

御家人
鎌倉幕府の有力御家人として関東地方で勢力を築き、足利氏の礎を築いた。
足利家時は1260年に生まれ、鎌倉幕府に仕える御家人として活躍した。 関東における所領と軍事力を背景に、幕府の政務に関与しながら独自の勢力基盤を確立した。 在任中の活動記録は限られているが、家時の存在が足利氏の台頭に重要な役割を果たしたとされる。 彼の家系は後に室町幕府を開く足利氏の本流となった。 1284年に没した後も、足利氏は北条氏との抗争を経て武家政権の中心となっていった。
1284年 弘安 6月25日 足利家時 御家人 1260年
延元元年/建武3年6月30日

名和長年

武将

武将
南北朝時代に伊勢国で活躍した武将。南朝に忠誠を尽くし、1336年の戦いで戦死した。
名和長年は伊勢国で勢力を持った武将で、延元元年(1336年)の建武の乱に南朝方として参戦した。 南朝の皇子護衛や地元豪族の統率にあたり、戦局を支えた。 同年の戦闘で討ち死にし、その死は南朝方にとって大きな痛手となった。 名和氏はその後も伊勢において一定の影響力を保ち、地元の武士団形成に寄与した。 史料は少ないものの、忠誠心と戦闘能力に優れた武将として後世に語り継がれている。
1336年 延元 建武 6月30日 名和長年 武将
正平14年/延文4年7月13日

武田信武

(1292 - 1359)

守護大名

守護大名
室町時代初期に甲斐国を支配した守護大名で、武田氏の地位を確立した。
武田信武は1292年に生まれ、室町幕府において甲斐国の守護に任じられた。 幕府内の政治に参与しながら、内乱期において領国の安定と統治の基盤を築いた。 領国内での土木事業や荘園管理にも力を入れ、地域経済の活性化に貢献した。 武田氏は信武の代に甲斐での勢力を拡大し、後の戦国大名への道を開いた。 1359年に没し、その後の武田氏繁栄の礎を築いた人物として評価される。
1359年 正平 延文 7月13日 武田信武 守護大名 1292年
1385年

ジョーン・オブ・ケント

(1328 - 1385)

イングランドのエドワード黒太子の妃

イングランドのエドワード黒太子の妃
「ケントの美姫」と称され、黒太子エドワードの妃かつリチャード2世の母として知られるイングランド貴婦人。
ジョーン・オブ・ケントは1328年に生まれ、イングランド王エドワード黒太子と結婚した。 彼女はイングランド王室内で高い地位を誇り、多くの財産と広大な所領を相続した。 その生涯は家族内の結婚問題や政治的陰謀に巻き込まれることもあった。 息子リチャード2世の即位を支え、王家への影響力を維持した。 1385年に没し、その洗練された教養と社交術で知られた。
1385年 ジョーン・オブ・ケント 1328年
1491年

ジャック・バルビロー

(1455 - 1491)

作曲家

作曲家
ルネサンス期のブルゴーニュ楽派に属し、美しいポリフォニー作品を遺した作曲家。
ジャック・バルビローは1455年頃に生まれ、ブルゴーニュ公国廷で活動した。 主にミサ曲やモテット、シャンソンなどの声楽作品を作曲し、当時の宮廷音楽に大きな影響を与えた。 彼の作品は繊細かつ洗練されたポリフォニー技法で知られ、後世の作曲家に高く評価された。 1491年に逝去した後も、その多くの楽曲は各地の教会で演奏され続けた。 バルビローの音楽はルネサンス音楽研究において重要な位置を占めている。
1491年 ジャック・バルビロー 作曲家 1455年
1560年

アナスタシア・ロマノヴナ

モスクワ大公イヴァン4世の妃

モスクワ大公イヴァン4世の妃
イヴァン4世の最初の妃としてツァーリ政権を支えたロマノフ家出身の王妃。
アナスタシア・ロマノヴナは16世紀初頭のロシア貴族ロマノフ家に生まれ、1547年にイヴァン4世と結婚した。 ツァーリの即位とともに初代ツァリツァとなり、宮廷内で影響力を発揮した。 彼女の温和な性格はイヴァン4世の政治判断にも好影響を与えたとされる。 1560年に急死し、毒殺説がささやかれたことでツァーリの心情に深い影響を与えた。 後にロマノフ朝を開くきっかけとなった一族の結束に重要な役割を果たした。
1560年 アナスタシア・ロマノヴナ モスクワ大公 イヴァン4世
慶長19年7月2日

奥平忠政

(1580 - 1614)

加納藩主

加納藩主
徳川家康に仕えた譜代大名で、加納藩主として領地経営を担った。
奥平忠政は1580年に生まれ、幼少より徳川家康に仕えた譜代の家臣である。 関ヶ原の戦いなどで功績を重ね、慶長19年に加納藩主として1万石を与えられた。 加納城の整備や城下町の開発を指揮し、藩政改革を進めた。 領民への福祉施策にも注力し、安定した藩政運営を実現した。 1614年に没し、奥平家はその後も譜代大名として存続した。
1614年 慶長 7月2日 奥平忠政 加納藩主 1580年
1616年

ヴィンチェンツォ・スカモッツィ

(1548 - 1616)

建築家

建築家
ヴィンチェンツォ・スカモッツィは16世紀イタリアの建築家。パッラーディオの弟子として活躍し、著作と多数の建築設計で知られる。
1548年にヴィチェンツァ近郊で生まれる。 パッラーディオの下で働き、彼の未完の建築を完成させた。 1615年には建築理論をまとめた『普遍建築論』を刊行。 ヴェネツィアの公共建築や邸宅設計を数多く手掛け、欧州建築に影響を与えた。 1616年8月7日に亡くなり、その設計思想は後世に受け継がれた。
1616年 ヴィンチェンツォ・スカモッツィ 建築家 1548年
元和8年7月1日

支倉常長

(1571 - 1622)

仙台藩士

仙台藩士
仙台藩の武士で、慶長遣欧使節として欧州を訪問した。
1571年に陸奥国で生まれる。 1613年に伊達政宗によりローマ教皇使節に任命される。 欧州各地を巡り、教皇パウルス5世に謁見し、日本の文化を紹介。 台湾経由で1620年に帰国を試みる。 1622年8月7日に故郷で没し、日本と欧州の交流史の先駆けとなった。
1622年 元和 7月1日 支倉常長 仙台藩士 1571年