1027年

ノルマンディー公リシャール3世の息子ロベールがロベール1世としてノルマンディー公に就任した。のちにロベール華麗公と称された。

1027年、リシャール3世の跡を継ぎロベール1世がノルマンディー公に即位し、後に「華麗公」と称された。
1027年、ノルマンディー公リシャール3世の死去に伴い、その息子ロベールが公位を継承した。 ロベール1世は後世「華麗公」と呼ばれ、宮廷文化の発展や領土統治の基礎を築いた。 即位後は近隣諸侯との同盟を強化し、海賊対策や防御施設の整備に重点を置いた。 また、フランス王国との関係調整を行い、ノルマンディーの独立性を維持し続けた。 彼の治世は中世ヨーロッパにおける封建制度の安定期と重なる。
1027年 ノルマンディー リシャール3世 ロベール
天正13年7月11日

羽柴秀吉が近衛前久の猶子として関白の位に就く。

1585年、豊臣秀吉が近衛前久の猶子となって関白に就任し、朝廷の最高権力を掌握した。
天正13年(1585年)7月11日、羽柴(豊臣)秀吉は公家近衛前久の猶子となり、関白の宣下を受けて就任した。 この就任により、秀吉は朝廷の儀式と政務を統括する立場を得て、実質的に国内政治を掌握した。 関白就任後は豊臣政権の法制度整備や検地・刀狩を推進し、全国統一を加速させた。 また、朝廷儀礼への関与を強めることで、武門と公家社会の接点を強化した。 秀吉の関白在任は江戸時代まで続く幕府と朝廷の関係にも影響を及ぼした。
1585年 天正 7月11日 羽柴秀吉 近衛前久 猶子 関白
1623年

ウルバヌス8世がローマ教皇に選出される。

1623年ローマ教皇選挙において枢機卿バルトロメオ・ベンティヴェリオがウルバヌス8世として選出された。
1623年8月6日、バルトロメオ・ベンティヴェリオ枢機卿がローマ教皇に選出され、教皇ウルバヌス8世を名乗った。 ウルバヌス8世は教会の財政再建を進め、バロック芸術の庇護者としても名高い。 しかし、彼の在位中はガリレオ・ガリレイとの対立が深まり、科学と教義の摩擦を象徴した。 また、三十年戦争における教皇領の政治的立場を調整し、カトリック勢力の結集を図った。 その治世は1644年まで続き、教会史に大きな影響を残した。
1623年 ウルバヌス8世 ローマ教皇
1806年

フランツ2世が「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄し、神聖ローマ帝国が名実ともに解体。

1806年、フランツ2世が神聖ローマ皇帝位を放棄し、千年以上続いた帝国が正式に解体された。
1806年8月6日、神聖ローマ皇帝フランツ2世は神聖ローマ皇帝位を自ら退位し、帝国の解体を宣言した。 ナポレオン・ボナパルトの勢力拡大とライン同盟の結成を背景に、神聖ローマ帝国は存続の意義を失った。 これにより、962年にオットー1世が創設して以来約844年続いた帝国の歴史が幕を閉じた。 フランツ2世は代わってオーストリア皇帝フランツ1世として存続国家の再編を図った。 この出来事はヨーロッパの政治秩序を一新し、ナショナリズム台頭の契機となった。
1806年 フランツ2世 神聖ローマ帝国
1825年

ボリビアがスペインから独立。

1825年、南アメリカの旧植民地ボリビアがスペインから独立し、共和国としての歩みを始めた。
1825年8月6日、アンデス高原を中心とした旧スペイン副王領アルト・ペルーがボリビア共和国として独立を宣言した。 独立運動はシモン・ボリバルやアントニオ・ホセ・デ・スクレらの指導のもと進められ、議会で議定書が採択された。 新国家の名称は解放者ボリバルにちなみ「ボリビア」と名付けられた。 独立後は内政・外交の混乱期を迎えたものの、アンデス地域における国家形成の先駆けとなった。 現在のボリビアは多民族国家として独自の文化を発展させている。
1825年 ボリビア スペイン
1890年

ニューヨーク州のオーバーン刑務所でウィリアム・ケムラーに対し史上初の電気椅子による死刑が執行される。

アメリカで初めて電気椅子による死刑が行われた歴史的な出来事。
1890年8月6日、ニューヨーク州オーバーン刑務所でウィリアム・ケムラーに対し史上初の電気椅子による死刑が執行されました。 当時は絞首刑に代わるより人道的な処刑方法と期待されていました。 しかし電気の流れや機器の不備により処刑は数分間にわたり苦痛を伴うものとなりました。 この出来事はメディアでも大きく報じられ、死刑制度や技術的・倫理的問題に関する議論を喚起しました。 以後、多くの州で電気椅子が導入される契機となりました。
1890年 ニューヨーク州 ウィリアム・ケムラー 電気椅子 死刑
1896年

