1265年
第2次バロン戦争: イーヴシャムの戦い
1265年、第二次バロン戦争中のイーヴシャムの戦いが行われました。
1265年8月4日、イングランド内戦の一環である第二次バロン戦争で、王党派と反乱貴族がイーヴシャムで激突しました。
シモン・ド・モンフォール率いる反乱軍を討伐するため、ヘンリー3世の息子エドワード(後のエドワード1世)が率いる王党派が出陣しました。
戦闘は迅速に決着し、ド・モンフォールは戦死、反乱は大きく鎮圧されました。
この勝利により王権は回復され、イングランドにおける貴族制と王権の勢力バランスに大きな影響を与えました。
イーヴシャムの戦いは、中世イングランド政治の転換点とされています。
1265年
第2次バロン戦争
イーヴシャムの戦い
1578年
アルカセル・キビールの戦い。ポルトガルがモロッコに敗れ、ポルトガル王セバスティアン1世が戦死。
1578年、アルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍が敗れ、国王セバスティアン1世が戦死しました。
1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビール近郊でポルトガル王セバスティアン1世が遠征軍を率いてモロッコ軍と衝突しました。
セバスティアン1世は異教徒討伐と領土拡大を目的に遠征を決行しましたが、戦術的に劣勢となり戦場で戦死しました。
遠征の惨敗はポルトガル国内に大きな衝撃を与え、藩主不在による王位継承問題を招きました。
その後、ポルトガルはスペインによるイベリア同君連合下に置かれ、主権を失う時代に突入しました。
アルカセル・キビールの戦いはポルトガル王国の歴史における転換点となりました。
1578年
アルカセル・キビールの戦い
セバスティアン1世
天正18年7月5日
北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。
1590年、小田原征伐で北条氏直が降伏し、豊臣秀吉による天下統一が完成しました。
天正18年7月5日(1590年8月4日)、豊臣秀吉の軍勢は小田原城を包囲し、北条氏直は無血降伏しました。
同日に開城した小田原城の開城は、北条氏による関東支配の終焉を意味しました。
これにより、豊臣政権は全国的な支配を確立し、実質的な天下統一を達成しました。
秀吉は領国を再編成し、大名に検地や刀狩などの政策を通じて中央集権体制を強化しました。
小田原征伐は戦国時代終焉の象徴として、近世日本の安定へとつながる歴史的事件です。
1590年
天正
7月5日
北条氏直
豊臣秀吉
小田原城
小田原征伐
天下統一
1704年
スペイン継承戦争: ジブラルタルがイギリスとオランダにより占領される。(ジブラルタルの占領)
1704年、スペイン継承戦争中にイギリス・オランダ連合軍がジブラルタルを占領しました。
1704年8月4日、スペイン継承戦争の一環として、イギリス・オランダ連合艦隊がジブラルタルを攻撃し占領しました。
戦略的要衝であるジブラルタルは地中海と大西洋を結ぶ航路を抑える重要拠点でした。
占領後、連合軍は防衛線を構築し、スペイン王立軍の反撃を退けました。
1713年のユトレヒト条約でイギリス領として正式に認められ、現在に至るまでイギリス海外領土となっています。
ジブラルタル占領は地政学的な影響を大きく及ぼした軍事作戦のひとつです。
1704年
スペイン継承戦争
ジブラルタル
ジブラルタルの占領
1914年
第一次世界大戦: ドイツ帝国がベルギーに宣戦布告。それに対抗してイギリスがドイツ帝国に宣戦布告。
ドイツ帝国とイギリスが相次いで宣戦布告し、第一次世界大戦が拡大した日。
1914年8月4日、ドイツ帝国がベルギーに宣戦布告し、その後イギリスがドイツ帝国に対して宣戦布告を行いました。
ベルギー侵攻は1907年条約による中立国の保護義務を破る行為とされ、イギリス参戦の大きな口実となりました。
これによりヨーロッパ全域が戦火に包まれ、多国間の同盟関係が動員されて大規模戦争へと発展しました。
戦線は西部戦線と東部戦線に二分され、塹壕戦や近代兵器の組み合わせが新たな戦術を生み出しました。
こうして第一次世界大戦は全世界を巻き込む大規模な紛争へと拡大し、20世紀の歴史に深い爪痕を残しました。
1914年
第一次世界大戦
ドイツ帝国
ベルギー
宣戦布告
イギリス
宣戦布告
1914年
金剛型巡洋戦艦の2番艦「比叡」が竣工。
金剛型巡洋戦艦2番艦「比叡」が竣工し、日本海軍の戦力が強化された日。
