1566年

オスマン・ハプスブルク戦争: スィゲトヴァール包囲戦が開始。

1566年、オスマン帝国軍がハンガリーの要衝シゲトヴァールに包囲戦を仕掛け、長期戦の幕が開けた。
オスマン・ハプスブルク戦争の一環として、1566年8月6日にスィゲトヴァール包囲戦が開始された。 オスマン帝国のスレイマン1世が大軍を率いて要塞都市を包囲し、陥落を狙った。 守備側は少数のハンガリー・クロアチア連合軍が指揮する防衛線を維持し、激戦を繰り広げた。 包囲は1ヶ月以上続き、守将イシュトヴァーン・タトーリらの奮戦が伝えられる。 この戦いは両軍の戦術と兵器の変遷を象徴し、後の中欧戦局に大きな影響を与えた。
1566年 スィゲトヴァール包囲戦
天正6年7月3日

上月城の戦い: 尼子勝久らが自刃し尼子氏が滅亡。

1578年、上月城の戦いで尼子氏当主尼子勝久らが自刃し、戦国大名尼子氏が滅亡した。
天正6年(1578年)7月3日、中国地方の拠点上月城で織田氏・毛利氏連合軍との攻防戦が行われた。 尼子勝久ら尼子氏の残党は籠城して奮戦したが、援軍の到着を待てず自刃を選択した。 これにより、室町幕府以降続いた尼子氏の勢力は完全に消滅し、地域の勢力図が大きく変動した。 戦いでは鉄砲戦術の活用が注目され、戦国時代後期の戦術変化を示す一例となった。 上月城は後に毛利氏の管理下に入り、中国地方支配の要所となった。
1578年 天正 7月3日 上月城の戦い 尼子勝久 尼子氏
1914年

第一次世界大戦: オーストリア・ハンガリー帝国がロシア帝国に宣戦布告。

オーストリア・ハンガリー帝国がロシア帝国に宣戦布告し、戦線が東部へと拡大した。
1914年8月6日、第一次世界大戦においてオーストリア・ハンガリー帝国がロシア帝国に宣戦布告しました。 これはサラエボ事件による緊張の高まりと各国の同盟関係が引き金となったものです。 ロシアはセルビア支援のため軍を動員し、オーストリア・ハンガリーはこれを敵視しました。 東部戦線での大規模な戦闘が本格的に始まり、戦局はヨーロッパ全域に拡大しました。 以後の塹壕戦や大量消耗戦の様相を示す重要な転換点となりました。
1914年 第一次世界大戦 オーストリア・ハンガリー帝国 ロシア帝国 宣戦布告
1914年

第一次世界大戦: セルビアがドイツ帝国に宣戦布告。

セルビア王国がドイツ帝国に宣戦布告し、戦線がさらに拡大した。
1914年8月6日、セルビア王国はドイツ帝国に対して宣戦布告を行いました。 オーストリア・ハンガリーとロシア間の戦闘に連動し、ドイツは同盟国としてセルビアを敵視しました。 この宣戦によりバルカン半島における戦線は更に複雑化し、多国間の衝突が深刻化しました。 セルビア軍は長年にわたりオーストリア・ハンガリーと衝突してきた経験を生かして抵抗しました。 地域的対立が欧州全体の大戦に結びつく象徴的な出来事となりました。
セルビア ドイツ帝国
1914年

第一次世界大戦: モンテネグロ王国がドイツ帝国に宣戦布告。

モンテネグロ王国がドイツ帝国に宣戦布告し、参戦国が増加した。
1914年8月6日、第一次世界大戦の一環としてモンテネグロ王国がドイツ帝国に宣戦布告しました。 モンテネグロは伝統的にセルビアを支持し、バルカン半島での対立に関与しました。 ドイツ帝国は同盟国としてオーストリア・ハンガリーと連携し、モンテネグロを敵と見なしました。 小国ながら勇敢に戦ったモンテネグロ軍は、敵軍に対する抵抗力を示しました。 この宣戦布告はバルカン戦線の激化を象徴し、戦況に影響を与えました。
モンテネグロ王国 ドイツ帝国 宣戦布告
1916年

第一次世界大戦: 第六次イゾンツォの戦いが起こる。

第六次イゾンツォの戦いが勃発し、イタリア軍とオーストリア=ハンガリー軍が激突した。
1916年8月6日、第一次世界大戦イタリア戦線で第六次イゾンツォの戦いが始まりました。 イタリア軍司令官カドルナ元帥の下、主にカールスト地帯で攻勢が展開されました。 オーストリア=ハンガリー軍は険しい地形を利用し、堅固な防衛線を構築して抵抗しました。 両軍は絶え間ない砲撃と白兵戦を繰り返し、多大な人的損失を出しながらも大きな戦果は得られませんでした。 この戦いは塹壕戦の過酷さを象徴する代表的なエピソードの一つです。
1916年 第六次イゾンツォの戦い
1940年

