1892年
リジー・ボーデンの実父と継母が自宅で殺害されているのが発見される。
リジー・ボーデン事件の発端となる両親殺害が発覚した日。
1892年8月4日、米国マサチューセッツ州フォールリバーの自宅で実父アンドリュー・ボーデンと継母アビー・ボーデンの遺体が斧で惨殺された状態で発見されました。
当時21歳の娘リジー・ボーデンは容疑者としてマスコミの注目を集めますが、証拠不十分で最終的に無罪判決となりました。
この“斧殺人事件”は謎めいた動機と大胆な手口で世間を震撼させ、20世紀初頭のアメリカ犯罪史に残る“リジー・ボーデン事件”として知られています。
以後も数々のノンフィクションや映画、戯曲の題材となり、ポップカルチャーにも強い影響を与え続けています。
1892年
リジー・ボーデン
1899年
日本初のビヤホール「恵比寿ビール BEER HALL」が東京府京橋区南金六町5番地(現在の銀座8丁目)に開業。
日本初のビヤホールが銀座に誕生した日。
1899年8月4日、東京・京橋区南金六町(現在の銀座8丁目)に日本初のビヤホール「恵比寿ビール BEER HALL」がオープンしました。
当時はまだビール文化が定着しておらず、洋風の社交場として注目を集めました。
運営はヱビスビールを製造する日本麦酒株式会社が行い、ドイツのビアホールを模した内装や飲食メニューが人気を博しました。
庶民の間にビール文化が広がり始めた契機となり、後の大衆飲酒文化の礎となりました。
現在の銀座エリアにおける飲食店文化の先駆けとしても評価されています。
日本初
ビヤホール
銀座
1944年
第二次世界大戦: 東京から学童集団疎開の第一陣が出発する。
1944年、東京の学童集団疎開の第一陣が出発し、空襲から子どもたちを守る疎開政策が本格化しました。
戦況激化に伴い、東京都は学童疎開を実施し1944年8月4日に第一陣となる約2000人が出発しました。
子どもたちは各地の農村や親戚宅に送られ、集団生活を始めます。
疎開先では食糧不足や宿泊施設不足などの困難があったものの、空襲の危険からは一旦逃れました。
家族と離れ離れになる寂しさや現地での生活適応は大きなストレスとなりました。
この学童疎開は戦時下の日本社会に深い影響を与え、戦後の教育・福祉政策に教訓を残しました。
疎開
1962年
「TVガイド」創刊。創刊号の表紙は高橋圭三。
週刊テレビ番組情報誌『TVガイド』が創刊され、テレビ視聴文化に新たな情報媒体が登場した。
1962年8月4日、東京ニュース通信社(現東京ニュース通信社)が日本初のテレビ番組情報誌『TVガイド』を創刊した。創刊号の表紙には俳優の高橋圭三が登場し、当時のテレビ人気を象徴している。本誌は国内各局の番組表、出演者インタビュー、最新ドラマ情報などを掲載し、テレビ視聴のガイドブックとして高い支持を得た。以後、週刊誌の先駆けとして定期刊行を継続し、テレビ文化とファンコミュニティの成長に貢献した。
1962年
TVガイド
高橋圭三
2011年
セシウムさん騒動: 東海テレビが『ぴーかんテレビ』で岩手米に関する放送事故を起こす。これに伴い同番組は打ち切られることになった。
2011年8月4日、東海テレビの情報番組『ぴーかんテレビ』が岩手米に関する放送事故を起こしました。
岩手県産の米を『セシウムさん』と誤って表記し、放射性物質を連想させる表現が問題視されました。
番組では誤表示の字幕が数秒間放映され、視聴者から抗議が相次ぎました。
東海テレビは直ちに番組を打ち切り、謝罪文を公表しました。
この騒動は放射能に敏感な当時の社会状況を反映し、メディアの表現責任が問われる事例となりました。
その後、東海テレビは放送倫理遵守のための社内研修を強化しました。
以降、同番組は再開されず、局の対応が評価と批判を同時に受けました。
2011年
セシウムさん騒動
東海テレビ
ぴーかんテレビ