フランスがマダガスカルの植民地化を宣言。

フランスがマダガスカルを正式に植民地化した宣言を行った。
1896年8月6日、フランス政府はマダガスカルを自国の植民地とすることを宣言しました。 これによりマダガスカル王国はフランスの保護領から完全な植民地支配下に置かれることとなりました。 フランスはこの島の天然資源や農産物を本国市場に供給することを目的としていました。 地元住民はフランスの行政・教育制度の導入や土地収用などにより大きな影響を受けました。 この植民地化は20世紀半ばまで続き、マダガスカルの歴史に深い爪痕を残しました。
1896年 フランス マダガスカル 植民地
1949年

広島平和記念都市建設法公布・施行。

1949年8月6日、広島平和記念都市建設法が公布され、被爆地の復興計画が制度化されました。
原子爆弾投下後の被災地再建を目的として、1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が公布・施行されました。 同法は広島市を平和記念都市として整備し、復興事業や都市計画の基本方針を定めました。 被爆者支援や原爆死没者慰霊施設の設置、平和記念公園の建立などが法律に明記されました。 この法律により復興事業に国の財政支援が行われ、広島市の都市復興と平和教育が体系的に進められる基盤が整備されました。 現在の広島平和記念資料館や慰霊碑はこの法制度の下で実現したものです。
広島平和記念都市建設法
1962年

ジャマイカがイギリスから独立。

1962年8月6日、ジャマイカがイギリスから独立し立憲君主制のもと新国家を樹立。
西インド諸島のイギリス植民地だったジャマイカは1962年8月6日に独立を達成した。独立に先立ち1959年に自治政府が設置され、1961年に新憲法が制定された。独立後は英連邦の一員としてエリザベス2世を国家元首とする立憲君主制を採用し、政治的安定を図った。経済的にはバナナや観光産業が主要輸出品となり、多様な文化や音楽が国内外に広がった。ジャマイカの独立はカリブ地域の脱植民地化運動の象徴的出来事とされ、国際的にも注目された。
1962年 ジャマイカ イギリス
1971年

佐藤榮作首相が現職首相で初めて広島平和式典に出席。

1971年8月6日、佐藤栄作首相が現職として初めて広島平和式典に参列。
広島平和記念式典は原爆犠牲者を追悼し核廃絶を訴える重要な行事である。これまで現職首相は参列を控えてきたが、佐藤栄作首相は1971年に初めて式典に参列し、追悼の辞を述べた。この出席は国内外に強い平和への決意を示し、日本の戦後平和外交の象徴となった。市民や被爆者からも高い評価を受け、以後の首相参列を常態化させる契機となった。政治指導者としての平和への姿勢を明確に示した歴史的瞬間であった。
1971年 佐藤榮作
1993年

土井たか子が衆議院議長に就任。日本の国会初の女性議長。

土井たか子が日本の衆議院史上初の女性議長として就任し、政治のジェンダー突破口となりました。
1993年8月6日、第40代衆議院議長に社会党の土井たか子が就任。 日本の国会における女性議長は史上初の出来事となった。 土井議長はこれまで女性国会議員の地位向上を訴え続けてきたリーダーであり、その選出は政治におけるジェンダー平等の象徴とされた。 議場では公正中立な議事運営が求められ、与野党の協調や議論の活性化に貢献した。 彼女の就任は、多くの女性に政治参加の道を示し、後の女性政治家の増加にも影響を与えた。
1993年 土井たか子 衆議院議長
1993年

特別国会にて細川護熙が内閣総理大臣に指名される(細川内閣)。1955年体制が崩壊し、38年ぶりの非自民党政権が確定。

細川護熙が38年ぶりの非自民党政権を樹立し、1955年体制を崩壊させた歴史的瞬間です。
1993年8月6日、特別国会で細川護熙が内閣総理大臣に指名され、細川内閣が発足。 この政権は自由・社民・新生党など連立6党による非自民党政権として成立し、1955年体制を終焉へ導いた。 細川首相は政治改革や構造改革を掲げ、汚職根絶や行政改革に着手。 従来の長期政権体制からの転換点とされ、新たな政界再編のきっかけとなった。 しかし、連立内の対立や政策運営の難航など課題も多く、短期間で退陣に至った。
特別国会 細川護熙 内閣総理大臣 細川内閣 1955年体制