1914年8月4日、イギリスで建造された金剛型巡洋戦艦の2番艦「比叡」が竣工しました。
金剛級は日本海軍初の高速戦艦として設計され、当時最先端のタービン推進装置と高速火砲を搭載していました。
比叡は欧州の造船所で建造され、竣工後に日本に回航されると太平洋での艦隊運用に参加しました。
高い速力と強力な装甲により、日露戦争後の海軍近代化を象徴する艦として位置付けられました。
その後、比叡は第一次世界大戦や第二次世界大戦前夜の東アジア海域で重要な役割を果たしました。
金剛型巡洋戦艦
比叡
1917年
第一次世界大戦: リベリアがドイツ帝国に宣戦布告。
リベリアがドイツ帝国に宣戦布告し、第一次世界大戦への参戦国が増えた日。
1917年8月4日、アフリカ西部のリベリア共和国がドイツ帝国に対して宣戦布告しました。
リベリアはアメリカの影響下にあったことから、連合国側への参加を表明する形となりました。
この宣戦布告によりリベリアは第一次世界大戦に正式参戦し、大西洋での海上輸送保護などに協力しました。
戦争への参加はリベリア国内の政治・経済にも影響を与え、戦後の国際社会での地位向上を図る契機ともなりました。
小国ながらも連合国の一員として参戦したリベリアの決断は、戦争の国際的広がりを示す一例です。
1917年
リベリア
1944年
ホロコースト: アムステルダムの隠れ家に潜伏していたアンネ・フランクら8名のユダヤ人がアムステルダム駐留軍保安警察に逮捕される。
1944年、アンネ・フランクらユダヤ人一家がアムステルダムの潜伏先でドイツ軍に逮捕された悲劇的な出来事です。
ホロコースト期の1944年8月4日、アンネ・フランクと家族を含む8名のユダヤ人がアムステルダム北部の隠れ家でゲシュタポに逮捕されました。
隠れ家はクワーク通り263番地に位置し、フランク一家の日記にも詳細が記録されています。
逮捕後、彼らは強制収容所に送られ、多くが命を落としました。
アンネが残した日記は後に発見され、ホロコーストの悲惨さを世界に伝える重要な証言となっています。
この事件は、戦争と差別の恐怖を象徴する出来事として語り継がれ続けています。
1944年
ホロコースト
アムステルダム
アンネ・フランク
ユダヤ人
1944年
第二次世界大戦: 小磯内閣が「国民総武装」を閣議決定。竹槍訓練などがはじまる。
1944年、小磯内閣が総力戦体制を強化するため国民総武装を閣議決定し、竹槍訓練などの国民動員が本格化しました。
第二次世界大戦末期の1944年8月4日、小磯国昭首相率いる内閣は国民総武装を閣議決定。
軍需生産の遅れと連合軍の進撃を受け、一般市民にも武器携行を義務付ける方針を採りました。
これにより竹槍訓練が全国で実施され、学校や町内会でも動員が行われました。
民間人の即席防衛組織は組織的訓練を欠き、多くの混乱を招きました。
この決定は戦時下の日本社会に大きな影響を与え、戦後も戦争責任の議論を呼び起こしました。
第二次世界大戦
小磯内閣
1944年
第二次世界大戦: 東京から学童集団疎開の第一陣が出発する。
1944年、東京の学童集団疎開の第一陣が出発し、空襲から子どもたちを守る疎開政策が本格化しました。
戦況激化に伴い、東京都は学童疎開を実施し1944年8月4日に第一陣となる約2000人が出発しました。
子どもたちは各地の農村や親戚宅に送られ、集団生活を始めます。
疎開先では食糧不足や宿泊施設不足などの困難があったものの、空襲の危険からは一旦逃れました。
家族と離れ離れになる寂しさや現地での生活適応は大きなストレスとなりました。
この学童疎開は戦時下の日本社会に深い影響を与え、戦後の教育・福祉政策に教訓を残しました。
疎開
1975年
日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館等を占拠。(クアラルンプール事件)
日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールの米国大使館などを占拠し、国際テロ事件を引き起こした。
1975年8月4日、日本赤軍はマレーシアの首都クアラルンプールにあるアメリカ合衆国大使館や外国企業オフィスを襲撃し、人質を取って立てこもった。これによりマレーシア政府と犯行グループの交渉が行われ、解放条件や身代金の支払いなどが模索された。最終的に人質は解放されたが、国際社会における過激派テロ活動の深刻さが浮き彫りになった。本事件は「クアラルンプール事件」と呼ばれ、日本赤軍の国際的ネットワークとテロ手法が注目される契機となった。
1975年
日本赤軍
マレーシア
クアラルンプール
クアラルンプール事件