バルト諸国占領: ソビエト連邦がエストニアを併合。

1940年8月6日、ソ連がバルト三国の一つエストニアを強制的に併合しました。
1940年、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきソ連がバルト諸国を占領しました。 8月6日に行われたエストニアへの併合は、ソ連軍による圧力と一方的な併合宣言で実行されました。 エストニアの独立政府は抵抗できず、議会での承認を強制される形でソ連共和国への組み込みが決定しました。 この出来事は第二次世界大戦のヨーロッパにおける勢力均衡を大きく変え、バルト地域の歴史に深い爪痕を残しました。 エストニアは1991年までソ連支配下に置かれ、独立回復まで続く歴史的な苦難の始まりとなりました。
1940年 バルト諸国占領 ソビエト連邦 エストニア
1945年

第二次世界大戦: 広島市への原子爆弾投下。

1945年8月6日、米国が広島市に世界初の原子爆弾を投下しました。
第二次世界大戦末期の1945年8月6日、米軍のB-29爆撃機エノラ・ゲイが広島市上空で原子爆弾『リトルボーイ』を投下しました。 爆心地付近では建物が壊滅し、直後の爆風と熱線により約14万人以上が死亡または被爆しました。 爆心地から数キロにわたり甚大な被害が広がり、市民の日常生活は一瞬で消失しました。 被爆者は放射線障害に苦しみ、国内外で核兵器の非人道性が強く訴えられる契機となりました。 この出来事は広島の復興と平和都市宣言への道を開き、核軍縮運動の象徴的出来事となっています。
1945年 第二次世界大戦 広島市への原子爆弾投下
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 都城大空襲。都城駅が全焼。

1945年8月6日深夜、米軍による都城大空襲が行われ、都城駅を含む市街地が焼失しました。
1945年8月6日深夜、アメリカ軍B-29爆撃機部隊が宮崎県都城市を標的とした大規模な空襲を実施しました。 多数の焼夷弾が市街地に投下され、都城駅は全焼し、周辺の住宅や商店も壊滅的被害を受けました。 市民は逃げ惑い、多数の死傷者と家屋の喪失が報告されました。 この空襲は本州以外の日本各地にも空襲が拡大していた時期で、市民生活に深刻な影響を与えました。 戦後、被災地の復興には長い年月を要し、空襲の記憶は地域社会に深い傷跡を残しました。
日本本土空襲 都城駅
1990年

湾岸戦争: 国連安保理がイラクのクウェート侵攻への経済制裁として、イラクに対し国連加盟国が全面禁輸を行うという内容の決議661号を採択。

イラクのクウェート侵攻に対し、国連安保理が決議661号を採択し全面禁輸の経済制裁を決定。湾岸戦争に向けた国際的圧力が強化されました。
1990年8月6日、国連安全保障理事会は決議661号を全会一致で採択。 イラクによるクウェート侵攻を非難し、石油・金融などを含む全面禁輸措置を課すことを決定。 加盟国にはイラクへの物資供給停止と取引禁止が求められ、外交的圧力を高める狙いがあった。 この経済制裁は湾岸戦争の開戦前段階として、イラクを孤立化させる重要な一手となった。 制裁の効果と限界については議論が続き、後の軍事行動へとつながる国際的枠組みが形成された。
1990年 湾岸戦争 国連安保理 イラク クウェート 決議661号
2003年

上海協力機構加盟5か国(中国・ロシア・ウズベキスタン・キルギスタン・タジキスタン)がテロ対策を目的とした合同軍事演習を実施。8月12日まで。

2003年8月6日、上海協力機構(SCO)加盟5か国がテロ対策を目的に合同軍事演習を開始しました。 演習は8月12日まで実施されました。
上海協力機構は中露を中心に中央アジア諸国が加盟する地域安全保障組織。 この合同軍事演習はテロリズムへの共同対応能力強化を狙い、中国・ロシア・ウズベキスタン・キルギスタン・タジキスタンが参加。 演習では実戦を想定した部隊展開や情報共有の訓練が行われ、各国の相互運用性が検証された。 参加国はテロへの抑止力をアピールし、域内安全保障協力の深化を図る狙い。 この演習はSCOの軍事協力の具体例として注目され、国際社会に安保協力の姿勢を示す機会となった。
2003年 上海協力機構 中国 ロシア ウズベキスタン キルギスタン タジキスタン テロ 8月12日
2024年

ロシアのウクライナ侵攻: ウクライナがロシア西部のクルスク州への侵攻を開始。

2024年8月6日、ウクライナによるロシア西部クルスク州への侵攻が開始され、戦況が新たな局面を迎えました。
この侵攻は従来の戦線とは異なる新たな地域への軍事進出を示す動き。 ウクライナ軍は複数の戦車部隊を投入し、北西部からクルスク州への進撃を図った。 ロシア側は防衛線の強化と航空支援による反撃を試みている。 国際社会は事態の深刻化を懸念し、追加制裁や外交的圧力の可能性を示唆している。 現地では住民の避難や人道支援の必要性が高まり、国際機関の対応強化が求められている。
ロシアのウクライナ侵攻 クルスク州への侵攻